医務室は薄暗い。消毒液のにおいだけに満たされていて、人の気配はどこにもなかった。なんとなく悪いことをしているような気持ちでカーテンの隙間から射す光だけを頼りに、戸棚を漁る。包帯と、消毒液と、ガーゼ。必要なものはそう多くない。問題はむしろ、誰もいないことのほう。
「あっ」
ふと、耳慣れた靴音がして慌てて廊下に顔を出す。ちょうど前を過ぎたばかりの人物は、グランが呼ぶ前に振り向いた。
「なんだ?」
「ちょうどよかった」
グランが手招くと、その人は素直にやってきた。なんだかちょっと犬っぽい。いや実際は、どちらかというと猫のほうが近いような気がするけれど。嫌な顔一つせず、自分に応じてくれる様がどうにもおかしくって、可愛らしく思われて、つい頬がゆるみかける。いけない、いけない。
「包帯巻き直すの、手伝ってくれない? サンダルフォン」
可愛い、なんて。頼みごとを聞いてもらうためには、絶対に悟られてはいけない。
「……昨日の傷か。まだ治らないのか?」
「君みたいに再生できるわけじゃないからね。もうだいぶよさそうだけど念のため」
「不便だな、人間は」
「そうでもないよ。これがあたりまえだもん」
グランは言いながら、サンダルフォンの顔色が曇る刹那を認めた。
意地の悪いことを言ってしまっただろうか。言ってしまったのだろう。そもそも治癒の術は人間だって多数持ち得ている。高度なものになれば、このくらいの傷はたちどころに癒してしまうどころか、命さえあれば吹き飛んだ腕も、失われた視界も、たとえどんなに深刻な状態であったとしても、元通りにすることすら可能なほどのものだってあるくらいだ。当然、そのレベルとなると扱える者も限られてくるわけだが、それはさておいて。人は決して、傷や病に対して無力ではない。サンダルフォンと違って機能として備えていないだけで、わざわざ包帯と薬を消耗する理由が、実のところかなり薄いのは事実だ。
だってこの艇、いろんな人が乗っているし。その中には治癒の術に長けたものだって決して少なくない。彼らに頼めばこんな傷を癒すことは、たぶん、朝飯前だ。
「別にさ……」
左腕の包帯を取りながら、グランはこぼす。
「綺麗事を言うわけじゃないんだけど」
「なんだ、はっきり言え」
消毒の準備をしていたサンダルフォンは、じれったそうに声を上げた。苛立ちの混じる棘のない声音は、どことなく気まずそうで、結局やさしい。
「何でもすぐに治せてしまうと思うと、どうしてもこう、傷が痛いことを忘れちゃいそうになるときがあるんだよね」
肘のあたりにすぱっと一筋に走っている傷のふちに指を滑らせる。走る痛みは微かなもので、傷自体もかなり浅い。すでに血も止まっているから、明日にはきっと包帯もいらなくなるだろう。少し、痕にはなるかもしれない。
「くだらない心配だな」
「そう?」
「痛みなんて、知らないほうがいい。長続きしないほうがいい。そういうものじゃないのか」
「それは、確かにそうかもしれないけどさ。でもそうじゃなくて」
「言いたいことは理解できる。だが、君の場合どうせ突っ込んでいくだろう。自分の痛みも、時には自分の命すら顧みずに、突っ走ってぼろぼろに傷ついて。そのくせ他人の痛みには人の何倍も敏感で。十分だろう。十分すぎる」
ぐっと、脱脂綿を押しつけられて、グランは思わず悲鳴を上げた。容赦なく傷口を洗われて、続くガーゼの感触は、異様なほどにやわらかい。
「君の場合、頓着するべきは後ろだ。君の後ろで、君を待つ者、君を追いかける者、そういうやつらの心にもっと配慮しろ。毎度毎度、君が突っ込んでいくたびにどれだけ肝が冷えるか――」
「サンダルフォンが?」
口を挟むと目が合った。グランはとっさに己の失言を呪う。
「君は、俺のことをなんだと?」
怒っている。怒らせた。なぜ? 瞬時に答えは出る。確かにひどいことを言ってしまった。ある意味の侮辱で、ある意味の、これは、そう、これは、
「え、あ、いや……あはは、はは……」
思わず、もれたのは乾いて空しい笑いだけだった。ああ、どうしよう、やってしまった。グランは目を逸らしたくて、けれどぎりぎりのところでそれを堪えていた。
「……ごめん」
ひとまず、何よりも、謝るべき、ことだった。心臓がぼんやりとうるさい。
「二度はないからな」
包帯の巻き終わりに、サンダルフォンが思いきりよく、傷をひっぱたく。
「っづ……!」
「その痛み、しっかり噛み締めておくといい」
悶絶するグランを置いて、サンダルフォンは立ち上がり、わざとかと思うほど高らかに、ヒールで床を打った。その靴音は、静寂の医務室によく響き、どこかひび割れたかなしみで場を満たした。
「別に、俺だけ、というわけでないことはわかっている」
けれど、去り際の彼の一言を、掻き消すには少々弱く、グランはその背を見送りながらため息を落とした。
「ごめんってば、サンダルフォン」
あとで、どうにか、機嫌を取ろう。彼を悲しませたままでいるのは、どうしたって、居心地が悪かった。
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