つきりま
2019-04-11 11:23:54
2758文字
Public サングラ
 

乞いを掬う

手が綺麗だねってぼんやりとした話。

「サンダルフォン、手貸して」
「何か用事か?」
「そうじゃなくて。右手でも左手でもいいから貸して」
 サンダルフォンは首を傾げた。グランはその刹那すら煩わしがって、彼の右手を無遠慮に取った。
 するりと、甲を撫でる。傷一つなく、シミも見当たらず、手荒れ知らずの青年の手は、しっとりとしてなめらかで、作り物のように綺麗だった。ちょうどこのあいだ見かけたビスクドールに近いような気がする。落っことしたら割れてしまいそう。実際は大抵の傷はすぐに再生してしまうから、脆くも弱くもないのだけれど。そして何より、ぬくい命の循環が、そこにはしっかりと宿っている。
 ――僕のとは、違う、手。
 すりすりと長い指の輪郭をなぞり、関節の位置を確かめる。いっそ頬ずりしたくなるものの、そこまではまだ許されていない。ひとしきり楽しんで、まだ名残惜しくて離せないでいると、頭上から声が降ってきた。
「なんなんだ、一体」
「ただ君の手元を見てたら触ってみたくなっただけ」
 サンダルフォンがさらに困惑する気配を感じて、グランは頬をゆるませた。
 コーヒー豆を挽いているときだとか、窓辺で本を読んでいるときだとか、このあいだ武器の手入れを手伝ってくれたときだとか。
 日々何気ない巡りの中で、ふと、目に入る、自分よりよっぽど華奢に見える長い指。どの所作を取っても完成されており、あまりに現実感の薄い、その、手。
 綺麗だな、と思ったら、汚してみたくなったのだ。
 否、汚れてくれるのか確認してみたくなったのだ。剣や銃を扱うおかげで皮が厚くて、当然タコも多くて、傷だらけの自分の手が触れることで、彼の美しさが損なわれるのなら、何やら嬉しいような気がしたのだ。
 蓋を開けてみればなんのその。変わることのない美はただグランの手の中に収まって、居心地悪そうに震えるばかりだ。
「綺麗な手だ。僕のとは全然違う」
「なんだ、嫌味か?」
「なんでそうひねて取るのさ。性格悪いなあ」
「お互いさまだろう」
「はあ? どこが」
「自分の胸に手を当てて聞いてみるといい」
 引き抜かれそうになる手を、反射で掴んで握り込む。
 まだだめ、もう少し。首を振ると盛大なため息がもたらされて、グランはさらに握る手に力を込めた。そういえば彼を救うためにその手を掴んだときが、ちょうどこんな感じだったような気がする。嘘。全然違う。けれど、離したくない、離すものか、と。その思いだけが似通っていた。
「離せ。痒い」
「そういうのはくすぐったいって言うの。いいじゃない、もう少しだけ」
「綺麗なだけの手なんて面白くもないだろう」
「別にそういう話じゃなく、て――え、ちょっと!」
 くるん。両手でしっかり包み込んでいたはずなのに、持ち返されて今度はグランが右手を奪われた。
 真似をするように線をなぞり、剣を握ってできたタコをしばらく擦ってから、ぐっと手のひらの中央を押していく。
「なに、なんなの、なにがしたいの?」
「なぜそんなに動揺する? 君がさっき俺にしていたことと何ら変わりないだろう」
「いやいやいや変わるって! サンダルフォンのと違って僕の手、綺麗じゃないし……
 離してほしくて抵抗しても、徒労に終わって愕然とする。本気で逃げようとすれば逃げられるのだろうけれど、サンダルフォンの顔を見ていたら、なんだかそんな気も失せてしまった。
「な、んでそんな顔、するの……
 苦虫を噛み潰したような顔。よく出てくる比喩が頭によぎる。寄せられた眉、据わった目、その視線がやけに刺さった。何かを紡ごうとする唇は開かれては真一文字に結び直されて、そこから声が発せられるまでには相当の時間を要した。
 体感にして、五分くらい。
「君の手は綺麗だ」
 心臓が跳ねる。グランは空いた左手を胸にあてて、そのやかましさに目を瞬かせた。
「俺のより、よっぽど、綺麗じゃないか」
 弓に慣れなかった頃にできた細い傷痕に、あんまりやさしく触れられて、首のうしろが熱くなる。
「嘘だ」
「本心だ」
「絶対、嘘」
「なぜ君が否定する」
「だって、そんな、決まってるじゃな」
「だから、なぜ、君がそうやって決めつける。俺の気持ちが、君のものだとでも?」
「ちがっ、そうじゃ、なくて……
 グランは右手を引いた。サンダルフォンは痛いくらいにそれを握り締めた。逃げられないまま、逃がさないまま、互いの隙間に沈黙が吊られる。その糸を切ったのはグランの震えたため息で、サンダルフォンが反射的に眉を寄せた。
 その顔、好きじゃない。嘘。別に嫌いでもない。やっぱり嘘。本当は、割と好きだ。ぐるりぐるる、と思考がうねる。早く何かを言わなければいけないのに、どうしてうまくまとまらず、仕方なし、正直な音を吐き出す覚悟を決める。
…………だって、その、傷だらけだし、荒れてるし、別に華奢でもないし」
 最後のだけは、精一杯の抵抗のつもりだった。想定通り、サンダルフォンの眉間の皺が深くなる。
「君の価値観についてはどうでもいいが――
「ちょっ、と!」
 ぐっと手を引かれ、体ごと引き寄せられて思わず声を上げる。
「言い方を変えよう。俺は、この手が好きだよ、グラン」
 猫が毛を逆立てるとき、というのは、何となくこんな感じなのだろうか。怒りではなく、羞恥で火が出そうなほど全身が熱くなって、沸騰する血液の巡りが皮膚の薄いところを駆けていく。隠しようがないほどに、顔も、耳も、首筋も朱に染まり、サンダルフォンにつかまれている右手はがくがくと震えていた。心臓を掴むようにシャツを掴む左手も、心音で震えているわけではないだろう。
「ば、ばか! サンダルフォンの、ばーかっ!」
 とっさに出てきた陳腐な罵倒が、一層恥ずかしくてグランは目を回した。
「なっ、せっかく褒めてやったのに、馬鹿とは何だ、馬鹿とは」
「ばーかばーか! なんでこんなときばっかり素直になるのさ! もう、さいあく!」
 それこそもうやけっぱちだ。グランは喚き、顔を覆った。
 ――ああ、もう、叶うなら。今すぐにでも逃げ出したい。
 果たして胸に浮かんだその思いは、決して偽りではなかった。しかし、どうして、彼はすでに、自分がいつだって逃げられる状態にあることを自覚しているはずだった。
 あとはそう、サンダルフォンを突き飛ばせばいいだけなのだ。
 それを混乱、と呼ぶのなら、確かに正解なのかもしれない。でも、さて、しかし、本当に――
「僕だって……。僕、だって」
 キッと涙目でサンダルフォンを見あげたグランは、意を決して彼の耳元に唇を寄せた。
「僕だって、君の――
 少年の意趣返しが成功したのか、否か。艇内の誰が、知ることもなかった。