みずあめ
2026-01-29 20:00:07
4138文字
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ゆづあい


今朝コートのポケットの中に入れたホッカイロはすでに冷たく、固くなっていた。なくしたまま新しいものを買っていない手袋を休みのうちに買っておくんだったと後悔しながら、少しでも温めようとポケットの中で指先を握る。
駅までの数分ですら凍えるように寒くて、マフラーに口元を埋めて足早に進んだ。信号を渡ってたどり着いた明るく、人の多い駅前は、どうしてかそれまでよりも暖かく感じる。
……逢さん?」
人が溢れかえる駅構内で、見慣れた後ろ姿を見かけてつい立ち止まった。舌打ちをして俺のことを避けていった人に申し訳なくなってすぐに壁際に寄り、もう一度その人の姿を探す。
いた。やっぱり逢さんだ。コートも鞄も靴も逢さんのもので間違いないし、なにより俺が逢さんを見間違えるはずがない。
逢さんは今日、夕方に事務所を出て、取引先に行った後は直帰のはずだった。ちょうど帰ってきたところだろうか。声をかけようと近付き、その向こうにもう一人いることに気が付いて足を止めた。
逢さんの向かい側に立っているのはどこか見覚えのある年配の女性で、俺が記憶を探っているうちに不意にその人が視線をこちらに向けた。じっと見つめられ、咄嗟に曖昧な笑みを返す。やばいな、誰だっけ。脳が高速回転を始めたところで、逢さんが振り向き俺を見つけて目を丸くした。
「由鶴」
……お疲れ様です、逢さん」
「すみません、迎えが来たので、これで。お話の件は後日改めてご連絡を入れさせていただきます」
「ええ、よろしくお願いします。ところであちらの方、以前も貴方をお迎えに来た方でしょう?」
……そうですね、おそらく」
「ふふ、私とは関わらせたくないって顔。まだ若いわね。でもそういうところも私たちにとっては貴方を魅力的に見せている一部なのよ。嫌なおばさんにはなりたくないからさっさと帰ることにするわ。話を聞いてくれてありがとう」
……こちらこそ、ありがとうございました。またよろしくお願いします」
逢さんの一歩後ろでその会話を聞いていた俺は、こちらを向いて笑みを浮かべ軽く会釈をしてくれたその女性に慌ててお辞儀をした。背筋の伸びた後ろ姿を見送って声が聞こえなくなるくらいの距離が空いてから、逢さんがはぁとため息を吐く。俺は遠くに向けていた視線を近くに戻して、逢さんの横顔を見た。
……お邪魔ではなかったですか?」
「むしろいいタイミングだった。あの人はいつも話が長くて……
「ふ。ええと、すみません、見覚えはあるんですが、あの方って……?」
「だいぶ前にaporiaに出資してくれた方だ。俺が担当していたからおまえはほとんど顔を合わせたことはないと思うが、あの人の言う通り俺が一人で参加していた食事の席におまえに迎えに来てもらったことがあったから、なんとなく顔を知っているんだろう」
「ああ、なるほど…………やっぱりお邪魔ではなかったですか?」
「たまたまそこで会って捕まっただけだ。あの人自身は今はうちとの取引はないが知り合いが投資先を探しているからよければと。だが立ち話ついでにできるような話ではないから改めて資料を送ると話して、そこからはずっと取り留めのない世間話が止まらなかった」
「それは……お疲れ様です」
「もちろん悪い人ではないんだが、どうにもペースがな。……以前祠堂に同席してもらった時にも少し面倒なことになったから、おまえとは会わせたくなかった」
「え?」
「俺の都合だ、気にするな。それで、由鶴はいま帰りか?」
「あ、はい」
「時間はあるか」
「はい」
「腹は?」
……減ってます」
「よし、食事に行くぞ。付き合え」
「あはは、はい、ぜひ」
駅から出て近くの飲食店に入り、ピークが終わって落ち着いた様子の店内で奥まった二人席に通される。逢さんはテーブルの上のメニューの表紙をチラッと見るだけで中身を確認することなく、すぐにそれを俺の方へ渡した。
「適当に頼め」
「逢さん、お腹の空き具合は?」
「そこまで空いてない」
「何か食べたんですか?」
「お茶菓子をもらった。それよりも、せっかくだから新商品の試飲をと、紅茶やコーヒーをいろいろと飲ませてもらって、水分で腹がいっぱいになっている」
「わあ、そうなんですね。何か良いのはありました?」
「いくつか美味しいのがあったからサンプルをもらってきた。今度おまえも試してみてくれ」
「わかりました。それじゃあとりあえず今は俺が食べたいものを選んじゃうので、逢さんも食べたいものがあったら好きに取ってください」
わかったと頷く逢さんに笑みを返し、店員さんを呼んでさくっと注文を済ませる。と、机の下でこつんと靴を蹴られ、俺は逢さんを見つめて首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「おまえの食べたいものを頼めと言った」
「? はい、そうしました」
……俺の好きそうなものばかり頼んでいただろう」
「え? ……あれ。そう、かも、しれません。すみません、完全に無意識でした。でも俺も食べたいものではあるので……ふふ、本当に逢さんが好きそうなものばっかり頼んじゃってますね。お腹空いてないのに、ごめんなさい」
……おまえが食べたいのなら、謝らなくてもいい。……俺のことを考えてばかりみたいだな?」
「そうですね。いつだってあなたのことを考えてますよ?」
……
むすっとした顔が照れ隠しだと分かるから、それ以上言葉を重ねることはしなかった。逢さんだって、いつも俺のことを考えてくれているでしょう。お互い様だと言ったらもっと照れるかな。開き直って「当たり前だ」って言うかもしれない。仕事が関係ない時でも一緒にいることも、無意識にお互いのことを考えてしまうことも、もう当たり前になるくらいの時間を過ごしている。
料理がいくつか運ばれてくるとそれは思った以上に逢さんの好きなものばかりで、俺は笑ってしまうのを堪えられず、また逢さんに睨まれてしまった。本当に自分の好きなものを選んだつもりだったから余計におかしい。
「すみません。いただきます。……ん、逢さん、これ美味しいですよ」
……よかったな」
「一口どうですか?」
……はぁ。一口だけもらう」
「ふふ、ぜひ」
「おまえのせいで俺の好きなものばかりなんだから、全部共有してくるなよ。動けなくなる」
「はぁい。美味しいものは味を覚えておいて、今度逢さんのお腹が空いている時に家で作りますね」
「ああ、楽しみにしておく」
「ん! これもすっごく美味しい……! 逢さん」
「いい、いいから、おまえが食べろ。俺は美味しいって幸せそうにしてる由鶴が見られれば十分だから」
……
「俺に見られていたら食べにくいか? 今さら?」
ふっと笑うと逢さんは椅子の背にもたれて上目遣い気味に俺を見つめた。心臓が跳ねて、一瞬で食べていたものの味が分からなくなる。誤魔化すように目を逸らして違う料理に手をつけた。冷ますことなく口の中に入れたスープは熱く、結局それも味が分からない。熱い……と情けない声で呟くと逢さんが楽しそうに笑った。
「ゆっくり食べろ。俺のことは気にしなくていい」
……逢さんは本当に食べなくていいんですか? 食事に付き合えって言うからてっきりお腹が空いてるのかと思ってました」
「今日はすこし疲れたから、おまえと一緒にいたかっただけだ。食事なら断られる確率が低い」
「っ……。そんなの、ずるい」
「そうだよ。付き合わせて悪いな?」
「違います。謝らないで。どんな理由でも、俺はあなたと一緒にいますよ。今日だって食べ物に釣られたわけじゃないです」
……そうか」
「そうです。だから理由なんてなくても、ただ一緒にいたいって言ってくれればそばにいます。疲れてる時でもそうじゃなくても、いつでも」
……じゃあ、わざと終電がなくなるまで引き留めなくても、朝まで一緒にいてくれるのか?」
「え。……いつも、わざとだったんですか?」
「悪かった。おまえのことを帰したくなくて」
……そんなこと言われて怒れるわけないじゃないですか……
「そうか」
笑みを浮かべた逢さんは俺の目の前にあるハンバーグを指差して、楽しそうな声音で「一口食べたい」と言った。普段俺が食べる時よりも小さな一口分を切り分けてからフォークを差し出したけれど、逢さんに押し返されてうっと声を詰まらせる。
「一口食べたい」
……もう、なんでそんな、かわいいんですか」
「そんなこと言うのおまえだけだ」
「当たり前です。俺以外の前で、こんな可愛いことしないで」
ハンバーグを刺したフォークを逢さんの口元まで運んでやれば逢さんは笑いながらそれをパクリと食べた。おいしいと動く唇に今すぐ触れたくなってダメだった。
「まだ食べ終わらないのに……
……? 俺は構わないで、ゆっくり食べていていい」
「俺があなたを構いたいんです。ちょっと急いで食べるので待っててくださいね」
目を丸くした逢さんは照れた顔を隠すようにそっぽを向き、水のグラスに口をつけた。俺は次々と食べ進めて皿を綺麗にしていくのに忙しく、店内に小さくかかるクラシックが今さらのように耳に届く。
料理の残りが少なくなった頃、逢さんはテーブルの上でちょんと俺の手をつついた。顔を上げて逢さんと目を合わせ、言葉を促すために首を傾げる。かすかに視線を彷徨わせてから逢さんはじっと俺を見つめた。
……今日、この後の予定は?」
……終電の時間は確認しなくていいですか?」
「由鶴がいいなら、まだ一緒にいたい」
「はい。俺も、まだ逢さんと一緒にいたいです」
俺がまっすぐに返した言葉で逢さんは安心したようにふわりと微笑んだ。とっくのとうにあなた以外のことを一番に想うことはできなくなっているんだから、遠慮なんてしないでいいのに。仕事のことならお互い言葉にしなくても考えていることを読んで動くことができるけれど、プライベートはまだまだ言葉にしないと伝わらないことが多いらしい。
もう遠回りな手を繋ぐための言い訳も家に泊まる理由もいらないから、触りたい、一緒にいたい、あなたが好きだって、ちゃんと言わせて。