Reisi
6241文字
Public 小説(NSFW)
 

燠かな雪解

数年後ifです。

「それじゃあ改めて、おめでとっ!」
「ああ、ありがとう」
 二つの盃がかちりと打ち合わされ、琥珀の水面が揺らぐ。雫と共に酒精の香が舞った。紅鳶の瞳がなめらかな水面を暫し眺めていたが、やがて意を決したように口を付けた。

「──な、何というか……変わった味だな」
「あはは、はじめて飲んだ時のアタシと同じこと言ってる! 大丈夫、色々飲んでれば美味しく感じる日が来る……と思うわ」
 我ながら、根拠のない励ましをしてしまった。む、と眉をひそめて、この祝賀の主賓はもう一口目を飲み下す。
「やはり慣れそうにない……
 そう言って三口目に取り掛かろうとするのを慌てて止めた。
「もう、いきなり一度に飲んだら危ないわよ。ほら、水も飲みなさい」
 子供でもない歳なのにお節介だったか、という思いが心に過ぎる。そんな心配に反して、チューチャオは素直に水の入った杯を受け取った。この世話焼きな性分は、いつまで経っても治らないものだ。かの博識なる同胞に言わせれば、『三つ子の魂百まで』といったところだろう。

 黙々と水を飲む横顔を、バイフーはそっと見上げた。かつて見た少女の面影はどこへやら、久々に会ったチューチャオはすっかり大人びた顔立ちをしている。
 不意に、ふたりの視線が重なった。数年前は同じくらいの高さであった目線。今はもう、互いにそうと意識しなければ交わることはないのだ。切れ長の瞳が一度ぱちりと瞬き、どうした、と問う声が降ってくる。
「チューチャオってば、すっかりアタシのこと見下ろしちゃうくらいの背丈になったな、って」
「それは……すまない……
「ふふ、謝ることでもないわよ。昔はアタシもアンタも同じ位の身長だったっけ、って懐かしく思っただけ」

 それは叔父様がまだ生きていて、自分も『バイフー』を継いだばかりの頃だった。
 隠遁した先代チューチャオの若き後継者。隠密方を統べる長。物々しい肩書を背に負いながら、かつての彼女はどこか寄る辺ない迷い子のような瞳をしていた。そして、かつてのバイフーはそれを放っておけなかった。それが、二人の出会いであった。

 今しがた見上げた瞳から、あの日見た迷いは既に失せていた。
 チューチャオが西で暮らし始めてから、決して短くない歳月が経っている。紆余曲折の末、今では西と東を隔てるものは殆ど無くなったのだが、それでも物理的な距離というものはある。昔のように、気軽に様子を見に行くというわけにもいかないのだ。こうして顔を合わせる度に、自分の知るチューチャオが、次第に知らぬものになっていくことに気づく。背丈や表情、そして内面も──


……寂しいか」
 今度は、目をぱちくりさせたのはバイフーのほうであった。
「どうして?」
「そうやって懐かしげにしているとき、お前は少し寂しそうにも見える」
「うーん……昔のアタシだったら、チューチャオの言う通り寂しいとか思ったのかも。今はさすがに整理がついてるわよ。結局、ずっと背も伸びなかったし……マガツヒにすら抜かされた時に、身長についてはもう諦めることにしたわ……
 あーあ、と座卓に突っ伏す。木のひんやりとした温度が火照った頬に心地よい。
「あの頃は、ツルギにもよく突っかかってたわよね。チューチャオ、覚えてる? 今思えば、戸惑いみたいなものもあったのかもね。みんなアタシより小さくて、自分がいなきゃダメだと思ってたのに……急にアタシ無しでも大丈夫なようになっていって。そうして、自分だけが置いていかれるように感じてたの」

 徒弟の凛とした佇まいは、既に先代カガセオの面影を色濃く宿しつつある。今となっては、その長身を見上げることが当たり前となった。『ツルギ』という名から思い浮かべる姿が幼子から君主のものへと移り変わったのは、果たしていつのことだったか。小さく温かな掌も、姉を慕う幼い声も、今では遠い記憶の彼方だ。

 誰もかもが、いつまでも変わらぬままではいられない。例えばそれは、芽吹いた若葉が種子に戻らぬように。あるいは、雛鳥が卵へと返ることのできないように。時の流れは人のかたちを、内面を少しずつ変容させていく。バイフーもそうして、ようやく「置いていかれる」ことを受け入れることができた。
 それでも、かつては庇護の対象であった彼らの中から、とうに失われた幼気を思い起こすとき── バイフーは、自分の心の中にある虚を自覚する。結局のところ、その幼気は『失わざるを得なかった』ものなのではないのか、と。この感情をあえて何かに形容するのならば、それは確かに寂しさと言えるのかもしれない。


 どうにもならぬ追憶を振り払うように、バイフーは顔を上げた。少なくとも今この時は、失われたものを憂うのではなく、大切な仲間の成長を祝うべきなのだ。

「それにしても、今日は友達とじゃなくて良かったの。折角のお祝いなのに、アタシと二人っきりなんて」
「彼らも大事な友人だ。だが、成人の祝いを、となったとき最初に思い浮かんだのはバイフーだった。同じ四部衆として、長らく苦楽を共にしていたから……かもしれない」
「まあっ、嬉しいこと言ってくれるじゃない! とっておきのお酒開けた甲斐があったわ!」
 そう言って、バイフーは勢いよく酒を呷った。それを見たチューチャオが目を丸くする。
「もう三杯目だろう、大丈夫なのか……?」
「平気平気、アタシはお酒強いほうだから! あと二、三杯はいけるわ。あ、アンタは真似しないでね」
 チューチャオは、呆れたようにため息をついた。
「言われなくても……あとお前、何だかフーリーチンに似てきているぞ……
「流石にあそこまでじゃないわね……お酒を飲むようになって分かってきたわ、ああいうのを『呑兵衛』っていうのね」
「そ、そうか……やはり、皆にとっては美味しくて飲んでいるものなのか?」
「まあ、人によるわ。味だけじゃなくて、その場の雰囲気というか、誰かと飲むのが楽しい……っていうので飲んでることもあるかもね。アタシは味と雰囲気、半々みたいな感じだけど」
 数秒ほどおいて、チューチャオは気まずそうに目を伏せて呟く。
「せっかく用意してもらって悪いが、私にはまだ美味しさは分からない……かも。だが、お前と飲めるようにはなりたい……
「嬉しいけど、無理はしないでね。人によってお酒の強さは違うもの。アタシでも、フーリーチンと同じくらい飲むなんてのは無理よ」
「うん……

 バイフーはふと気づく。返ってくる言葉が次第にふわふわしてきている……目を遣れば、チューチャオはやや眠そうに目をしばたかせていた。思えば、色々と話している間にも、彼女は時々盃に口を付けていたように思える。自分としたことが、久々の談話が楽しくてつい気づかずにいたのだ。
「ほら、今日はここまでにしときなさい、残りはアタシが飲むから」
 そう言って、バイフーはチューチャオの手から酒杯を取り上げる。中の水量は、その動きで底が見え隠れする位には減っていた。
「む……かたじけない……
「大丈夫? 気分は悪くない?」
「特に……ただ……
 チューチャオはよろよろと近づき、身体を寄せてきた。そのまま耳元で呟く。
「なんだか暑い……
「酔うとそうなるものよ。縁側に出る? しばらく夜風に当たった方がいいわ」
……いい。このままでいさせて」
 チューチャオは、いよいよ寝てしまいそうに凭れかかってくる。倒れぬよう、その肩を支えてやった。すると彼女は暫しこちらを見て、バイフーは冷たいな、と言った。

 思いがけない言葉に、バイフーは首をかしげる。態度のこと? 何か、彼女を傷つけることをしていただろうか……一瞬どぎまぎしたが、しかしチューチャオが離れる様子はない。そっと身体を擦り寄せてくる。肌が触れ合った所がじわりと暖かい。そうして、彼女が言ったのは言葉通りの温度のことなのだと合点がいった。

 その身に宿す白雪虎の力ゆえか、君は平均的なヴィータより多少体温が低いみたいだ、と西の医者に言われたことを不意に思い出す。ということは、朱焔雀たる彼女もまた、ひとより温かい身体をしているのだろうか……そんな考えが頭に浮かんだ。
 雪と焔は、決して混じりあうことは無い。互いが互いを溶かし、融かされる関係に過ぎないのだから。なれど、人の膚を介すれば互いの温度を綯い交ぜることが叶う。肌と肌の間に存する、ぬるい体温こそがその証左であった。

 普段は冷静に細められているチューチャオの瞳は、すっかり蕩けていた。眠そうな眦が淡く朱に染まっている。きっと昔の彼女でも見せないであろう、しどけない姿がなぜだか面白くなる。あるいは、自分も珍しく酔いが回っているのかもしれない。揶揄うように頭を撫でても、されるがままだ。普段なら触ることの叶わぬ濡れ羽色を、指先でさらさらと弄ぶ。
 こうして素を見せた状態であれば、チューチャオの表情には確かに昔の面影があった。繕うのが上手くなっただけで、心根はさほど変わらないのかもしれない。そうであってほしい、という願いでもあった。
「もう、甘えんぼさんね」
……うむ」
 そこで肯定するんだ……とバイフーは内心で思った。これでは、素面に戻った時どうなることやら……この状況を招いた身として、少し冷や冷やする。

 継承家を取り巻くしがらみが無くなって久しいとはいえ、平素のチューチャオは『誇り高き雀家の当主』だ。この夜が明けたとき、彼女は今夜のことをすっかり忘れてしまうのだろうか。バイフーはほんの少しだけ、それを名残り惜しく感じた。でも、そのほうが間違いなく彼女にとっては良いだろう。

 バイフーの内心をよそに、チューチャオは唐突に口を開いた。
「寂しいのか、と先ほどはお前に問うたが……ふふ、本当に寂しいのは私のほうかもしれない……
「えー、何なの? 急に……
 この状態で畏まったことを言うのが何だかおかしくて、バイフーはくすくすと笑う。それを見て、チューチャオも頬を緩めた。
「他人に本心を明かすことにようやく慣れてきたつもりだが……やはり、本当の意味で心を許せるのはバイフーだけだ。お前は私の……何もかもを知っている。私の好きな物も、私の弱さも……
「昔だったら、そうで在れたのかもね。でも……今は、きっと知らないこともあるわ」
「それでもだ。だからこそ、私は……

 滔々と言葉を紡いでいたチューチャオの口が、言い淀むように閉じられた。代わりに、ずいと身を乗り出す。あえかな感触が頬に触れた。
「なあに、仕返しのつもり? アタシが揶揄ったから」
……お前なら知っているだろう。私が冗談でこのようなことをする奴だと思うか」
 おもむろに、両の手でそっと手首を掴んでくる。重い武器でなく繊細な暗器を扱うチューチャオの指先は、胝のひとつもなく滑らかだ。幼子のそれとも違う、しなやかで細い掌。
 鼻先が触れそうな距離で、今は近しい高さの視線が交わる。
「私は、お前の寂しさを埋めてやりたいと思う。同じように、お前にも私の寂しさを埋めてほしい」

 音もなく広げられた帳が、行燈の光も月光も、夜闇すらもを視界から閉ざす。
 それでも、確かに分かることがあった。これは翼だ。彼女が継いだ『朱焔雀』の力の発露。二人を外気から隔てて覆い隠すに足る翼開長が、バイフーの背中を抱く。
 手首から伝わる熱、背に触れる羽毛のこそばゆさ、交わる吐息。視覚が封じられている分、他の感覚ばかりが鋭敏に感じられるようであった。まるで猛禽に捕らわれた獲物みたい、とバイフーは頭のどこかで思う。
 常であれば、バイフーがこのように『這い蹲らされる』ことなど許すことはない。常であれば、チューチャオは同胞にこのようなことをしない。だが二人とも、とっくに平静ではなかった。

 背を抱く翼も、縋るように掴んでくる両手も、バイフーを縛めるには至らない。望むのであれば、容易く振り払うことができた。
 前線にて得物を振るう者、対するは戦場の裏で暗躍する者。共に超常の力を継ぐ者でありながら、ふたりの間には覆せぬ膂力の差があった。チューチャオもきっと、それを分かっている。分かっているが故に、こうしているのだろう。拒むのであればどうか振り払ってくれ、と言外に伝えてくる。こんな状況でも、彼女は依然として律儀なのであった。バイフーは微笑み、そっと身体の力を抜く。それを、チューチャオへの返答の代わりとした。

 ほどなくして、柔らかな感触が啄むように唇に触れる。口づけとは斯くも柔いものなのか、とバイフーが感じたのも一瞬だった。
 唇を撫でられるこそばゆさに、反射的に開けた口に舌か割り入る。チューチャオの両手がわずかに握る力を強めた。つ、と熱い舌先に犬歯の裏をなぞられる。甘い痺れがぞくぞくと背を駆け巡り、バイフーの喉から細い声が漏れた。それが何だか自分の声でないみたいで、聞かれないように己の口を閉ざしてしまいたかった。けれども、そうしたら自分の鋭い牙が彼女の舌を傷つけてしまう。バイフーは恥を忍び、捧げるかのようにチューチャオに身を任せた。

 身体の奥底に、じわりと熱が侵蝕する。まるで、討ち倒した敵を見下ろしているような、あるいは強敵を前にしているような。そんな場違いな感覚を覚えた。
 あらゆる感覚が鮮明になる中で、思考だけが次第に覚束なくなっていく。今の自分は、いったいどんな顔をしているのだろう。含羞が頬に熱を与える。
 ふと気づく。隠密であるチューチャオは、このような暗闇など物ともしていないのかもしれない……その瞬間バイフーは居ても立っても居られなくなって、意味はないと知れども目を閉じずにはいられなかった。

 その時、細い指先が閉じた目元をぬぐった。彼女の指先が、眦に湿った尾を曳くのを感じ取る。次いで、触れていた唇が離れる。
「その……嫌だったか」
 不安げな声にバイフーは目を開けた。チューチャオが翼を広げ、暗闇に閉ざされていた視界が開ける。行燈の淡い光すらまぶしく感じられ、バイフーは何度か瞬きをする。それによって、闇に目が慣れてしまうほどの間、自分達はこうしていたのだと知った。

「私は、お前の返事も聞かずに勝手なことを……すまない」
 酔いが醒めかけているのか、はたまた酔いを上回る自責の念を覚えているのか。だが今も、その手は自分を掴んで離さない。どちらのものとも知れぬ拍動を、そこから確かに感じる。
 バイフーは、さも愉快そうに笑った。勝手だなんて、とチューチャオの肩を引き寄せる。目の前で、紅鳶の瞳があてどなく揺らいだ。茫然と開いた口に、容易く舌を滑り込ませる。牙が触れぬよう慎重に、されど互いの気が変わらぬ内に。仕返しとばかりに熱い内側を舐め上げれば、小さく肩が跳ねた。

 顔を上げる。舌先に残る熱の余韻もそのままに、言い含めるように告げた。
「今だってそうでしょう? ここまでしておいて、やめちゃうなんて。アタシはその気だったのに」
 すぐ近く、彼女の頬にさっと朱が差す。それが羞恥か酔いか、バイフーにはどちらでもよかった。どちらにせよ、自分の心は未だ陶然の中にある。この身体に分け与えられた熱が、魂までもを蕩かしてしまうようであった。