辱めるつもりは毛頭なく(そもそもヒトだと思っていないのだから、すぐれてうつくしいものを虐めて溜飲を下そうという腹積もりすら起こらない)、背丈と腕力の都合で、雁夜は男を組み敷くのではなく四つ這いにさせた。気違いの男はかつてないほど従順にその意を汲んだ。飢えた獣が腹ではなく背を見せていると思えばなんだかおかしい。麻痺した左の頬がひく、と笑いの成りそこないのように痙攣した。
男は一糸まとわぬ姿でまさに犬のように伏している。ヒトとイヌ。古代から寄り添い暮らしてきたふたつの生き物と、その営みが生み出した象形文字の空虚たるや。たとえばそれを説いたとして、男はその諧謔を理解するのだろうか。自分はガイジンに向かってKanjiの意味と成り立ちを語って聞かせることを厭うような男ではなかったと思うが、繰り返すようだが、目の前の男はヒトではなく、したがってガイジンでもない。
兜に隠された面を見る以前であれば、男はただの事象であった。幽霊屋敷のお決まりの、ひとりでに動く甲冑の化け物だった。しかし男の素顔を見てしまってからは、愁眉にも澱んで光るまなざしにもどこにも笑みはないのに、雁夜は絶え間なく嘲笑を受けている気分になる。男に、ではない。男は血統書付きのくせに石を投げられ棒で打たれるばかりの猟犬だった。イヌはヒトを蔑んで吠えるのではない。かなしいことに。雁夜は、男のようにはなりたくなかった。
考えるだけ眩暈がするのに考えることをやめられないのは自虐ではなく逃避だ。当事者になる名乗りを上げた時点で、こんな麗しく悪趣味な未来を描く人間がいればそれこそまともではない。
いかにも現代人らしい貧相さに不具を重ねた雁夜とは真逆の、端正な肉体が据え膳の格好をしている。鍛え上げられ引き締まり、筋肉の凹凸がなだらかで均等な峰を成す白い背中は彫像の美こそ感じさせはしたが、つまりはまるで女のものではなく、雁夜の凡庸な情欲や嫉妬心すら刺激しうるものでもなかった。長く伸びた髪もそうだ。雁夜が愛した女の、みどりの黒髪がいつも陽の光を受け輝いていたのを思う。葛藤と放浪を思わせる蓬髪は、昏い。顔を埋めればきっと、罪の泥が喉に詰まって窒息する。
できるだけ遠くを眺めるようにして、雁夜はどうにか男を犯すことに成功した。いくら相手はヒトではないとはいえ、もし今ここにいない男あるいは女の名前を狂ったように、否、文字通り狂い叫ばれたらあまり気分がよくないだろうと想像していたが、まったく男はひどく静かだった。呻き声ひとつあげやしない。というより、雁夜の為すこと全てに対して無感動である。凌辱されて黙っているようなものは、やはりヒトではない。しかしそれは雁夜も同じことで、あらゆる薬や魔術や妄想を駆使して、互いに何の都合もよくない体を繋げている。
息が上がる。腰から下に乳酸が溜まって酷く重い。いっそのこと跨らせればよかったのかもしれない、と今になって思う。しかしその場合、男は従っただろうか。少なくとも雁夜は自分よりも重い女を腹の上に乗せたことはなく、男の、本物の血肉すら持たない肢体が己の骨やら臓器やらを砕かないという確信もない。
捧げられた肉を食う。緩慢に。味わっているからではなく、ただ筋張った肉を嚙み千切るのに顎が疲れ、飲み込むたびに喉がつかえているために。同時に不可視の世界で立場は覆り、雁夜は血肉を啜られている。血を吸われるほどに雁夜は枯れて萎びて老いていき、男の肌は永久に白く艶めく。射精する瞬間、そんな妄想をした。
胎の奥で種を啜り終えた男が一度、やや長く、深い息を吐いた。苦痛に耐えているようにも、快楽を逃そうとしているとも思えない、惰性といってもいいようなただの呼吸であった。言葉を載せるのなら、やれやれ、だとか、よっこいせ、だとかが似合うような、無性に所帯じみた息だった。
雁夜はそこで初めて、男は実はヒトかもしれない、と思った。いつもは耳鳴りと区別のつかない蟲の鳴き声が、こんな時に限ってやたらおとなしかった。
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