きなこ湯
2026-01-29 22:50:46
6079文字
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Mein Hund.


カネブラ、恋に浮かれて若干様子のおかしいトキシンの奇行に周囲が引いたり騒いだりする話。
時系列は3rd後ですが、致命的なネタバレはないはず。

お見舞いの差し入れで自分の手の模型を贈る男要素をエビデンスにしたトキシンです。
つまり何でも許せる人向け。


 鼻の先で彼女の巻いた白いマフラーが翻り、トキシンは咄嗟に手を伸ばした。ふわふわしたそれを掴めば、使い古されて少しごわついたポリエステルの感触が右の手のひらに残る。彼女がトキシンたちの家で暮らすようになる前から使っていたものらしく、これなら新しいものをプレゼントしてもいいかな、とトキシンは頭の片隅でぼんやり考えた。彼女の地味な物持ちの良さは、几帳面な性分ではなく小市民的な感覚に由来している。それに、好きな子が自分の買ったものを身に着けてくれる、というのは想像だけで胸が満たされた。王子様然としたその見目に違わず、トキシンは恋をして浮かれるタイプのロマンチストだった。

「今日は風が強いね。大丈夫? 寒くない?」

 冬の厳しい北風に煽られて、彼女は何度もマフラーの端を巻き直しながら歩いていた。ロングコートに手袋、足首までしっかり覆うショートブーツ、それからぐるぐる巻きにしたマフラーと、防寒対策はきっちりしている。それでも自分より頭ひとつ低い華奢な身体は、目を離した隙に手の届かない場所まで飛ばされてしまうのではないかと、トキシンはそんな荒唐無稽な不安を抱いていた。

 吹き飛ばされるは冗談にしても、身体を冷やして体調を崩すなら珍しくもない。今度こそ巻きが崩れないようしっかりマフラーを巻き直してやろうとすると、顔の半分をポリエステルの繊維に沈めた彼女がもうそのままでいいや、と投げやりに言い出した。

「え? そのままって……ああ、俺がマフラーの端っこを持って歩くってこと?」

 そう、と何の気なしに頷いた彼女の顔を見返す。切実なお願いというわけではなさそうだが、冗談やからかいの類にも見えない。何度もマフラーを巻き直すことが純粋に面倒になってきたのだろう。案外ものぐさなことは同じ家で暮らす以上よく知っているので、トキシンはさして驚かず「そっか」とうなずいた。
 マフラーは特に複雑な巻き方をされているわけではなく、片方の肩の上からシンプルにぐるぐる巻きにされている。風にさらわれるのはその端っこで、隣を歩くトキシンがその部分を手に持っていれば、確かにそれ以上巻きが緩むことはないだろう。つまり、咄嗟に掴んだこのままの状態でいればいい。

 なるほど、と思いながらふたたび帰り道を歩き出す。マフラーの端を手に持っているので、おおよそ手をつないで歩くのと同じような距離感だ。視線を落とした彼女の手はもこもこのぶ厚い手袋に覆われており、これはこれで触り心地がよさそうだけど、せっかく手を繋ぐなら素肌同士で触れたいとトキシンは常々思っていた。彼女の手のすべすべな肌の質感も、すらりとした骨の輪郭も、形の綺麗な爪先まで、手袋に覆われていては魅力が半減してしまう。トキシンからすれば、冬場の外出は普段と違って彼女の素手に触れるチャンスが少なく、残念ですらあったのだが――

……

 自分の手が、彼女のマフラーの端を掴んでいる。
 ふたりを繋ぐゆるやかなその距離感が、まるで、犬のリードのように見えた。

……あっ。ご、ごめん。首、大丈夫? 俺が遅かったよね、ちゃんとお前の近くを歩くよ」

 考え事に気を取られたせいで足取りが遅れ、先を歩いていた彼女が不満そうにトキシンを振り返った。その胡乱げな眼差しに、トキシンはまったくその通りだと襟を正す。リードを持つなら、近くで隣に並ばなければならない。

 気を取り直し、距離感を間違えないよう意識して歩く。いつも通り並んで歩く帰り道のはずなのに、妙に足取りがぎこちなくなる。胸の内側がふわふわと膨らんで落ち着かず、トキシンは率直に戸惑った。普段、こんな気持ちになることは少ない。彼女の手に触れた時や、彼女に笑顔を向けられた時に胸が高鳴る感覚と、少し似ているような気がする。
 口の中に溜まった唾を飲み込んで、そうと気取られないよう静かに深呼吸を繰り返した。なんだか、これって、結構……





 過酷な環境で生き抜くことを強いられたせいだろうか、EROSIONは順応力に長けている。特殊な環境であった“島”、あるいはドイツでしか暮らしたことのなかったわりに、今の生活はすっかり日本式に馴染んでいた。リビングに据えられたこたつはその最たるもので、春先になればもう片付ける、いやまだ片付けないでひと悶着が起きる。
 しかし季節はまだ空っ風の吹く真冬。五人よりも少しばかり日本の生活に馴染みのある彼女は、休日の昼間の大半をこたつの近くで過ごしていた。非合意の軟禁生活だった頃とは異なり、すっかりこのマンションの一室が自宅と化している。

「ンなぁ~……誰かみかんの皮剥いて」
「はぁ? それくらい自分でやれ」
「今日は甘えたクレハちんだぁ~。でもぼくもパース、だっておててがみかんでぐしゃってなっちゃうもん」

 同じこたつを囲む方々から拒絶が返り、クレハは不機嫌そうにきゅっと目を細めてから、ぼんやりとテレビを観ていた彼女の方を向く。末っ子のあざとい眼差しに折れてみかんを受け取ると、ヨルがため息交じりに「甘やかすんじゃねぇよ」と尤もな苦言を呈した。ちなみにネィトはソファで熟睡している。
 よくある日常の風景だ。賑やかなトラブルに堪えないこの家では珍しく、まさに平穏そのものである。

 そして、平穏とは破られるためにあるものだ。そのセオリーを裏切らず、この場に不在だったもう一人の帰宅を知らせる音が玄関の方角から聞こえてくる。

「ただいまー……って、あれ。みんなリビングにいる」
「おかえり。用事があるって言ってたわりには早かったンなぁ」
「んね~。トキシンちゃんってば朝から出かけて、なに買ってきたの~……って、むむむっ? これって……
……、はぁ……おい待て。オレの見間違いじゃねぇよな」
「ン……たぶん、俺にも同じものが見えてる」

 平穏だったリビングに意味ありげな沈黙がおりる。しかし渦中のトキシンはきょとんと首を傾げ、「俺もこたつ入りたいからちょっと詰めてよ」と通常運転である。
 手にしたレジ袋をテーブルの上に置き、当然のように彼女の隣にずいっと身体を差し込んだ。普段であれば彼女の隣を占拠した身勝手さに方々から苦言が飛ぶ状況だったが、全員の何とも言えない視線がテーブルに置かれたそれへと集中している。

「は~、あったかい。やっぱり冬のこたつっていいね」
「いや暢気に温まってんじゃねぇよ。なんだよコレ。この家にペットなんかいねぇぞ」

 レジ袋にはその店名が印字されているものだ。大雑把なトキシンがわざわざマイバック代わりに家のレジ袋を持っていく、なんて殊勝なことをするわけがない。そもそもその店の種類からして、この家にはそぐわない。つまり中身は新品だろう。

「ああうん。ちょっとね」

 トキシンはいつも通り穏当な声で相槌を打ち、ガサゴソとその中身に片手を突っ込んだ。小さな紙包みを取り出す。まるでプレゼント用だ。その場にいる全員が、何が何だかわからないと困惑を浮かべて注視している。穏やかな団欒の空気がすっかり変質していることに反し、トキシンはどこか上機嫌ですらあった。

「なに買ってきたの?」
「えっとね、これ」
……んん? トキシンちゃん、これって……犬の首輪?」
「そうだよ」
……いや、ウチに犬なんかいねぇだろ。まさかこれから飼いたいなんて言わねぇよな。テメェの世話もできねぇヤツに犬なんか飼えるわけねぇやん?」
「はぁ? べつにそんな言い方することないだろ。俺だって、犬のお世話くらいちゃんとできる。……って、そうじゃなくて!」
「いや、そうじゃなければ何コレ?」
「お前にあげようと思って」
…………ハ?」

 呆気にとられたヨルの声を最後に、再び全員が沈黙する。

 お前、と名指しされた彼女が硬直していることすら気に留める様子なく、トキシンは普段通りの王子様めいた笑顔を浮かべていた。
 首輪は明らかに犬用のそれで、まだタグも切られていない。大型犬の着用を想定しているのか、無骨ながらしっかりとした作りだ。いわゆるチョーカーや悪趣味なグッズらしいちゃちな雰囲気はなく、かえってそれがトキシンの言動を異様なものに仕立てている。

 全員が絶句している中で、トキシンは意気揚々と首輪の留め具を外した。止める間もなく、そのままカチャリと首輪を装着させる。
 トキシンの隣に座っていた、人間である彼女の首に。

――わぁ……っ! うん、やっぱりこれが一番似合うと思ったんだ。首輪……うん、いいね。可愛い……まるで、本当に俺のものになったみたいだ……

 そのまま恍惚と流れ出したポエムを他所に、リビングの空気は急速に冷えてゆく。犬用の首輪をつけられた人間はそろりと視線だけを動かして、トキシン以外の面々をぐるりと見回した。全員が絶句している。どうやら驚きの方が大きかったらしく、誰もトキシンの奇行を止めよう、巻き込まれた彼女を助けようという発想にならないらしい。
 何とも言えぬ思案の末、彼女はつらつらと紡がれるポエムの合間に“待った”を挟んだ。

……うん? 手を貸して……って、俺が?」

 べつにいいけど、とトキシンは青色の目をパチパチと瞬かせて右手を差し出す。
 その手のひらの上に、彼女は軽く握ったこぶしをぽんと乗せてみた。
 ――わん。

――〰〰!」

 激震が走る。トキシンだけではなく、この場の全員に。
 直撃を受けたトキシンはまぶたの皮膚が裂けそうなほど目を大きく見開き、それからワナワナと震える両手で利口な犬の頭を抱き寄せて、わしゃわしゃと大袈裟に撫でた。

……俺、大事にお世話するっ!」
「待てこのアホ正気に返れ! そいつは犬じゃねぇぞ!」
「ねぇ、トキシンだけずるい。俺もしたい。ねえほら、俺にもさっきのやって。はい、お手」
「そだよそだよ! せんせ、ぼくにも! ほらっ、頭撫でてあげるから〜!」
「こンの……ッ、Fxxk'in兄弟ども! 揃いも揃って……ッ! ッおい! そのリード貸せ! アンタらには任せらんねぇだろ!」
「なっ……! ちょっと、みんな! この首輪は俺が彼女のために買ってきたものなんだけど! 邪魔しないでくれる!?」
……うるさいぞ、君たち…………は? おい、これは一体どういう状況だ?」

 寝ていたネィトも起き出し、リビングは一気に騒がしさを増す。明らかに犬用の首輪をつけられた人間がいて、それを大事そうに抱きかかえたり、繋いだリードを握っていたり、芸をさせたり、首の下を撫でたりしている兄弟たち。賑やかさが手のつけられない混沌と化すことはこの家において珍しくないが、今回は悪趣味の傾向がやや強い。珍事を目にしたばかりネィトだったが、幸か不幸か、この男にとっても当然“犬”は守備範囲内である。

「よくわからないが……君たちに犬なんて躾けられないだろう。ここは責任とって俺が引き取る。さあ、おいで」
「もう、ネィトまで! だから、この首輪は俺が買ってきたし俺がつけてあげたんだから、今は俺のものだってば!」
「アンタらみてぇな倫理観も甲斐性もねぇ男に飼われるなんて最悪だろ。いいからオレにしろ、ほら」
「ヨルちんは朝よわよわだからお散歩とか無理そうじゃん! ねねっ、ぼくだったらもーっとかわいい首輪にしてあげるよん♡ どう〜?♡」
「ンなぁ……朝弱いのはこの子も一緒でしょ。ねえ、もっと撫でてあげるから俺にしてよ。ああ、おやつとか食べる? ポテチあるけど」
「あっずるい! ……っていうかみんな、俺の話聞いてる!? 彼女は俺のものなのに!」

 そもそも犬ではない。
 もちろんトキシンのものでもない。

 自分が悪ノリに乗ったことが原因の一端でもあるので、彼女は黙ったまま遠い目で明後日を見つめた。誰が自分のリードを持ってもあまりろくな未来が見えない。いや、もしかするとヨルなら犬の世話も律儀にしてくれそうな期待が持てたが、意外にもこの悪ノリにやや本気で乗っている様子を見ると、実はちょっと危ないのかもしれないとぼんやり考えた。





 数日後。

「あ、車道側は危ないよ。お前はこっち。うん、ちゃんと俺の隣歩いてね」

 帰り道が一緒になったトキシンは、いつものように彼女の腕を引いて車道側から遠ざけた。かつてはファーターの探し物に万が一があってはならないという理由であったが、今となっては純粋に彼女の無事を願う心ゆえだ。
 しかし、気遣ったはずの彼女はなぜか胡乱げな目でトキシンを見上げた。

「えっ、俺また何かしちゃった? 普通に危ないかなって思っただけなんだけど……

 自分が彼女を怒らせてしまうことが多いことは、さすがにトキシンも理解していた。理由を聞いて納得できる時もあれば、いまいちピンとこない時もある。しかしトキシンは恋に浮かれるタイプのロマンチストなので、好きな子にわがままを言われて思うのは「甘えてくれてるんだな」程度である。
 今回はどうしたのだろうと率直に訊ねると、彼女は一瞬迷う素振りを見せた後、“隣を歩いてね”がまるで犬扱いだ、と不満そうに呟いた。

「犬って……いや、そんなつもりはなかったんだけど。お前は人間でしょ?」

 数日前の混沌をすべて無視した発言に、彼女は目を平べったくして閉口した。件の奇行はトキシンの中ですでに過ぎ去ったことに振り分けられているらしい。
 もはや文句を挟む気にもなれず、ひとつだけため息を吐き、彼女は先を歩き始めた。「あっ! ちょっと、置いていかないでよ」と、トキシンは駆け足で隣に並ぶ。

「もう、なんで怒ってるの? お前のこと、犬なんて思ってないよ。それにお前、どっちかって言うと猫っぽいっていうか……じゃなくて!」

 弁明する言葉がさすがに空振りしていることを察してか、トキシンは話題を変えた。

「家に帰ったら、お前に渡したいものがあるんだ」

 まさか、また……? と、再び温度の低い眼差しを向けた彼女に首を傾げ、トキシンは「マフラーだよ」と話を続ける。

「うん。前に、お店であったかそうなやつを見つけたんだ。ふわふわで触り心地もいいし、きっとお前も気に入ってくれると思う。ほら、しばらく冬の寒さは続きそうだし、受け取ってくれると嬉しい……ん、だけど」

 ためかな? と、隣の顔を覗き込むように言う。その顔にからかうような素振りはなく――もっとも、首輪を買ってきたことだってトキシンは“本気”だったのだろうが――彼女は思わず苦笑した。ありがとう、楽しみと言えば、トキシンは不安げな顔をパッと輝かせて頻りに頷く。

「うん! ふふっ、お前があのマフラーつけてくれるの、今から楽しみだな。明日もきっと寒いよね?」

 トキシンが首輪を買ってきた経緯を知るのは、当然本人のみである。