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つきりま
2024-01-06 22:58:16
2664文字
Public
サングラ
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乞いを結ぶ
具合の悪いサンダルフォンの話。
実はサンダルフォンの部屋を訪れることは稀である。
招かれたことがないし、大抵彼のほうがこちらの部屋に来てくれるのだ。コーヒーを持って、たまに菓子を添えて、高いヒールの音を響かせながら、少し不機嫌そうな顔をして。うっすらと寄った眉間のシワが、いつもなんとなく好もしいことは言わないでいる。言ったらきっと、来てくれなくなることを、知っているから。
そんないつもの小さな幸を噛みしめるように歩を進め、廊下の奥へと進んでいく。奥まった部屋を希望したのは彼だった。とはいえ、眠るためだけに使っているようなものらしく、彼は一日のほとんどを、彼のためのカフェスペースで過ごしている。コーヒーの研究をし、メニューに頭を悩ませているのだ。
そして、そうでないときは外にいるか、グランの部屋にいた。
扉の前に立つ。ほんのりとした緊張が手のひらを湿らせる。ノックは三回がマナーだと、そういうことに厳しい誰かが言っていた。その通りに、叩く。数秒、待ってみた。声は返らない。だが、いることは知っていた。
「入るよ」
告げる。中の気配が身じろいだ気がした。知ったことではない。鍵のかかっていない、無用心なドアノブは簡単に回った。
湿気たにおいがする。窓を開けたほうがいいだろう。つかつかと踏み入れ、締め切られたカーテン、窓の順に開け放つ。いまこの窓は北向きだから、陽光は入らなかったが、やんわりとした冷たい風が心地よく湿度を払っていった。
室内を見回して、ため息。机の上には埃が積もっていた。風で舞い上がるそれを、掃除するのは次の機会だ。
「そんなにつらいならいつもみたいに外に出てたらよかったのに」
椅子もすっかり埃で白くなっていたので、遠慮なくベッドに腰掛ける。部屋の主はすぐそばで小さく丸くなっていた。今日はどうやら、いつもより艇酔いがひどいらしい。頭からすっぽりと布団を被り、その表情すら窺えない。
こういうときに、コーヒーはあまり良くないのだという。なんでも入っている成分がなんとか、かんとか。聞いたけれど詳しくは覚えなかった。覚えたくなかったのではない。何度でも教えてほしかったのだ。
グランは左手に持ったボトルをそっと枕元に置いた。
「気持ち悪いときに飲むとすっきりするお茶だって。さっき食堂で淹れてきたばかりだから、少し熱いかもしれないけど気が向いたら飲んでみて」
反応はない。寂しくはないが、つまらなくはあった。
ああ、よくない。これは、こんなのは、あまりに身勝手な、わがままだ。
グランは別に、頼まれてここにいるのではない。勝手に心配して、勝手に行動して、勝手にここまでやってきたのだ。具合が悪い相手に、何かを期待することなど、あってはならないことなのだと、よく知っていた。
眉が寄る。ぎゅうっときつく、きつく。漏れるため息は自分を諫める鎖となって首のあたりにまとわりついた。耐えきれずに体を横に倒すと、背中がぬくくてほっとした。
まぶたを落とせば、そのまま寝入ってしまえそうな心地だった。風の音と、微かな呼吸音がやさしく室内を満たしている。本当は、もっといろんな音にあふれているのだろうけれど、ただそれだけに耳を澄ましていることにした。
「次の島にはおいしいカフェがあるんだって。ルリアたちが話してたよ。研究がてら行ってみようね」
独り言のように、こぼす。とろとろと溶けてしまいそうな声色は、すでに半分夢の中に落ちていた。構わない。彼の隣で眠るのは、気分がいいのだ。だから、これでいい。
「それから君の部屋に、一枚、絵でも飾りたいな。小さいやつでいいからさ、絵葉書でもいいけど。カーテンの色もさ、君の好きなのに変えようよ。せっかくの君の場所なんだから、もう少しさ、君らしい部屋にしたいんだよね」
もしかしたらサンダルフォンは、嫌がるかもしれない。ここに、この艇に、必要以上に居場所を作ってしまうことを、嫌うかもしれない。とはいえそんなもの、今更だとグランは知っているし、彼自身もきっと、理解していることだろう。
だからおそらく、大丈夫だ。連れ回して、選択を迫っても、最後は必ず、折れてくれる。
「ねえ、サンダルフォン」
グランは抑揚なく呼びかける。
「
——
君はもう、かけがえのないものを持ってるのかもしれないけれど、きっとそれって、一つじゃなくていいと思うんだよね」
それは、願いだった。もっとたくさん、手に余るほど、彼が埋もれてしまうほど
——
大切なものを手にすることを、グランは心底願っていた。
彼が、ずっと寂しくないように。
彼が、絶望してしまわないように。
彼が、前を向き続けられるように。
彼が、かれ、が、
「サンダルフォン」
呼ぶ。繰り返し、繰り返し。その名前を、音にする。
「君が、たとえ僕がいなくても、人の輪の中で笑っていられますように、なんてね」
沈む夕日が世界を朱色に染めている。夜の帳が下りる前に、艇は目的の島へと降りた。
艇の揺れがなくなったことで、サンダルフォンはようやく身を起こす。風の冷たさが気になりはしたが、それはあとでいいだろう。枕元のボトルを手に取った。
すでに冷え切った茶を乾いた喉に流し込むと、すっと、胸の不快が晴らされる。
これを持ってきた少年は、穏やかな顔をして眠っていた。彼の来訪も、彼の独り言も、サンダルフォンはちゃんと覚えていた。意図せず、眉根が寄る。深々と刻まれるシワを、見咎める者はいまはいない。
その込み上げる腹立たしさの原因は、間違いなく〝独り言〟のせいであった。が、ここで少年を叩き起こしてなじったところで、何にもならないことを彼はよく理解していた。
ため息が漏れる。もう一口、茶を含み、瞬き。少年に、ブランケットをそっと掛ける。
「
……
グラン」
まるで苦痛など知らぬようないとけない顔をして眠るその様は、無垢の残酷さと一体だった。
サンダルフォンはふっと、彼の手に目をやった。武器を扱う者特有の傷やマメ、タコがよく目立っている。そこに刻まれた少年の歩みは、ここまでも、ここからも、決して穏やかではなく、やさしくもなく、何度だって災厄に見舞われるのだろうことは、考えずとも知れていた。
「心配しなくとも、君がいなくなったところで絶望するようなことはない」
それは確信だった。しかし、
「ただ、そう、おそらく
……
——
いや、なんでもない」
開けられた窓から、夕食のシチューの香りが運ばれてきていた。
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