詠夕れもん
2025-01-19 16:05:02
3051文字
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狛日版週ドロライ「特権」

未機パロ、限りなく狛⇒日です。日向くんの情緒が不安定な時に決まって頼られる狛枝の話です。

パソコンの電源を落としたタイミングで、ふと手元に影が差した。
すぐ後ろの誰かの気配に振り返る。が、『誰か』というのは何となく見当がついていた。その想像に違わぬ枯草色の虹彩が、座っている狛枝からしてみれば随分と高い位置からこちらを見下ろしている。常は毅然とした意志を湛えるそれが今はどこか虚ろに見えるのは、きっと錯覚ではない。

「狛枝」
「どうしたの?」
…………

自分からこちらに足を向け声を掛けておきながら、日向は狛枝が発した素気ない声色の問いに窮したように口元をまごつかせた。沈んだ虹彩が迷うように揺らめく。
当たり障りのない問いを投げかけた狛枝も、本当は日向の意図を理解している。こんな目をした日向を見ることは別に今に始まったことではなかったし、こういう時の彼が何を求めているのかはいつも同じだったから。けれど、狛枝が自分からその答えを差し出すことはない。そうあるべきではない。……狛枝から日向に寄り添ってしまうのは、ふたりを繋ぐ見えない糸を致命的なまでに軋ませてしまうと、分かっているから。
だから狛枝はいつもと同じようにただ黙って静かに、できるだけ温度の無い視線を向けて日向の言葉を待ち続けた。彼が言葉を続けるまでに、そう長くはかからなかった。

……この後、時間あるか?」
「予定は特にないけど」
「なら、……その、お前の部屋に寄っても良いか」

その言葉を狛枝が断ったことなんて一度も無いのに、日向は随分と恐る恐るという調子だった。否と言われるのを予感しているかのような。その姿に気付かない振りをするのは白々しいが、至って普段の調子を取り繕って狛枝は頷いてみせた。

微かな嗚咽が耳に届く。けれど狛枝は目の間で湯を沸かすケトルをじっと見つめたまま振り返ることはしなかった。
頻繁とは言わないが、時折、日向はこうなることがある。その背に積み上げられた途方もない量の責任に押しつぶされたみたいに。……みたいに、というよりかは、実際にそうなのだろう。世界をこれだけ歪ませる大きな要因になったのは彼だ。これだけの変容と、その中で世界中の人々が奪われたものの数々を思えば、そこに彼自身の意志が如何程あったのかなんてことは関係ない。周囲から、あるいは自分の中から生まれる重圧には際限がないだろう。
虚構の中の修学旅行でどれだけの傷を負い、そしてそれを踏み越えてみせたとしても、それだけで何もかも変われるわけではない。或いは現実世界で日向創として目覚めた彼の中に、カムクライズルとしての才能が残されていたのであればまた違ったのかもしれないけれど、今の日向には特別な何かは何も残っていない。何の才能もないただの人の身で受け止めるには、きっと、彼の咎はあまりにも大きすぎる。日向はそれを責任感とちょっとした虚勢だけで背負い続けていて、でも、そんなものだけでずっとその背を支えられる訳が無い。それらが時として上手く機能しなくなることはいっそ当然と言えた。
こうなった時、日向は決まって狛枝の元を訪れる。狛枝の部屋のソファを占拠して静かに涙を落とし、やがてそれがおさまったら狛枝が常備しているインスタントスープだけを口にして、そして泥の様に眠る。この時に彼が狛枝に求めるのはたったひとつ。この場にいることだけだ。
かち、と軽い音をたててケトルのスイッチが跳ねあがる。それと同時に背後から衣擦れの音が立った。嗚咽はもう、聞こえてこない。狛枝がインスタントコーヒーにお湯を注いでいる間に傍らの戸棚を日向が開けて、深いマグカップにコーンスープの粉末を落としていく。

……お湯、貰って良いか」
「どうぞ」
「ん、悪いな」

ケトルを手渡すタイミングで日向の横顔を一瞥する。眦は赤く、その虹彩には深い影が落ちている。普段より少しだけ丸まった背中が、たった1センチしかない筈の身長差を広げているかのように錯覚させた。
なみなみとお湯が注がれたスープは、マグカップの深さから考えたら相当薄い味になっているだろう。けれど日向はそんなことに頓着する様子もなくそれを持ってソファへと戻っていく。狛枝もそれに続いて、日向が座ったのと反対の端に腰かけた。

…………
…………

二人の間に会話は無い。これもいつものことだった。長い時間をかけて日向がスープを飲み下し、暫くの後糸が切れたようにふと眠りにつくまで、決まってこの部屋には温度の無い静寂だけが広がる。
……この時間が、何よりも苦痛だった。
だって。本当は、手を伸ばしてしまいたかったから。すっかり弱り切った彼に体温を引き渡して、人間の感触を伝えて、できることなら、逃げてしまおうかと囁いて、彼が是と言おうが拒否しようがその手を引いてしまいたかった。
けれど、そんなことは許されていない。だって、日向がこうして自身を支えきれなくなった時の拠り所として狛枝を選ぶのは、彼が狛枝を自分に無関心な人間だと認識している故の選択なのだから。脆くなっている姿を晒しても心配しない。気遣わない。優しくしたりしない。ただこうなった日向の存在を無言で享受するだけ。日向が強く在ろうが弱さに押しつぶされていようが、気にも留めない。……或いは、日向が本当にその重荷に耐えられなくなった時が来てしまったら、後腐れなく自分を壊してくれる相手として。日向が狛枝に求めているのは、そういう役割だ。狛枝は日向というひとりの凡人にはもう何の関心も向けていないだろうと信じて。

……そんな訳、あるはずないのに)

狛枝は確かに、日向を壊すことができる。躊躇いなく。けれどそれは無関心に因るものではない。彼がそれを望むならどんなものでもそれを叶えてしまいたくて、それに、彼が壊されることがあるとすれば、それが自分以外の何かに為されることを、許容できないから。
この感情を、狛枝が愛と定義したのはいつの事だっただろうか?
その定義が正しいのかそうでないのかは、分からない。分からないけれど、それを判断してくれる誰かも存在しない。それ故に、狛枝凪斗は日向創を愛している、ただそれだけが狛枝にとっての真実になってしまった。
しかし、これを日向に気取られるわけにはいかない。狛枝が深い想いを自分に傾けていると分かったら、日向はもう狛枝を頼ることは無くなってしまう。自分の弱さが誰かの優しさを傷付けてしまうことを、日向は徹底的に忌避しているから。狛枝が握りしめている特権は、狛枝が日向に対して無関心を貫いているという日向の思い違いただひとつで生まれているものでしかない。その認識が正されて狛枝の権利が失われるということは、同時に日向が逃げ込む先が失われてしまうということになる。崩れかけた際の寄る辺を失くしてしまったら彼の精神がどうなってしまうかなんて、……想像するまでもない。
だから、狛枝は徹底的に日向の想像する狛枝凪斗を形作っている。何を求めているか分かっていても自分から提示してやるような優しさは見せないし、泣いている姿を一瞥すらしないし、先んじてスープを用意してやりもしないし、慰めの言葉をかけてやることも、手を握って人のぬるさを伝えてやることもない。精一杯の距離を取って、ただ今の日向を拒否しないこと。それだけが狛枝に許されていることだった。
これを自身の才能が掴んだ幸運ととるべきなのか不運ととるべきなのか。静寂の中でいつもと同じ自問を繰り返すも、答えはずっと出ないままだった。