なえつき
2022-08-29 20:05:24
1174文字
Public 『うちの上司は情緒がヤバい』
 

安定緒SS

『うちの上司は情緒がヤバい』の2次創作小説です。

 両親が亡くなったことを知ったのは大晦日の夜だった。
 大学受験を控えた高校三年生の冬休み、両親を乗せた旅客機が墜落したという速報がテレビで流れていた。映像がコマーシャルに切り替わった後も呆然とテレビを眺め続けていたら、いつのまにか年は変わっていた。華やかな正月特番の笑い声と、繰り返し再生されるセンセーショナルな報道に、脳内をかき混ぜられるような気分に耐えられなくて、ふらりと家を飛び出した。
 薄らと積もった雪は水っぽい。サンダルを履いてきたから、靴下はあっという間に濡れてしまった。足に染み込む水は冷たく、吐く息は白くて、そして…………酷く、寒い。
 ああ、まったく。こんなにも私の身体は正常に機能している。
 それなのに。
 ……ふと、繁華街から微かに聞こえてきた歌声が耳を掠めて、足を止めた。俯けていた顔を上げる。痛いほどにギラギラと輝く街灯とイルミネーションが眩しくて、思わず目を細める。
 見れば、駅前の広場で小規模の合唱団が演奏会を開いていた。なんとはなしに耳を傾ける。浮足立った賑わいに混ざって流れる、力強くて華やかなメロディ。クラシックには疎いけれど、有名な楽曲だから名前くらいは知っていた――『歓喜の歌』。
……あ」
 どくん、と心臓が大きな波を打つ。
 今まで足元ばかり眺めていたものだから、街の様子が微塵も目に入っていなかった。
 これからお参りに行くのだろう、綺麗な着物を着た子どもと夫婦が通り過ぎていく。心地よい酩酊に身を任せてふらつく若者たちが通り過ぎていく。仲睦まじく手を繋ぐ恋人たちが通り過ぎていく。誰も彼もが笑顔を浮かべて、私の横を通り過ぎていく。
 今更ながら気づいてしまった。街は人々の歓びに満ちていて――あの輪のなかに、私がいないということを。今まで実感を持てていなかった両親の死という出来事が、私の中で急速に現実味を帯びていく。
 どくどくどくと、鼓動は加速する。上手く息を吸えなくて気持ち悪い。こんなにも身体は正しく悲しみを表現しようとしている。それなのに、私は――
――どうして、涙が流れないんだろう」
 ぽそりと口にした呟きは喧騒に紛れ、誰にも気づかれずにかき消える。なんでもない素振りで再び歩き出し、幸福に溢れる人の波に足を向けかけて、首を振る。
……そんなことしたって、もうみんなと同じにはなれないのにね」
 すぐに思い直し、すっと賑やかな路地を離れる。人の絶えた遊歩道は物悲しいほど静かで、歌はまったく聞こえない。
 見上げた空には月はなく、灰のような雪が宙を舞う。ぽつぽつと点在する街灯に沿って、もう私だけのものになってしまった家を目指しながら、苦々しく笑い、思う。
 ――――あまりにも美しい音色に顔を上げさえしなければ、こんな惨めな気持ちにはならずに済んだのに――――と。