シャツのボタンを全て外した後、大体の場合は戯れのように指の背で日向の頬をなぞってみせる手が、今日はそうすることなく日向の横を通り過ぎてベッドサイドへと伸びていった。
何をしようとしているのか、なんて問う間もなく小さな電子音が鳴ると共に寝室の照明がつき、想定していなかった明るさで反射的に目を眇めた日向は、目の前に向かい合って座る男へ短く声を落とした。
「……おい?」
その響きには半分疑問符が混ざっていたが、疑問というよりかは批難の意味合いがその二文字に強く込められているということは相手にも伝わっているだろう。これから身体をひらかれようというタイミングで電気なんて付けられたら抗議のひとつもしたくなる。ただでさえ自分が熱を上げて溶け崩れる様を目に映されるのは気が進まなくてできることなら目隠しのひとつでもしてくれないかと思っているのに(それはそれで特殊な趣味と紙一重になってしまうので実際にさせたことはないけれど)、鮮明に映し出されるのなんて、こいつは羞恥心で人を殺せるかどうか試そうとでもしているのだろうか。
けれど、照明のリモコンをぞんざいに放った狛枝の目は、人の羞恥を煽ったり揶揄するにしてはいやに真剣な様子だった。
「いや、随分な状態だなと思って。気になったから」
その手が再び日向の方へと伸ばされて、引っかかりの無くなったシャツを肩から落としてくるのを、日向は止めはしなかった。否、止められなかった、というのが正しいかもしれない。いやにやさしさを匂わせるような手つきが、よく分からないながらも抵抗の意志を削いでしまったから。
シーツの上についている日向の両手にだけひっかかる形でシャツが落ちたことによって晒された肌はあちこちに傷ついた跡が様々な形で残っていて、確かに「随分」と評するには十分な有様かもしれない。それは認めるが、けれど、だからこそ日向は渋面を深くした。
「見てて気持ちが良いものじゃないだろ」
作戦の期間は二週間程度はあっただろうか。かなりの規模で展開されていた絶望の残党との交戦を終え、数日の療養の後に宿舎へと戻ってきたのはつい数時間前のことだ。身体に痛みは特に残っていないものの、それらの痕跡が消えるまでにはまだしばらくかかるだろう。
別に、それなりに顔を合わせていなかった所為でがっつくほどに欲求不満になっていた訳ではないけれど、なんとなしにでもそういう雰囲気になって生まれかけた色めいた熱を追い立てる要素には成りえない。というか下手をすればその違った意味での生々しさに気分が盛り下がる可能性もある。だからとっとと照明を消せ、と暗に要求しているのが伝わっていない筈がないのだけれど、狛枝はまるで何も気付いていないかのように無視してみせた。
「覚えてる?」
「は? 何を?」
「どの傷がどうやってついたのか。ねえ、日向クン。覚えてる?」
問いかけの形をしている割には、否定されることを想定していないような素振りだった。日向の気質にか、それとも手を加えられた頭にか。どちらへの信頼に因るものかは判断がつかなかったけれど、その信頼を裏切ることなく、ただ曖昧に日向は頷いた。
「……まあ、一応」
「そう。じゃあこれは?」
肩に走る傷跡を、体温の残っている方の指になぞられる。その指先は少し熱っぽくはあったけれど、本当にただ確かめるためだけの触れ方ではあった。
「これは……味方の跳弾が掠ったやつ」
「こっちは?」
「大雨で足滑らせた隙に切られた」
「ならこれは?」
「民間人が突き落とされそうになって、助けようとしたら代わりに自分が落ちて……受け身取り損ねた」
銃創、裂傷、打撲痕と枚挙に暇がない傷跡ひとつひとつに、骨ばった手指が触れていく。日向の肌についた歪みをじっと見つめる視線は冷めていたけれど、その奥に少しだけ焼くような苛烈さが燻っているようにも感じられた。
狛枝が全ての傷を確かめるのに、どれくらいの時間がかかっただろうか。そうして最後に触れられたのは、辛うじて痛々しさの少ない胸の中央あたりだった。
「……気は済んだか?」
「…………どうだろう?」
「っていうか、そもそも何がしたかったんだよ」
曖昧な笑みだけが返ってくる。その中にはどこか戸惑いも見え隠れしていて、もしかしたら彼自身も何に導かれた衝動なのか正しく自覚していないのかもしれなかった。
日向の言葉に明確な言葉が返ってくる代わりに、狛枝から疑問が差し向けられた。
「キミにとって、……傷って何?」
「?」
「単に自分の至らなさの結果だと思う? 古臭い言葉だけど、何かの努力や成果に対する勲章って定義する人間もいるよね。生きてる証だって感じる人も。キミは……これだけ自分の身体に残った傷跡を見て、どう思うの?」
「…………」
問いかけられて、傷だらけになった自分の身体を見下ろす。もう痛みを訴えてくることはないそれらを目でなぞって、そうすると、なんだか胸の内がやわくほどかれるような感触を覚えた。
「そうだな、……少し、安心する」
「それは……罰を受けてる気持ちになるから?」
「そうじゃない。あ、いや、まあ、そういうのも、無くはないかもしれないけど」
取り立てて自分を追い込む趣味はないけれど、その言葉を根こそぎ否定することは叶わない気がした。けれど、日向が覚えた感覚の根源はそこじゃない。
「こうやって傷付くのは、俺が何かを守ろうとした結果だから。俺にはまだ守りたいものがあるんだって分かって、安心する」
目の前の民間人、肩を並べて戦う味方、防衛線のずっと後方にいる友人たち、取り戻すべき日常、あるべき秩序、或いは自分を許さないまま求めてくれるどこかの誰か。かつて自分が粉々にしかけた世界は、それでもまだ壊れきっていなくて。自分が守りたいと思えるものがこの世界に存在する事実も、一度は自分自身を壊した日向が「守りたい」なんて人並みの感情を抱けている事実も、認識する度泣き出したくなるくらいの安堵が胸を満たしていくのだ。
「…………」
日向の答えを聞いて狛枝は僅かに目を瞠った後、どこかもどかしげに顔を歪めた。しかし、その口元はどこか笑んでみせているようにも見えた。
「ずるいな、日向クンは」
「そうだな。自分で全部捨てて壊した癖に都合が良いっていうのは、分かってる」
「違うよ。……ボクが守りたいと思って手を伸ばせるのは精々キミくらいなのに、キミはそうじゃないでしょ。名前も知らない誰かのためだってキミはすぐ本気になる。それがずるいって言ってるんだよ」
触れたままの胸にいきなり爪を立てられて、僅かな痛みが輪郭を通り過ぎた。真横に引かれ、離れていった後には赤い線が残ったが、血が滲むほどのものではない。けれどなんだかその痛みは息を詰まらせる様な感触を引き連れてきて、日向は思わず眉根を寄せた。
「……俺がそういう人間だって分かってて、それでも俺を選んだのはお前の責任だろ。我儘言うなよ」
「ボクがこういう自分勝手な人間だって分かってて受け入れたのはキミでしょ? キミだってそれにちょっとは責任を負った方が良いと思わない?」
プライドというものがまるで無い訳ではないというか、寧ろ見方によっては人より強く持っている節のある狛枝ではあるが、特に手段として自分で自分を卑下する場面においてはそんなものは宇宙の彼方にでも捨ててきたような潔さがある。突き詰めれば開き直りでしかないその言葉は、しかしそうであるがために糾弾のしようもなく、日向は大層わざとらしい溜息を落として諦めを示した。
「なら、俺にどうしてほしいって言うんだよ?」
「……じゃあ、ボクに傷をつけてくれる?」
「は?」
日向があげた白旗を認めて狛枝が浮かべた笑みは、なんだかいやに甘ったるかった。
「物理的なものならどんな傷でもいいから」
「いや、何でそんな話になるんだよ」
「だって、キミは誰かを守りたいと思うことはあっても傷付けたいとは思わないでしょ?」
「……だから?」
何かを守るために誰かを傷付けざるを得ないことはあっても、進んで誰かを傷付けようという気持ちにはならない。それは確かだけれど、だからといってどうしてそんな要求が生まれてくるというのか。
点と点を結ぶ線が思い浮かばない日向に対して、狛枝はさも当然と言わんばかりの調子で答えを返してきた。
「キミが守ろうとするものも守るために傷付けるものも無数にあるけど、傷付けようと思って傷付けるものはない。だったら、ボクをそのたったひとつにしてよ、日向クン。どれだけ痛くても、苦しくても、どうだって良いから」
自重を支えている手に指が絡められる。神経が通う部分を焦れったくなぞられる動きは奥まで押し入ってきた時の彼の癖と全く同じだと気付いた時に日向はひどく居たたまれない気分になったが、もしかすると目の前の男からしたら「求める」という衝動においてはこれも同じようなことなのかもしれなかった。
……なによりも居たたまれないと感じるのは、彼のそういう部分にこそ絆されてしまう自分自身の存在を自覚してしまうことだという事実に蓋をして、日向は苦々しく返答を示した。
「何でも良いんだな?」
「うん。何でも良いよ。あ、何か道具とかいる?」
「要らない。……動くなよ」
狛枝に重ねられていない方の手を、引っかかったままのシャツから抜く。狛枝がまだ少しも着崩していないシャツの裾をたくし上げて、露わになった肌の、左胸のあたりへと顔を寄せた。
耳を当てると、確かな心音が伝わってくる。それを確認してから、そこに唇を寄せて強く歯を立てた。絡められた手指から少しだけ強張るような力が伝わってくる。そこに吸い付いてから離れれば、はっきりとした鬱血痕が残った。
どこか不健康そうにも見える色をした狛枝の肌にそういう痕を残すのは、独占欲が満たされるよりも先に痛々しさを覚えてしまいそうで、思えば日向がこんなことをするのは初めてのことだった。実際につけたものを見てみればやはりなんだか痛々しく見えてしまって、特に良い気分にはならなかった。
当の本人は、きょとりとどこかあどけなく目を丸くしてこちらを見下ろしている。彼が我に返って何か言われる前に、思って開いた口唇から出た言葉は何とも言い訳じみていた。
「……傷といえば、傷みたいなものだろ」
僅かな沈黙。二、三度鈍色が瞬く時間は数秒にも満たなかった筈なのに、日向は息苦しさで窒息しかけるような錯覚を覚えた。
それでも何とかそれに耐えていると、珍しく狛枝が何の含みもない笑い声をあげた。
「…………ふ、あははっ」
突然両肩を掴まれ、そのまま体重をかけられる。
「っ?」
咄嗟の事で反応できないままベッドに背を預けることになった日向の上にそのまま狛枝の上体も乗っかってきて、肩口に顔を埋められた。彼が笑い続けることで肩に呼気が触れる感覚がひどく擽ったかった。
「はは、ほんと、キミって変なとこで俗っぽいというか……っ」
「う、うるさいな! 何でも良いって言ったのはお前だろっ」
「うん、そうだね。別に責めてる訳じゃないよ」
「馬鹿にはしてるだろ」
「嫌だな、してないよ」
まるでつくりの違う両腕を日向の顔の横について、それを支えに狛枝が身を起こす。真直ぐこちらを見下ろす顔は逆光でよくは分からなかったが、満たされたようにその眦がやわらかくほどけていることだけは分かった。……分かってしまった、と言うべきだろうか。
「……そうだよね」
彼が何をどう納得したのかは分からなかったが、密やかに落とされた言葉が、指先を擽るような熱を伴って肌を撫でる。その音の響きの所為か舌の上になんだか急に甘ったるさを覚えて、思わずそれを誤魔化すために口の端を噛む。ただ狛枝はそれを目ざとく見て取って、咎めるように義手で日向の口唇を辿ってみせた。
「ちゃんと消えない痕にしてね、日向クン」
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