肘先の半ば程から向こうを失っている左手へそっと自分の左手を伸ばした。巻かれていた包帯を解き、露わになった断面を見つめる。見た目には不自然な点は無い。その表面の輪郭はやや不自然なものではあったが指先でそこをなぞった感覚は滑らかで、そして触れられた当人の表情も痛みや不快感を訴えるようなものには変化していない。鈍色の虹彩は、自分の物ではない腕を切除した後の経過にはまるで頓着した様子がなく、彼の手の様子へと視線を注ぐ日向の目から逸れることは無かった。
「異常はなさそうだな。これなら義手も問題なくつけられるだろうけど……まずは体力を取り戻すところからか」
「……義手は、」
「分かってる。この前の話通り、ちゃんと設計から俺がやってるよ。けど、左右田にサポートしてもらうくらいは許容範囲だよな?」
念を押すような問いに言葉は返ってこなかったが、しかし否と言われなかったことが全てだろう。ふいと逸らされた瞳がベッドの傍らの窓越しに外の景色を見つめるが、それは無感動に凪いだままだった。
狛枝がなくした左手の代わりを作るのは、元々左右田の予定だった。更に言えば、そこに歪につけられていた江ノ島盾子の手を切除し経過を見守る役目は罪木が担うはずだった。しかし、それを狛枝に告げた時、現実に目覚めてからずっとプログラムでの饒舌さが嘘のように静かだった彼が平坦な声で、でも初めて自分の意思を示したのだ。
――キミがやって。端的にそう要求した彼の意図は、今も分からない。ただ、彼がやっと表に出したものは拾ってやらなければならないと思った日向は素直にそれを承諾した。それからの日向はほとんど狛枝につきっきりとなっていて、コロシアイの頃の彼の記憶が焼き付いている友人たちは時折心配そうに様子を窺ってくるものの、今のところは大きな問題は起こっていない。それは正直、日向にとっても驚くべきことだったけれど。
微かに空気が震える音がした。狛枝が息を吸った音だった。ここ暫くは自分から何かを語ることの無かった口唇が、薄く開かれている。
「……ボクは……」
小さな窓に映る狛枝の虚像に目を向けると、硝子越しに目が合った。薄らとしか映っていないからそれは錯覚かもしれなかったけれど、それでも日向はその温度の無い虹彩に捉えられたような感触を受け取っていた。
「…………キミを、許すことができるのかな」
そう零した声は、やはり虚構の修学旅行の中で見せていたあの狂信的な熱情とはかけ離れたもので、あの渦中にいた自分が聞いたら狛枝凪斗の発したものだとはとても理解できなかっただろう。どこか途方に暮れたような、遣る瀬無さを孕んだ溜息のような揺らぎ。
許す。それがどの事実に対するものなのか、日向は咄嗟に答えを導くことができなかった。心当たりが余りにも多すぎる。才能の無い予備学科の身で分不相応に才能を求めた浅ましさか、希望と称される才能を手に入れて尚絶望へ肩入れしそれを汚した愚かさか、あのコロシアイで彼がその身を賭して築いたトリックを暴いて台無しにした小賢しさか、希望へとたどり着いたかもしれないという夢を抱いたまま幕を閉じられた筈の人生を再開させ、あまつさえ自分が一度絶望に傾倒したという過去がある中で尚未来へ共に連れていこうとする傲慢さか。
狛枝が日向を許容できない理由はいくらでもある。或いはその全てを指しているのかもしれない。それを許容するという選択について彼が思案している、あるいは多少なりとも迷いを抱いているという事実に日向驚いたけれど、ただ、もしかすると彼がそんな風に感情を揺らがせたのは、彼らを目覚めさせるために何度も正しく運用した修学旅行の中で、狛枝が友情を求めるくらいに日向がその内側へと踏み込んだ所為なのかもしれなかった。
だとしたら、彼には悪いことをしたのかもしれない。……だって。
「お前は俺を許さなくたって良い。……いや、違うな。俺はお前にだけは、……許してもらいたくないんだ」
もし天地がひっくり返るような何かが起こり、世界の全てが自分を赦すことがあったとしても、決して。
「どういうこと?」
短く問われた日向は床を軽く蹴って丸椅子を回し、ベッドに背を向けた。自分のやわい内側を曝すのはあまり得意じゃないけれど、きっと、隠したままでいるのは不誠実だ。だからその問いから逃げることはしないが、かといって正面をきって、というのは難しい。
「七海が言ったんだ。自分がいなくなって、もし俺たちがあいつの事を忘れたとしても、一緒に作った未来を俺たちが進む限りは消える訳じゃないんだって」
それがどんな未来であったとしても、と。全てを投げ出そうとしていた日向の背を押した言葉。やわらかい声で、表情で、それでも力強く。今でも自分の足元を支えているのは彼女の言葉だ。思い出す度、七海だけはどう努力したって取り戻すことができないという事実に胸の奥が痛みを訴えない訳ではないけれど。その息苦しさを埋めて余りあるくらいに指先にやわい温度が宿るのは、彼女の意志に覚えた憧憬からくるものなのか、それとも。……その答えは少し勇気を出して手を伸ばせばかたちにできるのだろうけれど、日向は現状、それを紐解くことをずっと躊躇っている。
「あいつの言葉は眩しくて、でも、いや、だから、俺は自分を許したくない」
背中に突き刺さる視線の温度は分からない。ただ、落とされた沈黙が何よりも雄弁に日向に言葉の先を促しているのは確かだった。
目を閉じる。電子の海の狭間で邂逅した少女の輪郭を思い浮かべる。ほのかな春のあたたかさを湛えた虹彩。あれはきっと、自分に最初に与えられた赦しだった。
「このまま周りの優しさに赦されてたら、俺はきっと正しく自分に自信を持てないって分かってるんだ。……だからせめて、お前にだけは許されたくない。俺が俺を許さないでいられるように」
あの赦しはきっと自分に不可欠のものだった。けれど、到底許容しきれない罪と傷を抱えている自分を許さないままに受け入れることが、きっと日向には必要なのだ。そうでもしないと自分を信じる事なんてきっとできないのだと、自分の弱さを日向はそう理解していた。
……ひどい我儘だと分かっている。狛枝が日向に僅かでも情を傾けようかと迷っているのであれば、猶更。自分勝手だと罵倒されても文句は言えないが、しかし狛枝は未だに静かな声色のまま、短く問いを投げかけるに留まった。
「ボクじゃないといけないの?」
「それは……分からない。けど、俺はお前がいい」
罪を、傷を、痛みを。思い返させるのならば、それは狛枝に因るものであってほしいと思ったのは、自分たちが引き摺ってきた歪みの在り方が似ているからだろうか。そう考えるとすとんと腑に落ちる気がするけど、けれどそれが全てでも無いような気がした。
「……お前がいい、か。場合によってはこれ以上ない殺し文句なのにね」
ようやっと狛枝の言葉に感情が乗った。呆れている様な、それでいて自嘲している様でもある、判別することが難しいものではあったけれど。
腹のあたりに狛枝の両腕が回される。軽く引かれると同時に背中に身を寄せられて、互いの衣服越しに生ぬるい温度が伝わってきた。
……或いは、自分とどこか近しい存在を手離しがたくて、こんなことを願ってしまうのかもしれない。彼の体温を心地よく胸の奥に落とすと同時に頭に浮かんだ可能性は、大きく間違ってはいないように思えた。
「ひどいな、日向クンは。七海さんは綺麗な唯一無二でいるのに、ボクにはそんなことを求めてくるんだ」
日向が返す言葉を選ぶ前に、狛枝の両腕に力が入ってそれを拒否する。左右でちぐはぐな力を無遠慮に入れられて、それでもまだ多少出歩くのがやっとという程にしか回復していない彼の力は大したことは無かったけれど、日向はその制止を受け入れた。笑むときの呼気に似た溜息が耳元に落ちる。
「うん、でも、分かった。良いよ。キミが望む通り、ボクだけは何があってもキミを許したりしない」
何故だろうか。狛枝は割に合わない我儘に付き合うことを了承した筈なのに、どこか夢見心地と思わせるくらいに甘やかな語調で言葉を続けてみせた。
「早く世界中がキミを赦してくれるといいね、日向クン」
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