端末に表示されている日付が切り替わったのを見てから、少し建て付けの悪い窓を開けた。夜半の冷たい空気が吹き付けてきて、それまでぼんやりと迫ってきていた眠気を霞ませる。
碌に上着も着ずに外へ出るには些か厳しい寒さだが、ソファに投げかけていたブランケットを肩に引っ掛かるだけでベランダへと足を踏み出す。常より灯る明かりが多いのは多分気のせいではない。
世間の喧騒の中に自分のささやかな「特別」が埋もれてしまうこの日が、昔はあまり好きになれなかった。
今はもうそんな感傷に浸ることは無くなったけれど。ただ、それと入れ替わるように、全く別のものが静かに胸を軋ませるようになった。
目を閉じる。頬を刺すような冷たさの木枯らしを、ぬるい南風が肌を撫ぜた様に錯覚する。雲ひとつない晴れやかな晴天の下で、ぼんやりと海を見つめる眠たげな瞳の少女の虚像が、こちらを見つめて小さく笑った。
……彼女がまたひとつ、遠くなった、と。世界がひとつ時を進め、自分もまた歳を重ねたこの瞬間に、そんな事実が静かに胸の奥へと波を立てる。
七海千秋は、想いを繋げることで自分が未来に生きるのだと言った。自分は、彼女の想いを連れてこられているのだろうか。彼女を生かし続けられているのだろうか。数字というひとつの形で、少しずつひらく彼女との距離を実感する度にそんな疑問、……或いは不安が浮かぶけれど、答えを出せたことはない。あの頃が遠くなれば遠くなる程記憶にある七海の輪郭が薄れていくようで、胸を引き絞る感覚は以前より強くなっていた。ずっと大切にしていたいと願っている彼女へのやわらかな想いを、自分はあの頃と変わらない形で抱いていられているのだろうか。
……ふと、ポケットに入れている端末が震えた。メッセージではなく通話を知らせるものらしく、一度ではおさまることなく存在を主張し続けている。
こんな時間に、誰が、何の要件で。そんな疑問は湧いたものの今はどうにも手に取る気分にならず、そのままにしておく。時間も時間だし、暫く置いておけば寝ていると思われるだろう。そんな風に思っていたのだけれど、どれだけ待ってみても日向を呼び出す振動が止まることはなかった。数十秒を超えて一分を経過し、それから暫くしても主張を続けるそれ。それに加えてよくよく耳をそばだててみると、衝立の向こう側から呼び出し音らしき何かが微かに聞こえてきた。その情報から自然と行き着いた犯人の正体に、日向は一瞬で根比べを放棄した。思い描いた人物が間違いでなければ、日向が寝ていようが叩き起こすくらいの心構えでかけてきていてもおかしくないし、そもそもこの距離なら日向の端末が振動していることに気付いているだろう。あえて無視していることも伝わっていてこの態度なら、きっと向こうが引くことはない。
端末をポケットから引っ張り出して表示を確認する。狛枝凪斗。予想に違わぬ、宿舎の隣室に住む男の名前を確認して、ひとつ息をついてから液晶に浮かぶ通話開始の箇所に触れた。
「もしもし?」
「あ、やっとでた」
「随分しつこいな。こんな時間に何の用だよ」
「うーん……別に、特別用がある訳じゃ無いんだけど」
何もない癖にこれだけしつこく呼び出してきたのか。思わず性根を疑いたくなるが、この男の性根がろくでもないなんてことはとっくの昔によく分かっている。ただ、だからといって文句を飲み込める訳ではない。ひん曲げた口を開こうとして、しかし、日向の口が音を出す前に、ただ、という狛枝の言葉がそれを遮った。
「日向クンのことだから、ろくでもない感傷にでも浸ってるんじゃないかと思って」
静かな言葉がすぐ隣のベランダから聞こえてきて、それから僅かに遅れて端末のスピーカー越しにも鼓膜を揺らした。
咄嗟に否定の言葉を探したが、けれどそれは叶わなかった。何の根拠もない言葉なんていくらでも否定のしようがある筈なのに、それでも。何故だろうか。単に図星を突かれたからなのか、それとも、耳に届いた声色がやけにやさしく響いたからなのか。日向には上手く判断がつかなかった。
「…………お前は、」
「うん?」
「気付いてほしくないことに平気で気付くから、参る」
彼のことだから、きっと何となしにでも日向の「感傷」の根源にも行き着いているのだろう。それこそ根拠はなかったが、不思議と確かな予感があった。別に狛枝は人の心の機微に対して特段聡いという訳ではないのに、日向に対してだけはいやに心中の核心をついてくる節がある。
「……しょうがないでしょ」
自分から踏み込んできた癖に、なんだか遣る瀬無さを孕んだ細い声が漏れる。けれどその内にぬるい甘さのようなものを混ぜ込んだ声色で、狛枝はどこかやわらかく続けた。
「キミのこと、今一番近くで誰より見てるのは……ボクなんだから」
冬の空気に混じったその言葉が耳元を温める感覚がして、数秒の後に日向は端末を取り落としそうになった。詰まった息が胸を塞ぐ。彼の言葉が自分の胸の奥のなにかを揺らしたという事実は身にしみて分かったけれど、自分の胸中にわいたものが何なのかは、上手く形容できなかった。
「…………っ、お前な……」
自分の感情に理解が追いつかないまま、やっとの思いで、蚊の鳴くような声だけが口から出る。何だか腹が立つのにも似た感覚が湧いてきて、せめてと口を尖らせて言い返した。
「……そういうこと言うなら、顔くらい見て言えよ。格好つかないぞ」
ベランダの塀から身を乗り出して隣を見やるが、狛枝はこちらに背を向ける形で塀に寄りかかっていてその表情を伺うことはできなかった。
くす、と笑う呼気がスピーカーを通して聞こえる。小さなそれは、どこか自嘲を示しているようにも聞こえた。
「そこまでの勇気は、まだないかな」
あ、誕生日おめでとう、とついでのように吐き捨てられて、それからこちらの返答を待つことなく微かなノイズが立ち、通話終了を示す電子音が続く。
ふらりと身を起こした狛枝は、そのまま日向を一瞥すらせず部屋へと戻っていった。暗がりと随分と伸びた横髪に紛れて、結局彼がどんな顔をしているのかは分からなかった。
「…………何だったんだ、あいつ」
怪訝な顔のままカーテンを閉められた隣室を見つめるも、答えは出ない。日向は暫くそのままでいたが、ぬるい錯覚をかき消すような風の冷たさに気付いて、大人しく部屋へと戻った。
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