世界の片隅で密やかに息づくスターデューバレー。外界から断絶され独自の文化をいくつか持つこの地だが、一年に一度だけほかの地域から旅の行商人達の訪れる時期がある。それは冬の中頃、たった三日三晩だけ開かれる世界を凝縮したささやかな祭り。とある雪の朝、今年も外から彼らがやってくると知らせの手紙が届いた。
「子どもなら見ててあげるから行ってきたら?」
こともなげにそう言ったのは義理の母であるロビンだった。この日はちょうど海辺で夜の市が開かれる初日、夫と二人で子どもを連れて山の上の義実家へ遊びに来たのだが振る舞われたお茶を飲み切る前にロビンからそんな提案を受け私は驚きに目を丸くした。
「ロビン達は行かないの?」
「私達は明日行くからいいわよ」
「でも大変じゃ……」
「全然、私だってたまには孫と過ごしたいわよ」
ねえ、と綻びに綻んだ笑顔を見せるロビンの膝にはここを訪れてからずっと赤ん坊がいる。生まれて数ヶ月が経った私と夫の子ども、ロビンからすれば初めての孫で会うたびに私達から取り上げては別れの瞬間まで片時も離さない。尤も二人で慣れない育児をしているものだから経験者である彼女の手助けはなによりありがたく、今も久々に茶菓子を楽しめているのだけれど。
「いいの? 結構動き回るようになってるから疲れちゃうかも」
「いいに決まってるじゃない、なんなら朝帰りでもいいわよ」
「……この町のどこにそんな場所があるんだよ」
「セバスチャン」
ちょうどタイミング悪くそんな部分だけ聞きつけたのか、キッチンの入り口でセバスチャンが呆れたように溜息を吐いた。黒いジャケットを羽織ったままの彼は私の夫、今はもう誰も使っていない地下の自室から戻ってきたセバスチャンは彼を振り向いた子どもへひらひらと手を振りながら私の元へとやってきた。
「行く?」
「だからそんな場所ないだろ」
「違うわよ! 夜の市、今日からでしょ? ロビンが子ども見ててくれるって」
セバスチャンは別に行かないと言うと思った。結婚して二年になるが昨年は面倒だと行かなかったのだ。だから今年もそうだとばかり、しかし彼はそのまま席に着くかと思ったのに椅子を引く手を止め先ほどのロビン宛らなんてことのなさそうに頷いた。
「いいよ、行こうか」
「え?」
「夜の市、今から行けばちょうど着くはずだ」
すっかり日の落ちた時分ではあるが太陽の光を補うように赤や橙、緑などさまざまな電飾が海面を彩っている。それらだけではなく波の音を引き立てるような音楽が私達を迎えてくれて、私とセバスチャンは手を繋ぎさくさくと雪の積もる砂浜を歩いた。
「なに見る?」
「……まぁ適当にひととおり見て回るか」
久しぶりだしなとセバスチャンが辺りを見渡す。結婚するまではセバスチャンもこの夜の市を訪れていた。付き合う前も、付き合ってからも。彼は桟橋の奥でコーヒーを飲みながらなにをしようかとぼんやり水平線を眺めていたのだったか。
けれどたった一度だけ、結婚前の夜の市で彼がとある夜店を覗いていたのを思い出した。
「ねぇ、そういえば昔なに見てたの?」
「昔?」
「結婚する前にさ、なんか夜店見てたでしょ」
あの日も雪の降る夜だった。肩に薄らと雪を積らせ真面目な顔で露店の品を見つめる横顔を今も覚えている。あの日だよとセバスチャンを覗き込めば彼は少し間を置いてから重たげに口を開いた。
「……指輪だよ」
「指輪?」
「外だと婚約や結婚のときに指輪を渡すらしいからな」
波の音に掻き消されてしまいそうなほど小さな声でセバスチャンはそう言うと、そのままふいと視線を逸らした。聞き取れなかったわけではないが私がもう一度と聞き返してもそれきり口を噤んでしまってもう答えてはくれないらしい。
婚姻の証にこの地に伝わる首飾りを渡したのは私の方だった。しかしつまり彼は自分からもなにかを渡したいと思ってくれていたようで、そしてそれは世界共通のプロポーズに倣いたかったいうこと。その頬が赤いのはきっと海辺を彩る電飾のせいではないはずだ。
「ねぇ、もう遅い?」
「え?」
「指輪欲しいな」
「お前はもういっぱいつけてるだろ」
「違う! セバスチャンとお揃いのが欲しいの!」
お願いとその場で雪を跳ねながら駄々を捏ねるように地団駄を踏む。そんな私にセバスチャンはううんと考える素振りを見せたあと、私の手を握り直して覚えのある道を辿った。
あの日少し離れた場所から眺めた横顔はすぐ隣にあった。繋いだ手からぬくもりを分け合って、そうしてこれがいいと指をさしたのは偶然か否か同じデザインの指輪だった。顔を見合わせて笑う私達を仲がいいねと行商人が揶揄って、夫婦だからと包んでもらったふたつの指輪を受け取った。
それから桟橋の先で配っている無料のコーヒーをもらった。冬の夜にきんと冷えた体を温めてくれる少し濃い味のコーヒー。紙コップになみなみと注いでもらった私達はひととおり露店を見て回ったあとまだ温かいコーヒーも飲み切らぬうちにそのまま祭りをあとにする。喧騒も背中の向こうへ置き去りにして人もまばらな砂浜へ降り立った私はこっちへ行こうとと東の砂浜へ彼の手を引いた。
「ねぇ、指輪どうするか知ってる?」
「それくらい知ってるよ……お互いの指に嵌めるんだろ?」
馬鹿にしてくれると少し拗ねたように肩を竦めるセバスチャンに私はごめんねと小さく吹き出した。
この東の砂浜は正真正銘誰もいない。夜の市の朧げな灯りも遠くに浮かび、まるでこの谷を頭上から見下ろす星々のようだ。穏やかに打ちつける波打ち際に立った私は左手をセバスチャンへと差し出した。
「じゃあつけて」
「コーヒーを持ったままなのに?」
「そんなの足元に置いとけばいいでしょ、ほら!」
まだ少しコーヒーの残ったふたつの紙コップを足元の砂に浅く埋める。あんまり適当すぎたか斜めになってしまったけれどそんなことはどうでもよく、仕切り直しとばかりに私はもう一度セバスチャンへ向かって左手を伸ばした。
「……こういうとき、なにを言えばいいんだ?」
「なんだろ、私も初めてだから」
「ならなんでもいいか」
セバスチャンは小さな包みから指輪をふたつ、その掌の上に転がした。ふたりで選んだシンプルなそれ。そのうちの小さな方を摘み、それから私の左手を取る。
コーヒーと分け合った体温とであたたかな指が私の手を包み、そうして迷うことなく左手の薬指に指輪を嵌めた。桟橋の方の賑やかな声も音楽もここには届かない。セバスチャンが愛してるとそう言ってくれたから、私にはそれがすべてだった。
だから私もそんな心地をセバスチャンに味わってほしくて、今度は私が同じように彼の左手を取った。そうして先ほどの彼を準えるように愛してるよと呟いて、その細い指へ指輪をそっと滑らせる。作法もルールも知らない、けれどなにより愛を込めた誓い。彼の指に同じ輝きが灯った瞬間、私達はどちらからともなく吹き出した。
「これで夫婦だね」
「前からそうだよ」
「じゃあこれは生まれ変わったときの分にしよう」
「次もか?」
「次もだよ、次もセバスチャンと一緒がいい」
絶対だと私は握ったままだった彼の掌を自らの頬に寄せた。慣れない金属の心地がする。それは私の指にも当然にあって、今度はセバスチャンがこの左手を取ったかと思うと先ほど嵌めてくれたばかりの指輪にそっと口づけを落とした。
「なら毎年買いに来ようか、その次の分も更にその次もな……俺だって何度生まれ変わろうが隣にいるのはお前がいいよ」
そう微笑む彼はきっと次にこの唇にキスをする。結婚してしばらく経って子どもも生まれ、私達のかたちが家族へと姿を変えたって、そんなことが当たり前にわかるくらい私はあなたに恋をしたのだ。冷たい鼻先が触れ合うまであと少し、久々に照れ臭そうに笑う彼の笑顔を瞼の裏に閉じ込めた。
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