隣から聞こえていたタイピングの音が止まって数拍の後、微かに息を吐く音が耳に届いた。日中であれば確実に喧騒に紛れていただろうが、定時をそれなりに過ぎた今、執務室に残っているのは自分と隣の男だけだ。衣擦れの音ひとつだって拾えるくらいの静けさがフロアには広がっていた。
「明日の資料、プロジェクトのフォルダに入れておいたから。後で確認しといて」
「分かった。悪いな、いきなり頼んだりして」
元々は3日後に控えていた会議が上の人間の都合で明日の朝一にリスケジュールされたのは今日の夕方のことだった。殆ど手付かずだった資料を前に日向は顔色を失くしたが、優先度が高い業務が他に詰まっていてどうにも時間が確保できそうにない。この案件に関わっていて手を借りられそうなのは狛枝くらいのもので、そうなれば自然と取れる選択肢はひとつに絞られた。助力を請う相手が存在したのは不幸中の幸いというべきだろうか。
「別に。キミがこの時間からロクに働いてなさそうな頭で変なもの作って、ボクも一緒に恥かくのはごめんだし」
「そういうのを言葉にしなきゃもっと良いんだけどな。まあ、おかげで助かったよ」
謝意に対しては棘のある言葉が返ってきたが、その声色は内容に反してまるいものだった。かといってその言葉が照れ隠しだとか、日向が変に気負わないようにわざと素直でない言い回しをしているのだとか、そんな可愛げのある意味が伴っているかと言ったら、特にそんなことも無いだろうとも理解している。狛枝は勿体ぶった言い回しや本心を取り繕うような言葉選びをしがちだけれど、こういう場面で日向に対してだけは一周回って素直に本心を零すところがある。ただ、そこに言葉以上の害意は存在しないというだけで。しかしそれが他の人間に対して向かうと人間関係が破綻するであろうことは想像に難くないので、その矛先がきちんと意図を理解している自分にしか向いていない現状には安堵していた。都度都度説明して仲裁する役割を担わされるのはそれこそごめんだ。
目はモニターに向けたまま苦く笑ったタイミングで、椅子を引く音が横から小さく聞こえた。狛枝がこちらに身を寄せるのが視界の端に入ったのでそちらに顔を向ける。
「どうかし、っ」
何の前置きもなく口唇を重ねられて、言葉が途切れる。触れられたのは数瞬の出来事で、わざとらしく小さなリップ音を立てて狛枝は直ぐに身を離した。
……何の脈絡もない行為は、しかしそこまで珍しい出来事でも無かった。はっきりとした名前をつけるのが困難だった自分たちの間柄に長い時間をかけて一つの区切りをつけてから、時折彼は気まぐれみたいに唇を寄せてくるようになった。当初は勤務時間中、周りに人がいる最中でも平気で仕掛けてくるものだから控えさせるのにとんでもない苦労を強いられた。度重なる説教と大喧嘩の後にやっと職場、かつ人目のある状況ではしないようになったので、一応これでも進歩はしている。
けれど、契機の無い行為自体が収まりを見せた訳ではない。未だに慣れないままでいる感覚に自然と眦のあたりの体温が上昇するのを何となく感じながら、眉を顰めて問いかけた。
「……お前は何でこう、毎度唐突なんだ」
「衝動的なものに理由をつけろって言われても困るなあ。うーん、不意打ちだと日向クンがいつまで経っても生娘みたいな反応して面白いから、とか言っておいた方が良い?」
「き……ッ、お前、恋人相手でもセクハラは存在するんだからな。出るとこ出たら俺が勝つぞ」
「やだな、司法がまともに機能してないこんな世の中でどこに出るって言うのさ」
それはそうなのだが、かつて率先して『こんな世の中』にした自分達が交わしていい冗談かというと、かなり微妙なところだった。目の前の男相手にそんな倫理観を期待するのも無駄だとは分かっているが。
日向の苦い顔を薄っぺらい笑顔で受け止めた狛枝は、自席に向き直り直ぐにパソコンを落とした。
「先帰るけど、あとどれくらいかかりそう?」
「多分、一時間以内には終わる。あ、浴槽朝洗ってきたから、悪いけど適当なタイミングでお湯だけ入れておいてくれないか」
「ん、了解」
荷物を纏めた狛枝がフロアを後にする足音を聞きながら改めてモニターと向かい合う。マウスに置こうとした手は、しかし、控えめに扉が閉められる音を聞くと同時に、他人の感触が残る口元へゆるゆるとのびた。
「…………」
理由を求めるのはナンセンスだと、日向だって理解はしている。不意に落とされるキスは狛枝にとっては何てことないスキンシップの一環に過ぎないのだから。自分たちが生まれ育った文化の基準からは多少逸脱していると思わなくもないが、彼が浮世離れした感覚を持ち合わせていても仕方がないと言える半生を過ごしてきたというのも分かる。
だから。自分が本当に気にしているのは、もっと違う所にある。
(……あいつは、)
自分にも同じように触れてくることを求めているのだろうか、と。
言動からそういう欲求を伝えられたことはない。ただ、バランスの問題だ。率直に定義するなら愛情表現と呼ぶようなものを、普段日向は狛枝に積極的には示していない。対して狛枝はあの調子なので、なんだかそれは具合がよろしくないのでは、と感じ始めたのは最近の事だ。或いは、彼がふとしたタイミングで口付けてくるのは、日向が受け入れる様を見ることでその気持ちを確かめるしかなくなっているのでは、とも。そう思うと、自分は羞恥心と相手の好意に長らく胡坐をかいてしまっていたのでは、とすら思えてきた。
この場に日向の友人の誰かしらがいて、その内心を零していたら、考えすぎだと呆れた溜息のひとつでも落としていただろう。あれの行動はただただ衝動的な意味合い以外の何も孕んでいないだろう、ときっちり正してやったかもしれない。けれど生憎この場には日向以外の誰も居らず、生来の生真面目さと、他者から差し向けられる好意に不慣れな一面がぐるりと嚙み合った結果、揉まなくていい気を揉む羽目になってしまっていることに、日向自身が気付ける訳もなく。
(いきなりキス、は、流石にハードルが高いけど。受け身でばっかいるのはやっぱ、良くない……よな?)
口の端を指先でなぞって、小さな息をひとつ飲み込む。そこで思考に一度区切りをつけて、今度こそマウスへと手を伸ばした。
日向が業務を終えたのは、狛枝が退勤してからきっかり一時間後のことだった。
狛枝が新世界プログラムから目覚めた当初からあてがわれている二人部屋のドアを開け、欠伸を噛み殺しながらリビングへと向かった。その扉をくぐれば、備え付けのソファにかけて文庫本に目を落としていた狛枝がこちらへ顔を上げる。
「ただいま」
「おかえり。丁度お風呂わいたよ」
「助かる」
ネクタイを緩めながら応えて、ふと、ソファの傍らで足を止めた。こちらを見つめたままの鈍色と無言で視線だけが交錯する。数秒の後、疑問を示すように小首を傾げられた。
……思い立ったが吉日。善は急げ。使い古された言葉はそれだけ真理に近いという証の筈だ。恐らく。多分。きっと。そんな風に心中捲し立てて、ようやっと勇気を出して。狛枝の隣に腰を下ろした日向は、ただそれでもおずおずといった調子で、狛枝の背に両手を回した。薄い背中に手のひらをあてて身を寄せる。その肩口に頭を預けて、少しだけ腕に力を込めた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………?」
狛枝の体温になんだか微睡むような心地よさを受け取っていた日向は、しかしいつまで経ってもうんともすんとも言わないどころか身体的にすら何一つ反応を示さない狛枝の様子を訝しんだ。勢い余って何かしくじっただろうか、と一抹の不安を覚えながら身を離して――目を丸くした狛枝の、色素の薄い肌が真赤に染まっているのを見てとり、思わず唖然とした。
「……お、おい、狛枝、大丈夫か?」
「だい、じょうぶ……じゃないかも」
「え」
か細い声で応えた狛枝が芯を失ったようにこちらへもたれ掛かる。その体重を受け止めて再度狛枝の背に手をあてた日向に対して、狛枝は彼にしては珍しく、何だか困り切ったような声で再度口を開いた。
「びっくりした。キミがいきなり抱きしめてきたりするから」
「いつも涼しい顔でキスしてくる奴の台詞か?」
「違うでしょ、キスとハグは。全ッ然違う」
「いや、まあ、それには同意するけど……恥ずかしがるなら逆だろ、普通は」
肩口に埋められた頭が左右に振られて、首筋をやわい髪の感触が擽った。日向の感覚はごく一般的な筈だがその尺度は狛枝には当てはまらないらしい。天邪鬼もここまでくるといっそ芸術的にすら思えてきた。
だって。と、狛枝の声が揺れる。おっかなびっくり、と形容するに相応しい様子で日向の背に彼の腕が添えられる感触がした。
「こうまでしたら、……離せなくなるかもしれないでしょ」
力なく吐息交じりの弱った声でそう呟いた狛枝は、反して自棄気味に日向を囲う腕に力を込めた。
身体の関係なんてとっくにいきつくところまでいっている癖に、こんなことでここまで感情を揺さぶられている様がなんだかちぐはぐで、それでも狛枝相手だとさもありなん、という気にすらさせられるのだから、本当に面倒なものだと思う。
ただ、そうと分かっていながら彼の隣を選んで、あまつさえいじらしさを感じてしまっている自分も、或いは何か逸脱してしまっているのかもしれないけれど。
「なあ狛枝」
「なに」
「今日はこうして寝てみないか?」
「はい?」
「お前は多分、こういう……人の感触とか、体温とか、そういうものにもうちょっと慣れた方が良いと思う」
「……手を出されても構わないって言うなら、いいけど」
「今こんだけ緊張してる奴が手出せるとは思えないけどな?」
「…………後悔させてやる」
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