いを
2026-02-04 19:06:34
1810文字
Public くらくら
 

すみいろてつがく


お返事用

 黒いひと、というよりも炭色のひと――というのが所見だった。墨汁の墨のほうが単語として似合っているかもしれない。すべては自分のひとりよがりな感想だけれど。ほんのすこし視線をさげて道代陶矢というひとの目を覗き込もうとしてやめた。シンクはやっぱり銀色だし、水垢があってところどころ凹んでいる。むかしからあるようなたたずまい。ひょいと頭を横にかたむけると、にぶい色が光った。LEDライトはいつまでも明るい。
「ひとと、けもの」
 鵼という名前のところどころは動物だ。野の獣。バラバラにたとえると猿と狸と虎と蛇。蛇は爬虫類だけれど、獣と仮定する。みな地面に足をつけ、靴などはかず、立派に弱肉強食や食物連鎖のなかで生きている。それらを区別して眺めているのが人間だ。
 大まかに言えばひともけものの一種だと考えている。
 ひとに備わっている理性が、けものにないかと問われれば「ない」ときっぱりと否定できるほど鵼は学んでいない。では、秩序は。野生のけものにも秩序はある。縄張りももちろんあれば群れ内にも決まりがあり、夫婦制度――一夫多妻制もあればひとりの雄につきひとりの雌しかもたない個体もいる。それはひとと同じだろう。
「そうですねぇ。獣の定義は全身に毛が生えて四つ足で歩く哺乳類。人間は、まあ、見ての通り全身に毛は生えていませんが四つ足で歩くひともいるでしょう。赤ん坊とか」
 指をおり、白っぽい壁を眺める。
「はっきり言えば、人間が獣だと定義したものが獣です。勝手なことですが。なので、人間にも獣みたいな人はいる。俺が先ほどいったことはそういうことです。なにも全身毛だらけで四つ足の生きものだけが獣ではない、というのが俺の考えというわけです」
 ちらと白衣の裾を見下ろす。すすけた汚れがついていた。はらえば拭えてしまうくらいの。
「生物学は俺の専門外なのでこれくらいしか言えませんが。哲学になぞらえれば、生きることと生命あるものすべてを価値あるものとして尊ぶこと。生命とは神に通ずる神秘的なものであり、生きんとする意思を敬うところに、普遍的な人類愛と倫理の核心がある。すべての生物には生きようとする意思がある。だから我々はすべての生物に対して畏敬の念を持って接しなければならない。アルベルト・シュヴァイツァーの言葉です」
 ひともけものも、生きるために生まれてきた。
 そしてすべての生命体は人間と同様に生きる権利を持っている。人間だけでなく、植物も、動物も。
「アンチドートであるあなた方にも、俺たち研究員にも、サカナにも一般の方々にも、そういった権利があります。むやみやたらに刈り取っていい命はない――はずが、今はこんな状況ですから。苦々や楽々を摂取すればたやすく奪える命がある。そこに倫理や畏敬や道徳があっても、なくても。では獣ははたしてそこまで苦悩するのかどうか? 俺は一応人間側ですから、獣の考えていることは分かりません。生物学上ヒトと分類される人にも、話がまったく通じない方もいますし、それも含めて」
 あごにゆびをあて、天井をながめる。目を合わせないほうが会話をしやすいからだ。みとめることは、互いにある一定の信頼関係がなければ得られない。彼が人と獣の違いを尋ねてきた時点で、相応の興味と関心はあるのかもしれないけれど。
 ポタリ、と水滴がシンクに落ちる音がやけに大きく響く。
「人は、常に人と人の関係があってこそ人間たり得るものであって、決して孤立した個人的な存在ではない。孤独を感じるのにも、他人が必要ですから」
 そうして、ゆっくりと彼の横顔をながめた。こちらからは目もとは見えないが、なだらかな皮膚がみとめられる。このひとはおいくつだっただろうと考えたが、彼の興味を小指の先ほどでも満たせたならそれでいい。共通の思考に年齢など関係ないだろう。
 おもむろに指をこめかみ付近のピンにふれた。考え込むときの癖だ。顔見知りくらいのひとの前で考え込むのは無礼だろうか。
「俺はあまりよい人間ではありませんけれど、自分の考えをひとさまに押しつけることはしません。軽く参考適度に聞き流していただければ」
 くちびるをゆるめ、すみませんと謝る。ずいぶんとなめらかに、自分勝手に伝えてしまったものだ。

 ――俺は本当は、心根のやさしいひとになりたかったのだ。
 見ぬふりをしていた思考が、ゆっくりとこころを撫でた。