オシカ・ナタの空は、今日も変わらぬ灰雲に覆われている。色の無い無味の風景の中で、玉座に座した『隊長』の体は、あの問答の日のままの変わらぬ姿で眠り続けていた。
だがしかし、その意識は眠りに落ち切っているわけではない。復興の落ち着いた夜神の国でやることもなくなった『隊長』は、この座している己の体を通して現世を覗き見ていた。たとえ眼下に広がるのがただの雲海だったとしても、仄暗い夜神の国を見続けるよりは幾分か気が紛れるのだ。
それに――もう一つ、時折訪れる客人を見る楽しみもあった。どうやら今日はその日らしい。
玉座に人影が近づく気配を察知して視界をつなげば、今日も今日とて一人の青年――オロルンが訪ねてきていた。高所を吹きすさぶ風にフードが煽られ、頭頂部の薄い耳が露になっている。
「こんにちは、隊長。今日は一段と冷えるな」
温暖なナタといえど季節の移り変わりはあり、今は一番冷え込む時期だ。オロルンはぶるりと身を震わせて風に脱がされていたフードを深く被りなおすと、背負っていた袋をとすんと玉座の前に下した。
一体今回は何をするつもりなのかとその様を眺めていると、その袋から包みを取り出してぺりぺりと剝ぎ始めた。中から出てきた黒い円筒形のものを手に、得意げな笑みを浮かべている。
「ええと……僕の家があっちだから、背中をこっちに向ければいいんだな」
……何をしているんだ。
玉座に体の側面を向けるように立ったオロルンは、んあっと大きく口を開け、手にしていたものを咥え込んだ。口いっぱいに詰めこんだそれを、少しずつ咀嚼しながら食べ進めている。
「んっ……んくっ……」
少し苦しいのか、ヘテロクロミアの瞳にうすらと涙が浮かんでいるようだ。そんなに苦しいのであれば、一度口から離してしまえば良いものを。
黒い筒は両手を添えられながら、少しずつ喉奥へと消えていく。ほんのりと頬が色づいて見えるのは、おそらくここが寒く、彼の体温との差が激しいためだろう。
「んっ!?んぅ……」
半分ほど飲み込んだところで、筒の端からにゅるりと何かがまろびでた。慌てて端を押し込むように手の位置を変え、出てこないようにと少し上を向く。口端から唾液が漏れたようで、てらりと光る筋が喉を伝い落ちていった。瞳がほんのりと蕩けているように見えるのは気のせいだろうか。しかし、その様はまるで……否、要らぬ考えはよそう。
そうこうしているうちに、オロルンはそれをどうにか食べきったようだ。口の中にすべてを詰め込んで咀嚼し、持参した水筒から茶を啜っている。
「ぷはぁ……ああ、思ったよりも大変だった。恵方巻というものを教えてもらったが、これはもう少し食べやすい形にしたほうがいいな」
恵方巻……名前の響きからして、璃月か稲妻の文化だろうか。
「今年の恵方……ああ、幸運をもたらす方角のことらしい。それが僕の家から見たらここだったんだ。だから、ここで食べようと思って持ってきた。その方角を向いて恵方巻を食べると良い運を呼び込めるというものらしい」
こちらが聞いているとはわからないだろうに、オロルンが玉座に坐する体に向けて説明をしだした。しかし、それであればわざわざオシカ・ナタまでくる必要もあるまい。
「節分、という行事のうちの一つだそうだ。だから今日は君にも節分のおすそ分けに来た。これが本題だ」
……では今の恵方巻は、お前が食べる様を見せたかっただけか?
問いはオロルンに届くことはなく、その姿に僅かに煽られていた自分にため息を吐いた。
先ほどまでうすらと涙を浮かべながら黒い筒を頬張っていた彼は、けろりとした様子で鼻歌交じりに袋の中からさらに小さい袋を二つ取り出した。ひとつはパンパンに膨れ上がっている。
「これは君の分だ。実年齢がわからなかったから、おおよその数で入れている。足りなかったら……すまない」
ずしりとした重みが膝の上に乗った。そこそこ重量のあるそれを訝しんでいると、オロルンはすとんと玉座の石段に腰掛けて、もう一つの袋を開いた。中には白い衣をまとった豆がいくらか入っているようだ。
「歳の数だけ豆を食べるのも、節分のひとつらしい。そのままだと食べにくいかと思ったから、砂糖をまぶしてきたんだ。おやつにするといいと思う」
そう言うと掌に数粒のせ、ぽりぽりと豆を食べ始めた。二十かそこらしかない豆を食べ終えると満足げに微笑む。
「うん、美味しくできていた。味は保証する。でも、君の分のお茶も持ってくるべきだったな…たくさん食べることになるから、少しのどが渇くかもしれない。食べるときは飲み物を用意してくれ」
目的を果たして満足したのか、オロルンは上機嫌で帰っていった。その背を見送っていたのだが、いやにぬるい視線を感じる。不快な視線を辿ろうと玉座から意識を戻してみれば、夜神が少しばかりにやつきながらこちらを見ていた。
「……食べたいのならば持っていけばいいだろう」
「もうあるわ」
ため息を吐きながら夜神のほうを見てみれば、その手にはオロルンが置いていった袋が握られていた。よく見れば何か咀嚼しているようで、もうすでに彼女の口の中にいくらか入っているようだ。
「……少しは残しておいてくれ」
「大丈夫よ、取り分けたから」
そういう問題ではないだろうと思いつつも差し出された包みを受け取れば、ざっと三、四十程度の豆が収められていた。
「……残りはお前が全部食べる気か?」
「もちろん!それともあなたが全部食べる?たぶん五、六百はあるわよ、これ」
甘くておいしいからすぐ食べちゃうけどね、と微笑む夜神に呆れたため息を漏らしつつ背を向ける。受け取った包みから数粒を口に放り入れ、優しく素朴な甘さが広がるそれを噛み締めた。
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