簡素なパッケージに手を伸ばし、いつも通りぞんざいに開封しようとしたのを、背後から伸びてきた手がひょいと箱を掠め取って妨害してきた。反射的にそちらに目を向けると、眉を吊り上げた日向がこちらを見下ろして大きな溜息を吐く。
「前から言おうと思ってたけど、お前、これを昼飯にするのやめろよ」
これ、と言いながら、狛枝の手から奪い取ったパッケージを左右に振る。味気ない栄養食品がその手の中で揺れて、微かな音を立てた。呆れた、と言わんばかりの眼差しを向けて小言を落としてくる日向に、しかし狛枝は口を尖らせて反論した。
「別に、何を食べようがボクの自由でしょ。倒れたりした訳でもないし」
「こういうのは後々に響いてくるって相場が決まってるんだよ。食堂があるんだし、そこでちゃんとした飯を食えば良いだろ」
「食堂って騒がしくて好きじゃないんだよね」それに、と、続けながら僅かに目を逸らす。「顔も知らない人が作ったご飯を食べるの、あんまり気が進まないから」
出来合いの弁当の類ならまだ我慢がきく。が、その場で調理して出されるものは、あまり得意ではなかった。ありえないことだと分かっているが、そこに人の悪意が潜んでいる可能性をどうにも疑ってしまうのだ。別にそういう経験があったという訳では無いのだが、変なところで潔癖だというのは、自分でも理解している。
ならば自炊をすれば良いという話なのだが、それはそれで困難があった。ある程度まともなものは作ろうと思えば作れるのだけれど、時たま自分に備え付けられている幸運という素養が悪さをしてくるから。コンロの火がおかしな燃え上がり方をして壁を焦がした日から、差し迫った理由が無い限りキッチンの前に立つのは控えるようにしている。
そうやって他の選択肢を排除していた結果、固形に加工された栄養食品が一番気兼ねなく口にすることができる、という結論に至った訳である。流石に三食全てをこれで補ってはいないが、少なくとも時間も限られている昼食には最適解と言えた。
狛枝の返答を受けた日向はなんだか少し難しい顔になって、何事か考える素振りをした。ふたりの間には沈黙が広がって、周囲の喧騒だけが耳に届く。
「……ちょっと待ってろ」
いくらかの空白の後、日向は短く言葉を落とすと狛枝の反応を待つことなくとっとと踵を返してしまった。狛枝の昼食をその手に握ったまま。取り戻すために追いかけることも考えたが、彼の言葉からして戻ってくるつもりではあるらしいので、席を立つことなく大人しく待つことにする。
実際、彼が戻ってくるまでそれ程長い時間はかからなかった。狛枝のデスクの傍らで足を止めた日向はその隅に何かを置く。目を向けてみると、それは無機質なデザインのタッパーだった。
「何これ」
「俺の弁当」
「えっと、キミの昼食をどうしろと?」
「顔も知らない奴が作ったのが食えないなら、顔を知ってる奴が作ったのは食えるってことだろ?」
「つまり……これを食え、ってこと?」
「殆ど残り物を詰めてるだけだから、本当は人に渡すようなもんじゃないけどな。でも、ああいうのよりはいくらかマシだろ」
今レンジにかけてきたから、と付け加えながら蓋の上に箸の入ったケースが置かれる。日向の顔と、それからデスクに置かれたタッパーとを狛枝は忙しなく何度も見やった。状況の理解は追いついたが、なんだか浮足立つような、よく分からない感覚のままに。
「え、いや、キミはどうするの。ご飯」
「食堂行ってくる。じゃ、ちゃんと食っとけよ」
「ちょっ……と、日向クンっ?」
困惑した狛枝の呼びかけを無視し、日向は再度踵を返してフロアを出ていってしまった。
この数分の間に大多数が昼食に出払ったようで、いつの間にか執務室内はかなり静かになっていた。そんな中に置き去りにされた狛枝は、暫くの間じっと日向が置いていったタッパーを見つめていた。その様子を誰かが見ていたら、何を真剣な顔をしてタッパーを睨んでいるのかと訝しんだかもしれない。……ひとつ言い訳をするならば、これまでの人生で人の厚意というものにあまり縁がなかった自分としては、それをいざ差し向けられた時にどう受け取っていいかが分からないのは仕方ないのだと言いたかった。だからこうして困惑ばかりが先だって、素直に受け入れるのを躊躇ってしまうのだ、と。
ただ、こうやって一方的な睨めっこを続けていても何の益もないことは分かりきっている。暫くの後、意を決して手を伸ばした。レンジにかけてきた、という日向の言葉通り、その器から温かさが伝わってくる。爆発物でも扱っているような慎重な手つきでその蓋を開けた。白米と、何種類かのおかずがきっちり詰め込まれている。少し考えた後、隅にある玉子焼きへと箸を伸ばした。
(…………甘)
どちらかというとしょっぱい玉子焼きを好んでいる狛枝は心中そう呟いた。が、なんだか直ぐに飲み込んでしまうのは躊躇われて、しかしそんな風に感じる理由もよく分からず、咀嚼を進めながら首を傾げた。
「あ、ちゃんと食ってくれたんだな」
日向が食堂から戻ってきたのは、ゆっくり食事を進めていた狛枝が丁度箱を空にしたタイミングだった。
「押し付けられただけとはいえ、このご時世に食料を無駄にするのは勿体ないからね」
「お前にもまともな感性があって安心したよ」
自分の捻くれた返答が、お節介を素直に受け取ったことを認める気恥ずかしさからくるものだというのは、多分バレている。僅かに頬を緩めた日向は、中身の無くなったタッパーに手を伸ばした。
「なあ狛枝、お前嫌いなものとかあるか? あと、味の好みは?」
「え? どうしたの、突然」
「明日以降の参考にしようと思って」
「……、……?」
その意図が直ぐには読みとれず、狛枝は小さな疑問符をあげた。そんな狛枝の反応に対して、日向は僅かに苦笑を浮かべる。
「だってお前、俺が何言ったってどうせ自分じゃ変えないだろ。食生活」
「……つまり?」
「俺がお前の分も弁当持ってきた方が話が早い」
「えっと……キミがそんなことをするメリット、ある?」
「お前な、何でも損得で理由をつけようとするのは悪癖だぞ」
日向が浮かべる苦笑が深くなる。……それなりの付き合いをしているので、彼のお節介がそういうものとは遠い何かに突き動かされたものであるというのはとっくに分かっている。けれど、かつてはあれだけ理解できないが故の怯えを向けていた狛枝にすら、他の人間に対するのと同様のそれを差し向けようというのは、それこそ理解しがたい。
けれど、……その虹彩に浮かんだ温度のやわらかさに嘘が無いということは、直感的に理解できた。
「…………嫌いなものは、そんなにない、けど」
「うん」
「玉子焼きは……しょっぱい方が好みだな」
「そっか。分かった」
どうしてか、彼の声色に少しだけ喜色が滲む。その理由はやはり、欠片とて理解はできないけれど。彼の中にそんな感情が浮かんだという事実を認めることは、悪くない気分ではあった。
それから毎日、律儀に欠かすことなく日向はふたり分の弁当を持参するようになった。かといってふたりが顔を突き合わせて昼食をとっているかというとそんなことは無く、日向は誰かしらに声を掛けられて食堂へ弁当を持っていくことが大半だったので、殆どの場合、狛枝はデスクにてひとりで用意された弁当をつついていた。
今日も今日とて自席で黙々と食事を進めていると、その後ろを通りがかったソニアが目を丸くした。彼女の部署は別のフロアにあるので、こんなところで彼女の顔を見るのは珍しいことだった。
「あら。狛枝さん、自炊なさってるんですね」
「ううん、自分で作ってる訳じゃないよ。これは日向クンが作ったやつ」
「まあ! いわゆる愛妻弁当というやつですね? 素敵です」
ソニアは普段母国語の様に日本語を流暢に操るが、若干偏った知識がそうさせるのか、偶におかしな言葉選びをすることがある。澄んだあおい瞳を煌めかせながら口にした言葉はやはりズレがあって、苦く笑いながらそれを訂正した。
「ボクらは夫婦関係じゃないから、その言葉は当てはまらないかな」
「あら?」
きょとん、と目を丸くしたソニアが小首を傾げる。さも当然のような顔をして、彼女は問いを重ねた。
「わたくしはてっきり、お二人はパートナーなのかと思ってましたが。違うのですか?」
「……そういう事実は無いね。全く」
完全に事実無根なのではっきりと否定した。が、何故かソニアは納得いかないとでも言うかのように困惑をその顔に浮かべる。こちらとしては、寧ろ彼女が何をそこまで自信ありげに思い違いをしているのか、理解に苦しむのだが。
「逆に訊くけど、どうしてソニアさんはそんな勘違いをしてるの? 少なくとも日向クンのお節介なんて、特段珍しいことじゃないと思うけど」
「…………狛枝さん」
狛枝の言葉を受けたソニアがなんだか急に真面目くさった顔になって、隣の椅子を引いた。そこに腰かける何てことない動作すら美しく、彼女が身に纏っている、男女の規格の差はあれど基本は自分たちと同じ仕立てのはずのパンツスーツがやたら高級な品物に見えてくるのだから不思議なものだ。
膝を揃えて座った彼女は一度周囲を見渡してから、少しだけ狛枝に身を寄せる。透明感のある虹彩に真直ぐ見つめられると、どうしてか居たたまれない気持ちが湧き上がってきた。
「わたくしがお話したというのは、日向さんには内密にしていただきたいのですが」
声を潜めてそう切り出したソニアは、どうやら日向が戻ってきていないことを確認していたらしかった。
「最近、たまに廊下で日向さんと花村さんがお話しているのを見かけるんです。お話の詳細は分かりませんでしたが、日向さん、随分と熱心に花村さんに色々訊かれてるご様子でしたよ」
「……何が言いたいの?」
「あら」
にこり。訝しげな狛枝の問いを、ソニアは涼やかに笑って受け止めた。
「ご自身が理解なさってることを他人に言葉にさせるのは、少し卑怯ではありませんか?」
「……質問に質問で返すのもどうかと思うけど?」
精一杯の嫌味を微笑で受け流す王女様(元、がつくが)は、以前と比較して強かというか、なんだか図太くなった気がする。それはしなくても良い成長なのでは、と思わずにはいられなかった。
そんな彼女の眼差しがやわく解かれる。慈愛すらこもっていそうなその温度に、背筋がむずがゆくなるような居心地の悪さを感じてしまうのも、多分、狛枝にとっては仕方のないことなのだ。
「狛枝さんは少し自惚れるくらいが丁度良いかと思います。そうでないと、日向さんが報われませんから」
「…………」
沈黙しか返せない狛枝を、ソニアはただただ笑顔で見つめていた。それが狛枝を追い詰めるためのものではなく、彼女の言葉の意味を狛枝が飲み込むだけの猶予をもたらす意図を持っているという事実が、胸の内に湧いた微妙な感情を余計に擽った。
狛枝が言葉に迷っている以上この膠着状態は暫く続くかと思われた。しかし、突如狛枝の真後ろに響いた靴音が、あっさりとその幕を引くこととなった。
「あれ、ソニアがこっちに来るなんて珍しいな」
「……ッ」
「日向さん、丁度良かった。実は日向さんにお渡ししてほしいと、小泉さんから書類をお預かりしてまして」
「ああ、この前あいつに頼んでた件か。わざわざ悪いな」
「お気になさらず。お陰で狛枝さんと有意義なお話もできましたし」
これまた優雅な動作で立ち上がると、胸に抱えていた封筒を日向へ手渡して、ソニアは軽く頭を下げた。
「それでは、わたくしはこれで」
「ああ、ありがとな」
「いえ。狛枝さんも、頑張ってくださいね」
「…………善処するよ」
ふたりの方を見上げられないままに返した答えを、この場をそのまま後にした彼女がどう受け止めたのかはわからない。けれど正直、そんなことに構っている余裕は狛枝には全くなかった。
「うわ、お前どうしたんだよ、顔真赤だぞ? 熱でも出たのか?」
不自然に前方を見つめたままだった狛枝の顔を覗き見た日向が頓狂な声を上げる。目下最大の問題は、この状況をどう取り繕うべきかということだった。
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