詠夕れもん
2025-03-22 21:45:03
2372文字
Public
 

蜃気楼行き逃避行(狛日→七)

未機パロです。起こり得ないもしもについての話です。

こんなこと、普段の彼ならば、夢現の中でさえきっと口にすることはなかっただろう。

「もし、俺が……

だからきっと、これはいつかを思い起こさせる様な暑さの所為なのだと、思った。

……逃げ出したいって言ったら、連れてってくれるか?」

朝と呼ぶにはまだ早い、薄暗さにやっと陽の明るさが滲みだしたような時刻。初めて耳にするような名前が付けられた遠方の島の調査任務で、拠点として宛がわれた小屋の空調はひどく老朽化していた。命の危機を感じるような気温では無いけれど、まともな空調無しで快適な睡眠をとるには些か暑すぎる。寝苦しさに目を覚ました狛枝の視線の先、すぐ隣のベッドで半身を起こし窓の外を見つめていた日向が狛枝より先に目覚めたのか、それとも寝付けないままこの時間になっていたのかは分からない。微かな衣擦れの音で狛枝が目覚めたことに気付いたのか、それとも問いの形を成しているだけのただの独り言だったのかも、判断がつかなかった。
まだ覚醒しきっていない頭が、温度の伴わない声で落とされた言葉をゆっくりと飲み込もうとする。……仮定の話だ、というのは理解できた。彼は本気で、切実にそうしたいと願っている訳では決してないのだと。ただ同時に、彼が努めてそこに熱を込めないようにしたのだということも、分かる。だから、その全てを全くの虚構であるとは言うのは些か乱暴だろう。
逃げる。その様をぼんやりと頭に思い描いてみる。かたい手のひらを握って、この世界に背を向けて、当てもないまま走り出す。ふたりで。凍えるように寒い夜も、焼けるような陽の下も、握った手を離すことなく。体温を分け合って、或いは奪い合いながら。
……きゅう、と、胸が引き絞られるような心地になった。痛みに似たそれは、けれど、最もそれらしく形容するならば歓喜というべきかもしれない。それでも狛枝は、深く息を落としてその感触をやり過ごした。

「無理だよ」

狛枝が答えた言葉にも、日向のそれと同じように、はっきりとした温度は乗らなかった。
日向がこちらをゆるりと振り返る。左右でまるで違う色彩を浮かべる瞳がさみしげに、しかしどこかやわらかさを湛えながら揺れた。

……そうか」

たった一言、受容だけを彼は示してみせる。望みを叶えようとしない態度に対する落胆も、踏み外すことを止められたことにする安堵も、何も続くことは無かった。
ただ物わかりの良い返事を返すばかりでそれ以上の内心を晒さない日向が何だかいやに気に障ったが、ならばせめて温度からその内心を捉えようと手を伸ばすには、ふたりの距離は少し遠かった。そう認識した狛枝はまだ重い身体をゆっくりと起こして、それから立ち上がる。

「だって、」

たった一歩の距離を埋めるのはすぐのことだった。隣のベッドに乗り上げて、ちぐはぐな虹彩を眼前に捉える。

「キミが逃げるってことは、全部を、……彼女の意志すら捨てて、ボクだけを見てくれるってことでしょ」

ただの仮定に過ぎないのに、狛枝の声色は目が回るくらいに甘ったるさを帯びている。狛枝自身が聞いていて胸が焼けるようなそれを日向はただ静かに受け止めるばかりで、ひた隠しにしている訳でもない慕情の存在を彼がどこまできちんと認識しているのかは読みとれなかった。
ベッドに乗り上げて、その眦に手を伸ばしてみる。そこから頬の輪郭をなぞるように指を滑らせて彼のかたちをたどってみても、なんだかすぐにそれが霞んでしまいそうな錯覚を覚えた。

「キミがそんな選択をしたら……キミを連れていくのはボクじゃなくて、」
…………

――狛枝が持つ幸運の、真黒な手になるだろう。そんなことは、言葉にせずとも伝わる筈だ。
狛枝がこうして日向の隣に在りつづけながらずっと彼がそれに捕まらずに済んでいるのは、ひとえに、彼のたったひとつでありたいという狛枝の願いが叶わずにいるからだ。日向の背を支え、後押しするのがもういない少女の意志である限り、日向がどれだけ狛枝に特別心を砕いていたとしても狛枝が本当にほしいものは手に入らないままだ。その痛みがあるからこそ辛うじて彼の傍にいるという現実を見逃されているのだという理解は、大きく誤ってはいないだろう。それが、もし日向が全てを投げ捨てて狛枝の手を求めるようなことがあって、あまつさえ自分がそれに応えてしまうような選択をして、焦がれていたものを手に入れてしまったら。……自らの才能に彼を奪われるのは、きっとすぐの事だ。
両手を日向の背に回す。身を寄せて少し力を込めればかたい感触と共に人の温度が伝わってくる。こんなものには縁の無い人生を過ごしてきたが、そんな慣れない生ぬるさに胸の奥がやわく波うつような感覚を覚えて、そっとその肩口に顔を埋めた。

……ボクは、キミを……なくしたくないから。だから、無理なんだよ。日向クン」

それがどれだけ狛枝が望み、焦がれたものであろうとも、狛枝にだけは絶対にその手をとることはできやしない。日向に、というよりかは、自分に言い聞かせるように小さく呟く。
狛枝の返答を受け取って、日向は穏やかな息を吐く。腕の中の身体からふっと力が抜けて、それから背中に腕が回される感触を覚えた。狛枝は半ば無意識にぎゅうと腕に力を入れる。この温度を失いたくない。その想いの輪郭をなぞって、できるだけ強いものにしておきたくて。
……ただ、それでも。もしその仮定が現実となるようなことがあれば、きっと自分は彼の手を引いてしまうのだろう。だから、彼が彼女を手離すことがないようにと、自分が願わなくたってそんなことにはならないと知っていて、尚且つその現実で自分が痛みを覚えることになると分かっていながらも願わずにはいられない自分の愚劣さに、思わず口元が歪んだ。