深く続いていた呼吸の拍子がわずかに乱れ、それからゆっくりと瞼が動く。青い瞳に映った混濁は、ひとつふたつ瞬きをすると溶けるように消えていった。昨夜少しばかり羽目を外したにしては、早い目覚めだなと思う。
こうして共に寝た日の朝、静かに覚醒する魔術師を眺めるのは悪くない習慣だった。昏々と眠る姿へおざなりに羽織らせた上着が、未だにむきだしの肩に引っかかっている。ファイは目元を擦るとおもむろに起き上がった。散々暴いた痕が色濃く残るしどけない様子のまま、猫のように身体を伸ばしている。
それぞれの寝室が別れている場所に滞在するのはいくらか久しぶりだったために、お互いの興が乗っていたのは否定しない。髪紐を探して俯くファイの細い首筋に、うっすらと噛み跡が残っているのも不可抗力だろう。あの位置ならば括った髪でも隠れるだろうし、そもそも目をこらしてようやく気づく程度だ。本人に露見する可能性は低いと当たりをつけて、記憶の隅に追いやることとする。
ようやく目的のものを探し当てたらしいファイが、手櫛で髪の毛をまとめはじめた。腕を上げた弾みで上着があっけなく肩を滑り落ちる。かろうじて下着は身に着けているが、それ以外は隠すものがない状態だ。敷布の上にぺたんと座り込み、すっかり手慣れた仕草で髪の毛を結わっている。黒鋼は寝転んだ状態で肩肘をつき、その痩身を見るとはなしに見た。
「……体つきが変わったな」
黒鋼の呟きに、いつものように金糸を結び終えたファイがこてんと首を傾げる。
「オレ、太った?」
「んなワケあるか」
旅の途中、その土地に馴染む視覚的な意味でも気候に対応する機能的な意味でも、衣服を新しく調達する機会は多い。その際たびたび店の奥から寸法違いの品を持ち出させている人間が、一体何を言っているのだろう。理由と頻度は違えど、自身も同じような経験があるのを棚に上げて黒鋼は思った。上背はあるくせに身は細いばかりだから、その国の服飾文化によっては合わせるものに苦労するのだ。
過去のやりとりを振り返るついでに以前の苦い記憶を思い出して、思わず舌打ちする。
「えー、なんで怒ってるの」
「怒ってねぇよ」
怒っているというより、ただ据わりが悪かったと言うべきか。
今はここに居ない、次に会った時は必ず一発殴ると決めているあの二人と、変わらず呑気であるべき魔法生物と、かつての自分を開示する気など全くなかった魔術師。そしてそれらを己の懐に在るものとして見做していなかった頃の自分の、ひとつのきっかけではあったかもしれない光景を思い出す。とはいえ、今の黒鋼はこの魔術師の腹の内を知り尽くしている。
黒鋼の言葉に偽りがないと見たのか、それとも初めから大して気にしていないのか、ファイは機嫌を損ねた様子もなく無造作に自分の胸元に触れていた。
「じゃあ戦い方が変わったからかなぁ」
「……それもあるかもしれねぇが。というかおまえの場合、『変わった』じゃなくて『戻った』だろう」
「まぁそうなんだけどねー」
肩書き通り魔術師として術を操る姿は、すっかり見慣れたものとなった。戦闘中の攻撃や防御、移動のみならず、この瞬間も保たれているであろう音を消す魔法といい、つくづく何でもありだなと呆れてしまう。気負った様子もなくいとも簡単に発動させてみせるあたり、この魔術師にとってどれだけ身体に馴染んだ行為であるかが伺えた。魔法は使わないと明言してその通りにしていた旅の最中、よく咄嗟に発動せずにいられたなと感心するほどだ。
改めてファイの身体を見る。雪深い国の出身だというのも頷ける白い肌の上に、まばらに内出血の跡が散っていた。筋肉はあるものの、どうにも頼りない印象が拭えない身体の線は直線的な男のそれだ。ただ以前よりもうっすら柔らかく肉がついているように感じられる。肢体の細さは変わらないが、尖った雰囲気がしなやかになったとでも言うべきか。
本人が言っていたように、その時々によって獲物を変え戦っていたやり方を変えた影響もあるだろう。基本遠距離からの間合いを好むのは、本来の魔術を使用した戦法の名残なのだと今ならわかる。
だがそれ以上に、黒鋼の中で確信に近い予想があった。おそらくファイ自身の心境の変化が、その肉体にも表れている。片割れの身代わりとして生きていた痩せ細った子どもの姿がようやく変わりつつある、そのわかりやすい証左として。人より長く生きているらしい身体とはいえ、精神に影響され変容するのはそうおかしなことではないように思われた。
それともうひとつ。どこで耳にしたかも記憶にない不確かな情報なうえに、一転して俗な話ではある。因れば「性別を問わず抱かれることに慣れた身体はそれに伴い変化する」のだという。そうさせた心当たりしかない身で、諸々を振り返った。まぁあながち間違いではない。
「……なんというか」
「うん?」
「抱き心地は好くなったな」
蒼い目が驚きに見開かれた。随分とわかりやすくなった表情につい笑ってしまう。
「……黒様がやらしいこと言ってる」
「今までもっとやらしいことしてた癖に何言ってんだ」
「それとこれとは話が別! もう、朝なのにそっちこそ何言ってんの……」
「前意識飛ばしたときおまえ朝から」
「聞こえない聞こえないオレは何も聞いてません」
全て着替え終わったファイは、完全に昨夜の名残を覆い隠していた。ふう、とこれ見よがしに息を吐くと、仕方ないから許してあげるとでも言いたげな顔でこちらを見下ろしている。黒鋼からすれば、劣勢に立たされた猫が逃げ腰になっているようにしか見えなかったが。
「……魔法解くから、小狼君たちの前で変な話しないでよ」
頼りない肩を少しだけいからせて、足早に部屋を出ていく後姿を見送った。まだ自分たちの他に目覚めた気配はない。いつ子どもたちが起きてくるかわからない状況で「変な話」とやらをするつもりはないが、今の魔術師はどう突いても面白い反応を返すだろうと容易に想像がついた。
ひとつ欠伸をする。いつもの通り義手の調子を確かめてから、後を追うべく黒鋼は身を起こした。
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ハッピー朝チュンエンド!
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