バターは多めに。ボウルに卵を割り入れて溶きほぐしながら、ぼんやりと次の工程を思い浮かべる。牛乳大匙一杯。塩コショウをして、熱したフライパンに流し入れる。大きめの気泡を潰していき、揺すりながら形を整えて。チーズを入れてもよかったな、なんて今更少し遅い。上出来だろうと皿に盛りつけ、ケチャップの落書きはひとまず保留。
「野菜……うーん」
冷蔵庫を開ける。どれを使ってもいいと聞いているので目についたものを手に取っていく。レタス、トマト、キュウリ、夕食の残りのラタトゥイユ。手早く済ませないとオムレツが冷めてしまう。レタスをちぎり、トマトはくし切り、キュウリは斜めに薄く切って、ラタトゥイユは温めなくてもたぶんおいしい。
「んー」
ちょうど、食パンが焼けた。やっぱりバターはたっぷり塗りつけ、マーマレードは少し薄めに。ワンプレートの朝食。まあ、それなり。飲み物はさっき見つけたオレンジジュース。贅沢ぶってテーブルにランチョンを敷き、中央に皿を置いて手を合わせる。
誰もいないここは、本来は彼のテリトリーだけれど、気にしない。
オムレツ、ケチャップでなんと書こう。特に思い浮かばなくて、そのままぐしゃぐしゃと線を引いた。スプーンで一口。鼻腔を抜けるバターの香りがたまらなくて、頬がゆるむ。
早朝、ひとり。早い者はもう起き出しているころだろうけれど。艇内は底なしに静まり返っていて、朝靄の冷気が鋭く感じられる。なんとなく穏やかで、どことなく寂しいような。胸中がざわめき立つことはなくとも、ふっと穴が開く。
居心地がよくて、据わりが悪い。矛盾の中で齧ったトマトは、昨日作った傷口によく沁みた。
「ずいぶんと早いな」
あ、れ? 声がして、声の主を確認して、思わず噎せる。おかしいな、ヒールの音、しただろうか。トントンと胸を叩いて落ち着かせ、思い返してみても思い当たらない。
間近で聞かれる高い靴音は明朗に。疑いようもなく存在していた。
「さ、サンダルフォン……」
「なんだ、俺が来たのがそんなに不思議か?」
「そうじゃなくて、そうじゃなくてさ」
「君が気配に気づかないのも珍しい」
自分でも、そう思う。息を吐き、オレンジジュースに手を伸ばした。冷たい酸味が喉を落ちていくと、幾分か冴える。冴えた分だけ、気落ちする。
彼の来訪に、気づけないことなんてなかったのに。口に入れた食パンの、マーマレードがやたらに苦い。
「ちょっと考えごとしてただけ。――おはよう、サンダルフォン」
「……。ああ、おはよう」
一度キッチンに目をやり、逡巡してからサンダルフォンは向かいに腰かけた。コーヒーを淹れにきたのではないのだろうか。朝食を摂るつもりであるのなら、こちらではなく素直に食堂に向かうはずだ。首を傾げる。応えるように、鼻で笑う気配がした。
「なぜこちらで朝食を?」
問いかけたかったのは自分のほうだったのだが、仕方ない。
「みんなと違うもの食べてるの気づかれたくなかっただけ」
「ふむ?」
「久しぶりに自分で何か作りたくてさ。ほら、ここだと腕自慢が多いからあんまり自分で作る機会ってないでしょ。みんなの作るものに不満はないけど、たまにはね」
「物好きだな」
「なんとでも。ちょっと自分の好きなようにしたかったの。まあオムレツ焼いただけといえば、それだけなんだけど……」
たぶん出来栄えとしては、ローアインがこのあいだ作ってくれたオムレツに負ける。味も、形も、盛り付けも、何もかも劣る。けれど、慣れ親しんだ自分の味というのは、それだけで気分のいいものだ。
と。無遠慮な視線が、もう半分も残っていない皿に注がれている。どうにも、食べにくい。やっぱり苦いマーマレードを舌の上で転がしながら、眉根が寄るのは苦みのせいではなかった。
「なに? お腹すいてるなら食堂に行きなよ」
「別に」
「別にって……見られてると落ち着かないんだけど」
「気にしなければいいだろう」
「気にするから言ってるの」
スプーンを置く。顔を上げる。どうしてかサンダルフォンまで眉間に皺を刻んでいて、不満げな顔同士、鏡写しみたいに向き合う羽目になった。
「なんで君がそんな顔するのさ」
「君のほうこそなんだってそんなに不機嫌なんだ」
朝食を邪魔されてるからだ、と言えば簡単だが、実際特にサンダルフォンがちょっかいを掛けてきているわけでもない。ただ見ている。ただ、それだけ。彼の言うとおり、気にしなければそれで解決する話なのだ。いやいやけれど、しかし、だって。なぜ見るのか。面白くもないし、出来もよくないし、お世辞にも凝っているとは言い難いただの朝ご飯を、なぜ、そんなに、注視するのか。
「やっぱりお腹すいてるの?」
さっぱりわからず尋ねてみる。
「違う」
返されたのは怒りとも悲しみともつかない苛立ちの声色だった。
「じゃあなんなのさ」
もうお手上げだ。空腹でないのなら、一体全体なんだというのか。
「――……の分……って…」
「え?」
か細い声を、拾いそこなう。音だけ聞こえて訊き返し、ふと、サンダルフォンの耳だけ赤いことに気づいた。
「――っ! なんでもない」
「いや、なんでもなくないでしょ! え、なに、なんなんなのさ」
今度は全部赤くなる。首からうえ、全部。湯気でも出そうな、茹で蛸みたいだ。
「食事に行ってくるっ――!」
慌てた様子で立ち上がり、逃げるように足早に。乱れた靴音を響かせて、サンダルフォンが去っていく。追いかけることも、引き止めることもできないまま、見送ってしまったその背はすでにない。
「まさか、ね……?」
拾えた音だけ繋ぎ合わせて、何となくそれらしい言葉を編んでみる。まさかまさかと首を振り、口に含んだオムレツは、胡椒のかたまりがびりびりと辛かった。
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