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桜崎
2026-02-01 14:57:46
9851文字
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きらきら、鏡合わせ
れめゆみ 付き合ってるつもりで浮かれてる黎明と何も気づいていない天堂の話
色のない唇である。だからきっと薄紅色をしていたと思う。
その唇に何かが触れた感触があった。熱を帯びたような、生ぬるいような。知らないものだった。
それが何なのか確認する前に情景が薄れていく。
天堂は、覚醒する。自室の寝台上、ひとりである。昨夜は友人である黎明が訪れていた気がするが、朝方に帰ったようなそんな記憶がある。大抵、黎明が天堂の教会に泊まった時は、起きた時間である昼頃に帰るのに珍しいこともあるものだ。急ぎの用事があったのだろうか。
漠然と昨日のことを思い起こしながら、身支度を整える。確か日付が変わる前に黎明が来た。連絡など当然あるわけがない。天堂はちょうど風呂から上がって、頭からつま先までせっせと手入れに時間を溶かしているところだった。黎明は突然映画を見ようと言って、天堂が異を唱える前に勝手にスマホから動画のサブスクをモニターに繋ぐ。全身を整えたら天堂はもう眠るつもりだったのに、そんな都合を無視していつものように隣へ座ってきた黎明は、何が観たいか聞いたくせに天堂の意見は無視して自分のおすすめを再生し始めた。
黎明はそのようなところがある。連絡もせず訪ねてきてあれをしよう、これをしようと天堂を巻き込む。好き勝手に振る舞う。
いきなり死体遺棄を手伝えと呼び出したり、無断で黎明の家に上がり込み、テラリウムを勝手に弄ったり家主の寝室で寝たりする己のことを棚に上げて、天堂はそう憤っている。しなんだかんだで楽しんでもいる。
だから結局、一緒に何本か映画を見た。そんなところを切ってもさほど血が出ないだとか、あれは人間の臓物ではないだとかけらけら二人で笑いながらスプラッタを見て、派手な爆発音と化け物じみた動きをするアクションにユミピコできそう、当然だ、神ならできる、今度やってよ、なんて会話を交わした。はずだ。
外が白み始めた時にはさすがに天堂も睡魔にさらされていた。うつらうつらしている中、夜行性の黎明はひとりユミピコ、ユミピコと煩く囀っていて、話の内容なんて耳から耳へ通り過ぎていたから、適当な相槌を天堂は打ち返していた。
そんな時、好きだという言葉に一瞬、意識は戻る。最後に観ていたのは、恋愛物の洋画だっただろうか。あまり面白くなかったらしく、集中していなかったのかもしれない。内容を覚えておらず、手繰って記憶の一番端にあるのは何故か黎明の顔である。モニターから反射している光で瞳がきらきらしていて、何だか目にしたことのないような表情をしていたと思う。
記憶が途切れた時、ちょうど身支も終わる。今日は朝から晩まで予定が詰まっていた。
その予定の通り、忙しく動き回り全ての日程を終えた頃には22時を過ぎていて、かすかな比疲労が身を包んでいる。スマホに何件か通知がきていたような気がしていたが、返信する間もなかったので、ようやく今になってメッセージのタブを開く。
天堂以外が獅子神の家に集まっているらしく、グループの方には夕食の誘いと何故か大量の通知が黎明から個人の方へ来ていた。
ユミピコ、今日来ないの? 何してる? 今どこ? 返信しろよ
一方的な問いと、獅子神の家で他の友人たちの写真やら自撮りやらがずらずらと並んでいる。
10個ほどで目を通す意味がないと判断して、そのまま閉じた瞬間、スマホが震え、またひとつ増える。
『既読スルーすんな』
どこまでも観ている男である。
放置するとさらに通知が増殖して面倒だと思ったので、今から向かうとだけ返して、獅子神の家へ歩き出した。
到着した獅子神邸では、夕食が用意されていた。白ご飯、ハンバーグ、サラダ、スープ、小鉢が数種類にデザート。湯気が立っている。天堂が来る時間を想定して温めておいたのだろう。
「神への奉仕ご苦労」
「皿だけ下げとけよ、オレはもう寝る」
鷹揚に頷いた天堂を横目に獅子神は欠伸をひとつ、寝室に引っ込んでいく。明日が早いのと遊び疲れたのか、村雨も真経津もすでに就寝したらしい。黎明だけはまだ眠るつもりはさらさらないようで天堂の前の席につき、片手で頬杖をついている。
その黎明、やけに機嫌が良い。会話するまでもなく一目見るだけでわかった。目元も口元も緩んでいる。し読まずとも喜びの感情が滴り落ちている。
夜中からはこの男の時間なので、調子が良いのだろう。
黎明は何が楽しいのかスマホも見ずに天堂が食べている様子を、にこにこと眺めている。
「ユミピコ、なんで返信してくんねーの」
「そんな暇はない」
「移動の時とかあるじゃん」
「罪人の捜索がある」
「はあ? オレ、罪人以下かよ」
口調は非難めいていたが、機嫌は変わらず上々のままだ。いつもならぶつぶつ文句を言い出す。オレの方が優先されるべきだ。オレだけ構え。オレを見ろ。等々。
機嫌が良いどころではなく、浮かれている。ような。何か良いことでもあったのだろうか。普段とは違う珍しい様相を晒しているので興味が湧いた天堂はひととき、食事を進めていた動きを止めてじっと黎明を見た。
プラスチックに覆われた目。伸びる赤いライン。八重歯の覗く口元に、薄い唇。動作。表情。全部眺めた。
しかしただただ喜んでいることしかわからない。そもそもこの男は普段から深く見ると機嫌が良くなるので判別が難しい。
片目が細く伸びて、笑みの形を模る。
「オレの何を探ってるんだ、ユミピコ」
配信がよほど上手くいったか。
テラリウムで魅せてくれる人間でもいたか。そういえば今、興味深いやつがいる、という話をしていたような覚えもあるし、SNSでバズった、みたいな話を交わした記憶もある。けれど違う気がした。もっと、何か、単純な。
瞳の奥、天堂を見る色がやけに煌めいているような気がして、そのさらに深くを覗き込みたくなる。
「な、なあ、ユミピコ、いつまで見てるんだ? いや、嬉しいけどさ、なんか、そんなずっと見られてると
……
ほら早く食わないと冷めるぞ」
台詞の最後の部分だけ都合よく耳に入った天堂は、あっさりとその視線を切って食事を再開させる。せっかくの温かい食事を無駄にするところである。ああ、と思って黎明をもう一度だけ一瞥する。
「黎明、体調が悪いなら早く寝ろ」
その日、天堂は黎明。と記されている名前をミュートに設定した。ブロックまですると面倒になる予感があった。予感どころか確信である。
相変わらず大量のメッセージが黎明がくる。放置していると通話がかかってきて煩わしいので100回に1回くらい返信しておくのが良いと天堂は、言葉の濁流に晒されたこの数日のうちに学んだ。
この通話が長い上、適当に返事して適当に切るとまたかかってくる。この男、暇なのか。その割には、配信も好調に上がっているし、頻繁に賭場にも向かっている。さっき今から行ってくる、と勝った、とそれだけのために通知欄が悲鳴を上げていた。勝つのが当然である男に応援も賞賛も必要ないだろう。賞金を寄付しろ、とだけ返しておいた。
その後すぐ通話に至るまでに満たない数でかかってきたのでまともな用事なのだろうと判断して繋げる。
「ユミピコ、メッセ見た?」
開口一番、天堂の予想に反して、返事の催促であったので通話を切断するためのスライドバーに指を置く。
神父の仕事、自己鍛錬、罪人への天罰、寄付を募りにも行かなければならない。神は忙しい。見ているわけがない。まあ天堂は慈悲深い神なので温情はある。通告くらいはしてやる。しないとまたかかってくる、という鬱陶しい理由もある。
「黎明、神は忙しい。切るぞ」
「待って待って! ユミピコ来週の土曜日空いてる?」
「何の話だ」
「だから見ろって
……
!」
スマホをスクロールする。黎明からの無意味な雑談を飛ばしておそらく該当の箇所にたどり着く。
『来週の土曜日、ここにいこーぜ』
そのメッセージの下に店とホテルの名前、ランチビュッフェの文字にURLが並んでいる。押して開けば眺めの良い景色を背に綺麗に飾られた料理と菓子類の数々の写真が視界に飛び込んでくる。
「ユミピコ、そういうの好きだろ」
確かに、目を惹かれた。
「
……
行ったことがない。これはどれだけ食べても良いのか?」
「そうだよ。へえ、ユミピコ行ったことないんだな」
嬉しそうな声色はしかし、決して揶揄う意図はなさそうで、どうやらまだ黎明の機嫌のよさは継続中らしい。
「土曜日だな、空けておく」
「じゃあ12時に現地集合な」
それでさ、とまだ続けようとする声を今度こそ断ち切った。
今日の天堂には時間があった。寒さのせいか教会が閑散としているからである。懺悔室にも誰も訪れない。辺りの治安も良い。端的に言えば天堂は暇を持て余していた。獅子神邸も珍しく誰もが不在でその帰りに寄ったマンションに黎明もいない。まあ良いかと思ってここで時間をつぶすことにした天堂はまずキッチンで紅茶を淹れた。冷蔵庫の中には大量のエナドリに押しやられるようにプリンが入っていたので神への供物に違いないと手に取る。好きな味で好きな銘柄だった。三つもある。もちろんぜんぶ取り出した。黎明のものは全て神のものである。
カップを傾け、口を動かしながらテラリウムのモニターを眺めていた天堂は黎明が面白がっていた男を見つける。
憔悴していたが美しい造形をした男だった。黎明にとって何がそんなに良いのか興味が湧いたので部屋を訪ねる。
ただ近くで見たかっただけなので体をぐったりと投げ出す男を傍で天堂は眺めていた。
目が合った。何か呟いていたが聞き取れない。
ああ、きっと懺悔したいのだなと思ってその双眸を深く覗き込んだ。
何も言う必要はない。表情を誂えることない。ただ天堂は見た。
それだけなのに、その男の膨らませた眼球から涙がこぼれ落ちた。
訥々と語られる自身の境遇と罪。誰に向けてかもわからない謝罪。
最後にかみさま、とその唇が動く。
天堂はにっこりと笑う。罪を認めたこの男は敬虔な信者になるだろう。満足した天堂は、黎明の自室に戻る。家主はまだ帰らない。
何だか徒労を感じたので寝室に向かって天堂のところにあるものよりも広い寝台に身を横たえる。眠っていたのはそれほどの時間ではなかった。
不意に唇に感じた既視感。で意識が浮上する。
目を開けた瞬間、存外近くに黎明がいて、少々身構えた。しかし時折見せる、天堂を揶揄うための冗談じみた殺意ではなく、可笑しそうに相貌を緩めている。
「ユミピコって警戒心丸出しのくせに勝手に人ん家で寝てんの意味わかんねーよな」
「神が睡眠という欲求を抱いたのだから、眠るのは当然ではないか?」
「ほんと欲求に忠実だよなお前
……
」
面白がる声を耳に体を起こして、寝台の縁に座る。
そのまま立ち上がるつもりだったのに黎明が身を寄せるように隣に腰を下ろしたせいで機を逃す。そのまま会話するつもりなのだろうか。近い。が黎明は身内に対する距離感がおかしいので、天堂はあまり気にしていない。全てが広いので邪魔だなともたまに思う。
その黎明は無意味な動作を、手をすこしあげて下す、を繰り返してたぶんなにかを諦めた。誤魔化すように話題を出す。
「
……
あーユミピコ、またテラリウムのヤツ洗脳しただろ」
「洗脳? 啓示を与えただけだ。不要物ならば神に捧げろ」
信者が増えるのは良いことである。懺悔した罪状も救い上げるほどでもないし本人も反省しているようだから、赦してやってもよい。
それに神の視界に入るなら美しい方がいいだろうなんてついでのように思っていれば舌打ちが響く。
「へえ、何、そんなにアイツ、気に入ったわけ?」
「お前が興味深いと話していただろう。それが気になっただけだ」
それほど面白いものでもなかったが。そのあたりにいる罪人とさして変わらない。期待に対して少々時間を無駄にしたかと思うと不快ですらある。
まあ、もらえないならそれでも構わない。黎明のお気に入りらしいし、余計機嫌が悪くなっても面倒なので、天堂はこれで話を切り上げるつもりであった。
その黎明は奇妙な笑い方をしていた。上手く口元を形取れないような、感情を押し込むような、笑みだった。
「そ、そうだっけ? うん、そうだったかも?」
いきなり上向いた機嫌に胡乱な目を向けた。この男が何に喜んでいるのか天堂にはわからなかった。ただ、天堂がすこし不愉快であると思った時、やけに嬉しそうにして、気色が悪いほど機嫌が良くなった。それだけはわかる。それしかわからない。天堂が黎明を想像する感情から近頃外れきっている気がしてどうも完全に読みきれていない。
「え、ユミピコ、か」
か。なんだ。何と言った。残りが小さすぎて聞き取れなかった。まさか神に向かってかわいいなどと宣うことはないだろう。
「
………
ユミピコ、今日泊まってく?」
何故か囁くように黎明はいつもはしない確認をした。明日は起床が早い。
「いや、今日は帰る」
そう言って立ち上がる時、天堂の赤い指先を黎明のそれが少しだけ掠めた気がした。
黎明との約束の日は晴天であった。神父服以外に身を包んだ天堂は待ち合わせ場所で黎明を待つ。ふんわりとした生地のコート。裾の開いたゆったりとしたズボン。白でまとめて、鞄だけ黒にした。
いつもの格好でもよかった。よかったが、昨日、あの村雨の指摘により、断念した結果である。
獅子神が大量に作ったクッキー、マフィン、パイなどの焼き菓子を取り合っていた時だった。ひとつ村雨の方が多かった。が快く譲ってやった。
その返礼が訝しげな視線だったので一瞬、頭に血が上ったが機嫌が良い天堂は寛容な心持ちで赦してやる。
「常に食い意地の張っているマヌケ神にしては、殊勝な態度だな」
「神は明日、黎明と食事に行くのだ。いくら食べても良いらしい。このくらい与えてやろう、有難く思え」
素晴らしいことを教示するように誇らしげに告げた。
この男の物言いは腹が立つが、口に出してさらに想像で気分が良くなった天堂は、村雨にもこの喜びを分け与えてやっても良い気持ちになったので、お前も来るかと誘いをかけた。
しかし、再び返ってきたのは神に対しての不遜な行いである。マヌケ、の一言と呆れきったため息だ。
「
……
行くわけがないだろう。あなた、随分と無神経ではないか?」
鼻で笑った。
思いやりも知らなかったこの男にだけは言われたくはない。
「この神に向かって無神経とは随分だな。神からの心良い提案ではないか。黎明だってお前ならば断らんだろう?」
「
…………
は、いや
……
しばし待て」
村雨の思案は数秒である。哀れみを、天堂ではなく何処か遠くに向けた村雨は、神から譲ってやった菓子一つを特に有り難みもなさそうに口にして、ゆっくりと咀嚼、呑み込んでから先ほどよりも深く深く嘆息した。
「
……
マヌケ神、ひとつ忠告してやろう。どうせいつもの格好で向かうつもりだろうが、やめておけ。そのくらい私でもわかることだ」
私でも、わかる、ことだぞ、同じ台詞でわざわざ区切るように念を押された。さらにそれともその服しか持っていないのかと嗤われたこともあり、私用で出かける時のような服装にしたのだ。
どうせ黎明はいつもの格好でくると思っていたので、遠目に歩いてきたその姿に少々驚く。落ち着いた色合いのジャケットに細身のパンツを履いている。
長い脚を駆使して悠々と天堂の前に来た黎明はごめん、ユミピコ、待った? なんて喜色を前面に微笑んで身長のせいもあるのか派手な格好でもないのに異様に周りの視線を引いていた。
「ユミピコは白も似合うな」
「当然だ。神に似合わない色などない」
改めて黎明を見た。髪を上げているせいかコンタクトに覆われていないせいか、その両眼が同時に緩むのが新鮮だった。
天堂は思い出す。そういえばこの男、顔が良かったのだ。神は美しいものは好きなので今日、この整った面を眺めて過ごすのは悪くない気分であった。
すこし急いできたせいか、落ちてきて、一束目にかかる髪を伸ばした指先ですくいとる。
「髪、珍しいな」
「
……
いやだって二人で出かけるの初めてだし、ユミピコのこといつもよりよく見たいって言うか
……
」
伏せた目元が赤い。その黎明に向けて、はあ、と気の抜けた返事が反射的に口端から溢れる。黎明とはしょっちゅう出かけているはずだが。ここ最近も、黒い袋を交えて山に行ったしその前には海にも行った。死体を数にいれているのかこいつは。
さらに疑念が面へと出る前に腹の音がそれをかき消す。
ああ、そんなこと些事であった。昼食時なのだ。黎明に行くぞと声をかけて、目の前のホテルに入った。目的の十三階を目指してエレベーターに乗る。
案内されて席に着いたのは一瞬で皿を手に天堂は並ぶ料理へと突撃した。
好きなものを好きなだけ盛り付けて、席に戻る。食べる。咀嚼する。飲む。新しい皿を持って立ち上がる。また食べる。
何往復したかわからない。そろそろデザートに向かうべきだろうか。
天堂の幸福な思案を前に黎明は十分の一程度しか口にしておらず、すこし食べては、その合間合間に動画と写真を撮っては天堂をただ見ていた。
「配信しているのか」
「いや、これはオレの」
オレだけの。そう言って笑った黎明の二つの目にやけに惹きつけられた。
最近よくこんな風に天堂を見る時、黎明は瞳を輝かせる。
そのきらめきが天堂は決して嫌いではなくて見るたびに何だか快い気分になる。そのきらきらとした瞳の中には天堂しかいない。そうだ。あれを誰にでも向けていないから良いのだ。あの黎明が魅せて魅せられて、興味を抱く相手への一瞥とはまた種類の違う眼差しだと思った。
特別扱いされている。神を前にしているのだから当然のことだと思うのに、やけに心臓が騒めく。
目前の男も、誰が知るわけでもないのに誤魔化すために刺していたサーモンのマリネを黎明に向かって差し出した。
「神からの恵みだ。お前はもう少し食べた方が良い」
虚を突かれたようにかすかに広がった目が徐々に綻ぶ。
「いーの? ありがと、ユミピコ」
そう言って、天堂が与えたものを口にして黎明はまた同じように笑んでいる。思わずつられた。天堂の緩めた表情を黎明が見ている。
時間いっぱいまで存分に食事した天堂は満足感に浸りながら、黎明と共に外へ出る。
何か言おうとしたした黎明の声をしかし、かき消すように悲鳴がかぶさった。
方向を確認する。すこし遠い。
「黎明」
投げた鞄を黎明は受け取る。呆れたような、面白そうな視線を背に脚に力を込める。
路地裏。薄暗いところで刃物を持っている男が女に詰め寄っていた。人質にでもされるのは厄介なので、先に逃して、対峙する。
咎人の捕縛は一瞬である。昏倒させて黒い袋に詰め込んだ天堂は、それを担ぎ上げて、片手でポケットからスマホを取り出して、黎明に教会へ戻ると一報をいれた。
教会に着いた天堂が、咎人を床に転がして、懺悔というよりも声高々に自身の正当性を喚いているのを聴いてやっている時である。聞き慣れた足音が迫って、黎明が現れる。
「ユミピコ〜 どう?」
「これまで無差別に何人も刺したらしい」
「へえ、立派な罪人だな」
「ああ、その上、全く反省が見られん。黎明、欲しいか?」
いつもある、有害な人間に対する興味、というよりも、どこか残虐性すら滲ませる表情でその咎人を見下ろした黎明は、天堂から向けられる視線から取り繕うように無邪気に笑った。
「うん、ちょーだい」
口調は、軽快だがひどく機嫌が悪い。たぶん、若干キレている。それがどうしてかこの蹲る咎人に向いていた。
「明日持っていこう」
袋に戻した咎人を仕事部屋に置き去りにして、自室に戻る。着込んだ格好で走ったせいか少々汗ばんだ。風呂に入りたい。
脱ぐのを忘れていたコートをかけて振り返ると黎明が部屋から出ていこうとしている所だった。
「なんだ、帰るのか、黎明。泊まっていかないのか?」
家に来た時、黎明は大抵泊まっていくから今にも帰ろうとしている姿の方が不思議で自然と口をついて出た。
一瞬、黎明は固まった。その次にいいの、なんて小さな声で呟くから何を今更と思ってさっさと風呂を沸かすために立ちすくむ黎明の横を通り過ぎその場を離れる。
部屋に戻ると長椅子に座って膝の上で頬杖をついたまま黎明は何か考えるようにしてぼんやりとしている。スマホがその手にないのは珍しい。
「黎明、夕食はどうする?」
ひととき前まで漫然としていたくせに天堂に向けられたのは、信じられないものと邂逅したような化け物を見る目である。
「
……
さっき食べたばっかりだろ」
「もう神の血肉になりかけている」
「じゃあユミピコが風呂入ってる間になんかコンビニで買ってくるよ」
その献身に天堂は満足げに鷹揚に頷いた。
まだ風呂が沸くまで時間があって、長くも短くない間に手持無沙汰だった天堂は黎明の隣に腰を下す。すこしだけ黎明は驚いた。ように思えた。気のせいかもしれない。黎明は妙に静かだった。何を考えているか中身を覗こうとして、その前に黎明は口を開く。とりあえず。何か話題を出さなければならないという使命感と、沈黙でこの時間を消費するのは惜しいとでも言うように、そんな風に黎明は思っている、気がした。
「
……
ユミピコこの間の映画見たじゃん? どれが良かった?」
「映画、ああ、あれか」
「今度は映画館に一緒に行きたいから好み訊いておこうと思って」
「そうだな、どれもそれなりに良かったが、最後のはつまらなかった」
「そうか、ユミピコ好きそうだと思ったんだけどな。ばんばん人が死んでくやつ」
「
……
恋愛映画ではなかったのか?」
「いや、パニックホラーみたいなのだったな」
思わず眉を寄せた。
そうだっただろうか。映像が掠れて記憶に齟齬が生じる。思い出そうとして、視線を感じた。黎明が見ている。観ている。とても似ている。あの日のあの瞬間に。相手もきっとそう思った。
長椅子が軋む音がした。黎明が手をついたのだろう。
気づけば吐息が混じるほど顔が傍にある。そのまま距離がなくなる。唇が触れた瞬間、思わず腹を殴っていた。
くの時に折れ曲がった体と咳き込む音。
反射的だった。拳と悶絶する黎明を見比べる。まあ顔を張らなかっただけ有り難く思うべきだろう。
「
……
ユミピコこれ、本気だろ、
……
嫌、だった?」
天堂が感じているのは困惑である。痛みで頭が冷えたのか、それを容易に見通した黎明は、表情を消して、声をひそめる。そしておずおずと、嫌なものを開くように言葉を喉の奥から吐き出す。
「
……
ユミピコ、もしかしてこの間のこと覚えてねーの?」
曖昧であることはあの日しかない。映画を観た日。そして。
「
……
黎明、お前が私にくちづけたことか?」
「はあ!? お前だよ、お前! 先にユミピコがキスしてきたんだって!
だから
……
」
オレはお前に好きだって言ったんだろ。
同じ台詞が脳内で蘇る。共に明瞭な記憶が露わになった。
その時、黎明は、映画ではなくて天堂を見ていた。視線に気づいて、顔を向ける。大きな、一つの目の奥が仄かに熱を帯びていてなんだかきらきらしていて綺麗でいいなと思ったのだ。だから天堂だけを一心に留めるこの瞳に散らばる煌めきごと黎明のすべてが欲しくなって近づいて、唇を触れさせた。口づけたら、一部だけでも手に入れた気持ちになったからひどく嬉しくなって、満足して。
「
……
なに、ユミピコ、寝ぼけてたわけ?」
違う、と言ったし強く思った。
今もその熱を帯びた色に惹かれている。どうしてだかわからないがそれだけは確かで、そこに濁った疑心が混じるのが厭だった。だからあの瞬間を真似るように天堂から唇を重ねてやる。同じような熱だけをうつして離した。赤い。薄紅色じゃなくてお揃いになった。自然と口角が上がる。
眼前に天堂の好きな輝きがある。そうか。もう手に入っていたのか。
天堂の頬を黎明の両手が包む。
「
……
殴るなよ」
頼むから。懇願じみた声ごと、吐息も熱も再び重なった唇の中に消えた。
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