シノハラ
2026-01-30 18:35:11
2373文字
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海原は私を引き連れて

ンズイル 魔……務中民間人避難誘導時の話

 今日は波が普段より高く船の揺れも大きいのだろうが、普段小舟ばかりに乗る身からすればさほど気になるものではなかった。不安を押し殺す密やかな声を聞きながら、自分はここにいるべきではないと強く感じる。それは自分ばかりが抱く感情などではなく、斜め前で目を閉じている隊員も同じことだろう。
 けれど、これも任務の一環なのだとイルーガは自身に言い聞かせて目を瞑る。どうせナド・クライにいればろくに休憩も取らずに走り回るのだからと民間人輸送船の警護の目的でライトキーパーの隊員も交代で船に乗せられているのだ。今は心身ともに休み、とんぼ返りでナド・クライに舞い戻った時には高いパフォーマンスを発揮しなければならない。
 そうは言っても簡単に落ち着けるはずがなかった。フリンズからもたらされたファデュイ幹部の暴走の報。博士と呼ばれる男の企みにより、ナド・クライは蹂躙されている。
 その状況で何も思わずぐっすりと眠れる者であれば、イルーガも含め皆ライトキーパーなどにはなっていないのだ。きっと義父であれば何を思っていても眠るべき時に眠れる精神を持たねばならないとイルーガを諭しただろうが、自分はまだそんな器用な事ができる段階にはないと痛感する。
 休むのなら室内の方が良いだろうと思っていたが、明かりの強さなど関係ないように思えてイルーガはその場から立ち上がる。人がいないという理由で浮かび上がっている通り道を誰かを蹴とばさないよう注意して通り過ぎて、階段を上がって甲板に出ると眩しい明かりが目を刺した。ナタに近づいているせいで、日の光が強まっているのだろう。
 眩みそうになった目を一度瞑って緩く頭を振ってから、イルーガは離れていくナド・クライの方角に視線をやった。遠くに見えるそれは異変は北部に集中して事もあって、その大地は普段と変わらないように見えてしまう。
 けれど、甲板の欄干を頼りに立ちながらじっとナド・クライを見つめている老女の背を見れば、そこで起きている事の異様さを否応なく思い起こさせられる。人々を救護し、励ましながら南下しながらも、イルーガの胸には常に焦燥感が湧き上がっていた。
 自分達はまだあそこに戻れるし、戻らなければならない。しかしもう、一秒たりともそこにはいさせられないと判断するしかない者達がいくらでもいる。
 本当は自分達だって危ないはずだが、いつもの事だと言ってあえて事態を矮小化しているだけなのかもしれない。そうでもしなければもう、あそこには誰もいられないのだ。そこにいなければならない数少ないひとたちを除いて。
 ――そのひとりにフリンズがいる。知らないうちに厄介な出来事の対応ばかりして、いつの間にか博士とやらに呪いをかけられた。効力ははっきりしないが、言動から考えればナド・クライから出る事は死を意味するだろう。普段とさほど変わらないはずなのに、きっと嘘ではないのだろうと思わせる調子で彼はイルーガに説明してくれた。
 イルーガにはイルーガの仕事がある。けれど、その仕事を終えた後、彼と合流する資格を持たない。そう言えば、そんなものはない方が今回は良かったと彼は言ったかもしれないが。
 それほどに今後の見通しが彼ですら立たないのだ。どうなるか分からない。けれど、やるしかない。彼も、自分も。
 船内の息の詰まる雰囲気を厭ってか、甲板で海風に晒されている者も少なくない。船内よりはずっとましなものの、それでもうっかり人にぶつからないよう気を払いながらイルーガは船尾に向かう。この一瞬一瞬で最もナド・クライに近い場所へ。
 そこに足を置き欄干を手が掴んだ瞬間、イルーガは故郷とも呼べるピラミダも見えないナド・クライからちかりと灯台の明かりが届いたような気がした。普段島と島の間を渡る程度のことしかしないイルーガからすれば、この距離から見える明かりが本当に灯台のものであったかは皆目見当もつかない。
 それに見えたとしても、ナシャタウンの港を示すものだろう。決してイルーガが時折訪ねるあの小さく、破壊し尽くされてもなおライトキーパー達にとって重要な島のそれではない。そんなことくらい、頭では分かっている事だった。
 夜明かしの墓の守り人、キリル・チュードミロヴィッチ・フリンズ。ナド・クライの大地の渾然一体とした性質の一端を担う気質を表すに相応しい、やけに格式ばった彼の名前。イルーガはその名を波の砕ける音に紛れさせながら、不意に湧き上がってきた感情を受け入れた。
 じわりと滲みそうになる涙を押さえ込みながらイルーガは木製の柵を掴む指の力を強め、彼がいるはずの街を見つめる。自分には馴染みのない街ではあるが、きっと彼はよく訪ねているはずのナド・クライの顔とも言えるこれからがらんどうになる街。そんなところに彼を置いて自分も離れて行かなければならない。
 彼がどこから来て、どこに行くのかイルーガは知らない。どこにもいかないのかもしれない。そう思うのは、イルーガの願望でしかなかった。
 本当は彼がどこから来たかなんて些細なことなのだ。彼が誰だっていい。彼がひとりで抱え込んで誰も知らないことがいくらあってもいい。それでもナド・クライを、ライトキーパーを、そうしてできればイルーガの目の届く場所を家としてくれればそれ以上の事など本当はないのだ。
 僕は君を愛している。あのとき、そう告げられたら良かった。
 またナド・クライからちかりと光が届いたように思えた。常識的に考えれば、海面が光を反射しているだけなのだろう。それでもその光が特別なものに感じられてならなかった。
 応えてくれなくてもいい、だから最善を尽くしてどうかそこにいて。そうしてこの思いを君に伝えさせてくれたなら、どんな結末だって受け入れてみせるから。