なえつき
2023-08-20 02:17:35
3844文字
Public 『うちの上司は情緒がヤバい』
 

『真夏と祖母と蝉時雨』

『うちの上司は情緒がヤバい』の2次創作小説です。中学時代の安定緒と安定祖母のお話です。一色ひかるも登場します。不笠䙥花も匂わせ程度に出てきます。

 八月は中旬。天気は快晴。猛暑日。
 じりじりと照りつける太陽と、吸い込まれるような広い広い青。
 時折吹く熱風が、私の長い黒髪を揺らしていく。
 そんな真夏の只中。口を開けてぼうっと空を眺めていたら、不意に懐かしい幻聴が耳に響いた。

ーー緒ちゃん、そんなボケっと口開けてると、口から魂抜けちまうよ。

 いつか聞いた、今はもういない、祖母の一言で思い出す。
 あれは私が中学生の頃、夏休みに母の実家へ行った日のことを。
 まだ今ほどは髪が伸びていなくて、背丈もそれほど高くはなくて、数年後に訪れる絶望なんて想像すらしなかった頃の思い出を。

 ◆

 あの日も死にそうなくらい暑くて、祖母の家の縁側に座って涼んでいた私は、ぼんやりと口を開けながら空を見上げていた。
 そんな折、祖母が声をかけてきて、私の口にきゅうりを突っ込んだのだった。私はきゅうりを咥えたまま抗議する。
「ふぁひふふほ(なにするの)」
「いいから食べな」
 もごもごと口を動かす私に向けられた祖母の口調は穏やかだが、有無を言わせない迫力があった。
…………ふぁひ(はい)」
 言われた通りにきゅうりをかじると、噛む度に水が口の中で弾けた。ごつごつした見た目とは裏腹な瑞々しさに目を丸くする。そんな私の表情を見た祖母は、満足そうに微笑む。
「どうだい緒ちゃん、お味は?」
「おいしい」
「そりゃそうさ。おばあちゃんのお野菜は今年も力作揃いだからねえ。そんじょそこらの雑魚農家共とは格が違うのさ格が。イーヒッヒッヒッ!」
「ーーなるほど」
 当時、なぜか周辺の農家たちから妙に鋭い視線を感じていた理由が分かった瞬間だったのだが、まあそれはともかく。
 祖母が私の隣に座る。しばらく、ふたりで黙って外を眺めていた。
 風が吹き、風鈴がちりんと鳴る。
 私の短い黒髪が揺れ、毛先が首元をくすぐった。
「余程のことがなければ、食うには困らない。ーーいい時代だねえ」
 ぼそりと祖母が呟く。
 隣を伺う。どこか遠く、今ではないどこかを見ているような横顔。
 ほんの十数年しか生きていない私にはきっと理解できない、実感のこもった重みのある言葉に、私は何も言えない。
 祖母は手を伸ばせば触れられる距離にいるはずなのに、手を伸ばしてもどこにも届かない場所にいるような、深い断絶が私たちの間にはあって。……その事実が、どうしようもなくやりきれなくて、もどかしかった。
 そんな戸惑いを見透かすように、祖母が私の手をゆっくりと握る。
 あるいは未来を見渡すように、祖母が私の目をじっと見つめる。
「ねえ緒ちゃん。食べることは、生きることだよ」
 触れた手は温かく、穏やかで、和やかだ。
 やかましい蝉時雨はこの時だけは遠く、祖母の優しい声だけが近く響く。
「ーーもしも。もしもの話さ。いつか緒ちゃんが、死んだほうがいいってくらい酷い目に遭って、どうしたらいいのかわからなくなる日がやってきたとしたらね………まずは、うん、食べることを選ぶんだよ」
……どうして?」
「だって気持ちの整理が着く前に死んじゃったら、ぜんぶができなくなっちゃうからねえ」
「ぜんぶって、たとえば?」
「そりゃあ………罪を許すことも、罪を許されることも。罰を与えることや、罰を受け入れることの、ぜんぶさ」
……よくわからない」
 いつかわかるさ、と祖母が寂しげに私の手を撫でる。
 玄関の方で、呼び鈴が鳴った。外出していた両親が帰ってきたのだろう。辺りはとっくに夕暮れに包まれていた。もうじき夜だ。
 よっこらしょ、と腰を上げる祖母を支えつつ、一緒に立ち上がる。
「さあ夕食だ。明日には帰るんだろう? せっかくなら孫のリクエストにでも応えようじゃないか。緒ちゃんは何食べたい?」
「うーん。……唐揚げかなぁ」
「って、昨日も同じだったじゃないかい。まあいいがね……
 ふたりで両親を迎えに廊下を歩いていく。祖母は私より頭半個分は身長が高い。軽く見上げながら、私はぽつりと「また来るよ」と口にした。祖母は嬉しそうにはにかむ。
「いつでもおいで。次会うときは、緒ちゃん、髪も背丈もずっと伸びてるだろうからねえ……楽しみだよ」
「いや流石にそんな急激な変化は訪れないから期待しないでほしい」
「いやいや。うちの家系は代々高身長だからねえ。竹の子みたいにびゅんびゅん伸びるよ、せいぜい覚悟しな。ヒャッーハッハッハッ!」
「いやいやいや……っていうか、おばあちゃんの偶に出るそのステレオタイプな魔女みてえな笑い方もまさか遺伝なの? それ、情緒不安定過ぎて怖くてヤなんだけど私」

  ◆
 
 コンビニの外壁に背中を預けていた私は、口を開けてぼうっと、空を眺める。
 ……結局、約束は果たされることはなかった。悔しくも急激に伸びてしまった背丈と、長髪を祖母に見せるという約束は。
 あの夏が終わると同時に祖母が亡くなったからだ。老衰だった。
 だから果たされなかった約束は、永遠にあの夏を彷徨っている。
 ーーそれがまあ、祖母と交わした“二つ目の約束”の結末。
 もう一つの約束の方はというとーー
「んぐっ」
 不意に、私の口の中へ冷たいものが突っ込まれる。舐めると甘い。棒アイスだった。
 いつの間にか、目の前に一人の女の子が仁王立ちしていた。
 それはコンビニで買い物を済ませてきた後輩の一色ひかるであり、今まさに私の口内へと棒アイスを突っ込んだ犯人であった。
 私は棒アイスを咥えたまま抗議する。
「ふぁひふふほ(なにするの)」
「先輩が何言ってるか分かんないんで、とっとと食べてください」
「ふぁひ(はい)」
 どことなく拗ねたような口ぶりで、至極最もなコトを言う一色。それに従って、棒アイスを咥えたまま舐め続けること数秒。
 ……いや、いったん手で持てば良いのでは? なんでずっと咥えたまま棒アイス食べなきゃいけないんだよ。修行?
 口を自由してから、もう一度尋ねる。
「なにするの」
「だって先輩、何度も声掛けても返事ないし……ぼけっと口開いてたから魂抜けちゃったのかなって……
「ふふっ」
「ちょっ⁉ 先輩、今なんで笑ったんですかーッ!」
 むすっと唇を尖らせる一色には悪いけれど、あまりにも聞き覚えのある一言だったものだから私は笑ってしまい、なにを勘違いしたのか一色がますます声を荒らげた。
「後輩、なんかテンション高いね。どうした?」
「怒ってるんですよ! この件に関しては……っていうかこの件に関して“も”、先輩が百パー悪いんですからね! それもこれもお昼休憩に私がご飯買いに行くって言ったらーー」

ーー後輩、コンビニ行くの? 一緒に行っていい?

「って言うから、ああ先輩もご飯忘れちゃったんだなって思ったんですよ! 私は! なのに先輩ったら途中でーー」

ーーあ。やっば。そういえば私、もうお昼食ってたわ。ごめん先帰るね。

……とか言い出すのが悪いんですからねーッ!」
「え~! なにソイツひっど! とっちめてやろうよ後輩~! ああ私だったわ……
「そうですね先輩ですねもうヤダこの先輩!!」
「ははは。……ところで後輩」
 もううんざり、という気持ちが思いっきり顔に出る後輩をじっと見つめ続ける。
「な、なんですか。顔が良いからっていつも許されると思わないでくださいね!」
 すると不思議なことに、怒り心頭だった一色の表情がみるみるうちに解れ、ふにゃふにゃとニヤける。
 私は言った。
「やっぱり私も今からご飯買ってくるっていったら、怒る?」
「えっ」
 また怒るかと思いきや、呆気に取られた顔をする一色。
「後輩? おーい」
 動きが停止した後輩の顔の前で、溶けかけの棒アイスを振る。
 数秒経ってから、一色がおそるおそる、という雰囲気で私に聞き返す。
「ご飯って……またあの泥みたいなやつでは、なく?」
「泥じゃないよ。立派な完全栄養食品だよ。……いや、でもたまにはおにぎりとか、野菜とか、食べようかなって思っただけで……後輩?」
 幽霊でも見たんじゃないかってくらい目を剥いた後輩が、目にも止まらぬ速さでスマホを取り出し、
「不笠先輩! もしもし! 不笠先輩! 聞こえますか! 安定先輩が今! おにぎりとか野菜とか食べるって!!」
「ちょーー」
「え? 聞き間違いではないです! いや、幻聴とかでもないです! 妄想じゃないです!」
……待って待って後輩! そ、そういうのいいから! こら!」
 
 八月は中旬。天気は快晴。猛暑日。
 じりじりと照りつける太陽と、吸い込まれるような広い広い青の下。
 時折吹く熱風が、中学生の頃よりも随分と伸びた、私の長い黒髪を揺らしていく。
 そんな真夏の只中で、一色から貰った棒アイスを頬張る。
 そこからは懐かしい味がした。
 きゅうりと棒アイスでは食感も味覚もぜんぜん違うけれど、そうではなく。
 食感ではなく記憶が。味覚ではなく思いやりが。
 ーーいつか聞いた、今はもういない祖母との、“一つ目の約束”を私は思う。
 あれから私は死んだほうがマシってくらい酷い目に遭って、どうしたらいいのかわからなくなった日があって。……今もまだ、絶望に囚われたままで。生きていいのかさえわからなくて、消えたくて、死にたくて。
 それでもまだ、こうして私は今日を生きているのは、きっと。