友人が講義前の教室で熱心に何かに目を通していた。ただでさえ人相がいいとはいえない大きな図体が、眉間に皺を寄せ手元を睨む姿は威圧感がある。どうやら彼の周りに腰を下ろす勇気のある学生は居ないようだ。
それでも友人たる自分には、あの男がただ単に机上のリーフレットに集中しているだけなのだとわかった。ここは己が一肌脱ぎ、軽妙洒脱な話術でいつもより静かに思える教室に活気を戻す局面だろう。有洙川空汰はそう結論づけ、諏倭黒鋼へ声を掛けようと笑顔を作った。そしてその直後、手元の写真に思わず気を取られてしまった。
「あれ、寮は決まったんやなかったか?」
「ああ?」
どこからどう聞いても堅気ではない返事だが、これでも真っ当な大学生であり、春からはなんと教職に就く予定の男だ。この数年で意外に面倒見が良いことは承知していたが、本当に教師になってしまったのだから驚きである。
地方に住む父親は警察官らしく、本人も大学まで続けている剣道で名を馳せていたために、周囲からはてっきり同じ道を進むと思われていたようだ。そのあたりの事情は詳しくないものの、客観的に見ればこの巨躯と顔つき、そして腕っぷしは警察官に向いていると言わざるを得ない。
当然興味が湧いて、なぜ現在の進路を選んだのか聞いたことがある。返ってきたのは、「……意外とガキが嫌いじゃねぇことに気づいたからだ」という一言だった。まるで長いこと子どもと接する機会があったかのような口ぶりだ。
まだ二十を過ぎたばかりだというのに、地元の住職たちのようなどこか老成した雰囲気がある。この変わった友人を、空汰はなかなかに気に入っていた。
男の手元には、清潔感溢れる住居の写真が並んでいる。雇用主と既知の間柄だという職場に無事就職も決まり、そこの独身寮に入る予定だと聞いたのは少し前のことだ。空汰の就職先にはあいにくそのような福利厚生はなかったため、羨ましく思ったのを覚えている。
だというのになぜ今更こんな案内を見ているのだろう。何か問題でも起こしたのだろうか。よりにもよってこの男が?
だが不穏な雰囲気ではない。面差しが物騒なのはいつも通りとして、むしろあまり見たことがない表情を浮かべ言葉を探しているようだ。いつでも単刀直入な物言いの男に何があったのかと、好奇心を抑えつつ隣に座った。
「あー……、その、なんだ」
「おう」
「つまりだな……」
「なんやそんな歯切れが悪いの、珍しいわ」
「…………結婚することになった。今までの寮は独身者向けだったから、理事長に理由を説明しに行ったら大笑いされて社宅の案内をもらってきた。それだけだ」
時間をかけ、ようやく内容を理解した空汰が悲鳴を上げる寸前、間一髪のところで教授が姿を現した。もちろんその後の講義の内容が、一切頭に残らなかったのは言うまでもない。
急ぎ昼食を購入し、人気のない並木道のベンチまで男を引きずっていく。ツッコミどころしかない話の詳細を掘り下げるのは、友人として当然の権利だろう。たとえ相手から心底うんざりした顔で、「うるせぇ」と言われようともだ。
「恋人とかおらんかったやんな」
大学入学のため上京し一目見た瞬間恋に落ちた運命の女性に猛アタックした結果、数々の試練を乗り越え見事恋人の座に収まった自身とは異なり、黒鋼は浮ついた話とは一切無縁だったはずである。ある程度親しくなってから揶揄いでなく真面目に話を振ったときも、「結婚したいと思った奴に逢えたらする」とだけ返ってきたので、本当に修行僧のような男だなと思ったものだ。それにしては、節制のせの字もないほどの大酒呑みすぎるのだが。
「なら前言ってたような人に逢えたんか」
「……まぁな」
「なんや水臭いなぁ、どないな人なん?」
渋々といった体で頷くものの、その顔には隠し切れない充足感が浮かんでいる。なんだかこちらも嬉しくなり、馴れ初めを尋ねたのは当然の流れだった。こちらに紹介していなかっただけ、交際にまでは至っていなかっただけで、せめて一年くらいは前に出会ったものだと思い込んでいたのだ。
「先週の金曜!?」
「うるっせぇ!」
「先週の金曜っちゅうのはあれか? 一年前のちょうどその日とかいう……」
「何わけのわからねぇこと言ってんだ」
どちらかというとわけのわからないことを言っているのは黒鋼である。
相手が男なのはいい。大学生活でも男女共に一定の距離を保った関係を築いていたから、性別には拘らないタイプなのだろう。出身が外国というのもいい。この男の口から金髪碧眼といういかにもな身体的特徴が出てきたことには驚いたが、見た目で判断するような性格とは到底思えないので、これもまたお相手がたまたまそうだったというだけだろう。
「ほな先週この講義受けたあと、愛しのハニーと偶然出逢ってそのまま結婚したってことか……?」
眉間に深い深い皺が刻まれているが、「ハニーじゃねぇ!」としか言わないあたり、おおよそ当たっているのだろう。
「色々やることがあったから役所に行ったのは何日か経ってからだ。……あと完全に初対面ってわけでもねぇ」
言い訳のように付け足された情報はひとまず加味するが、それにしたって劇的すぎる。
「自分、意外と情熱的なんやなぁ……」
たとえ過去に面識があったとしても、出会って数日で交際や婚約すらすっ飛ばして結婚に至るとは思わなかった。しかも他でもない黒鋼がだ。
聞きたいことはたくさんある気がするのだが、情報量に圧倒されている。悔しいがこの有洙川空汰ともあろうものが、ツッコミで負けていると認めざるを得なかった。
「歳はいくつなん?」
「あ? そういや聞いてねぇな……、生年月日は届出の時見たが生まれ年までは覚えてねぇ。俺の親との挨拶でも歳より出身の話になってたしな」
「そこ聞いてないんかい!」
「院生って言ってたから何歳か上なんじゃねぇか。飛び級してたらわからん」
年齢も把握していない金髪碧眼の外国人と出会ったばかりで婚姻など、黒鋼以外なら間違いなく詐欺だとなりふり構わず止めている事態だ。しかし幸か不幸かこの当事者は黒鋼であり、話を聞いている限り、この疾風怒涛の入籍劇を主導したのもまた黒鋼のようだった。
「いやー人生何があるかわからへんなぁ……」
話を聞いただけなのに、まるで自分が何かを達成したかのような疲労感を覚えている。初めての経験に、ベンチへ深く沈みこむことしかできない。途中から味のわからなくなってしまった昼食に、心の中でそっと手を合わせる。
誰がどう見ても混迷を極めた状態だろうに、渦中の人物はすこぶる冷静だ。むしろ今まで以上に貫録が出たようにすら感じられる。まるで人知れず欠けていたものを、やっと埋めてみせたと言わんばかりだった。
つい聞き流してしまったが、しっかり地方のご両親への挨拶も済ませているらしい。なんとも行動力があることだ。あの黒鋼にそこまでさせる伴侶がどんな人なのか、気にならないはずがない。
「あー、今は忙しいやろうけど、落ち着いたら愛しの君に挨拶さしてや」
「ああ」
すげなく断られるかと思った本心からの誘いは、殊の外あっさり承諾された。
「まぁ、あいつも喜ぶだろ」
そう言って表情を緩める姿は、すっかり配偶者を得た落ち着きに満ちている。そんなところまでせっかちなのかと、この強面相手にもかかわらず、空汰はなんだか微笑ましくなってしまった。
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