お邪魔しますと頭まで下げて居間に入ってきたイルーガがあ、と声を上げた。どちらかというと不機嫌さが混じるだろう事は重々承知しているので、フリンズは客人を招き入れるのに相応しい表情を崩さない。
「こんなの作ってる暇があったら一文字でも書いてください」
「ご期待に応えたいのはやまやまですが、こういう時に限って部屋の掃除が捗るようなもので、そういう時は椅子に座っていてもどうにもなりません」
居間の隅に用意された人一人くらいであれば余裕でうたた寝できそうなソファはいくらか前にフリンズが購入してこの家に持ち込んだ物である。その上にふんわりとしたキルトが被せられており、クッションが二つに干したての肉厚の毛布が一枚。更に言えばソファのすぐ横のサイドテーブルにはお茶菓子の一式が設えられている。
フリンズがこれから座るはずの席から見えるそれがどうぞいくらでもくつろいだついでに仮眠してお待ちくださいとばかりにイルーガを待ち受けていたのが、やっぱり彼は気に入らないようだった。とはいえ彼もどれだけ騒いでもフリンズの報告書が宙から出てこないことくらいすでに承知しているらしく、背中をずっしりと重くしていたリュックを部屋の隅に下ろしてソファに沈み込んだ。
「僕、編集者に転職でもしちゃったんでしょうか……」
ぶつくさと文句は言っているものの、彼がこのソファの沈み込みを気に入っているのもフリンズも承知しているのである。一人用の小舟で海を渡るのはライトキーパーからすればよくある事ではありながら、相応の危険も伴う行為である。転覆させないようにと張り詰めた緊張を一旦緩めるのに、ソファの柔らかさは最適らしい。
「先にできている分だけお渡しします。問題があったら指摘をお願いできますか?」
「ちゃんと褒めさせてくださいね、売れっ子作家さん」
「それは保証しかねます」
ソファの用意をしても余った時間で書いていた報告書の前半を渡すと、イルーガが苦笑しながら受け取ってくれる。いい加減彼のチェックの癖というか、報告書の作りの好みのようなものは分かってきてはいるが、だからと言ってうまく仕上げられるかは別問題なのだ。
彼曰く、フリンズの報告書はもっと短い文字数で多くの情報を盛り込めるらしい。だから本当はそんなに時間をかけるものではないんですよ、と言われた時は正気かと思ったものだった。
あんまりにも納得がいかないので、一度フリンズが仕上げた報告書を元にして彼に書き直してもらった事がある。結果の仔細については省かせていただくが、世の中には色々な技術があるものだと感心してしまったのは間違いない。
その時は他の人の報告書を読んでいるのかと呆れられたのだけれど、読んだからといって真似できるかは別だとフリンズは思う。人どころか全ての生き物には得手不得手と言うものがあるのだ。
――閑話休題。
「はい、どうぞ。追加の分は余白にではなく、別紙で記載してくださいね」
フリンズが一つの報告を書き上げた辺りで、イルーガがチェックをしてくれた報告書を渡してくる。つまり、余白ではどうにもならないくらいに追加で書かなければならない点があるらしい。一応返事はしているもののその声が意気消沈していることは隠せなかったらしく、そのしおしおとした調子にイルーガが小さく笑う。
「フリンズさん、このお菓子は食べましたか? 美味しいですよ」
「おや、あのお皿に載せたのはあなたに用意した分ですよ」
この前ナシャタウンにまで下りた折に購入した焼き菓子を指に摘まんでいたらしく、イルーガはフリンズの唇の前に近づけてくる。自分が食べたところで何の役にも立たないので、全てイルーガが美味しく食べた方が乳牛も鶏もまだ嬉しいはずなのだけれど。
「僕のものだったら、僕が誰に食べさせてもいいでしょう?」
「……そうですね。いただきます」
彼はフリンズの食が他の人間と比べて細い事だけを知っているので、折に触れてこうやってものを食べさせようとしてくるきらいがある。フリンズがただの人間であればそれは正しい行いなのだけれど、自身の身の上を伝えていない状況を加味するとフリンズの方が分が悪い。
観念して口を開けると、一口で食べられるサイズの菓子が口の中に入ってくる。別に吐き出しはしないのに、唇に指の腹が当たるまで押し込まれてしまった。人間であればはっきりした甘みに気を取られるのかもしれないが、フリンズにとってはその柔らかさの方が余程鮮烈に感じられる。
いやそちらに気を取られている場合ではない。あの時聞いた販売員の宣伝文句は何だったか。
* * * *
食べたさせたい気持ちが逸ってしまったせいで勢い余ったのか、指先にふにゅりとした感触があった。それがフリンズの唇だと気がついた瞬間、そのまま口が動いて彼はイルーガが与えた菓子をもくもくと咀嚼しはじめた。
「……すみません」
「……バターが多めなのでしっとりしていて、風味もいいですね」
慌てて指を引っこめると邪魔がなくなったからか、フリンズの咀嚼ペースが気持ち速まった。口に物が入っているので唇を開かないままどうやらイルーガを許すようなニュアンスの相槌を打ったフリンズがぺろりと唇を舐めた後に、イルーガが感じた内容とほとんど変わらない返事をしてくれる。彼に味覚があるのか正直なところ疑問に思う事もあるのだが、こうも堂々と批評されてしまうと自分の直感を不安視してしまう。
「そうですね。砂糖の粒を残している部分もメリハリが利いてるなって」
それはともかく、彼はイルーガに唇を触られるくらいへっちゃららしい。怒られたり気まずい雰囲気になったりするのは嫌だったのでほっとした部分はあるものの、肩透かしを食らったような気分にもなる。
「あと二十パーセントくらいですね」
「ええ、前途多難です」
その気持ちをごまかすつもりでフリンズの手元を覗き込めば、今日よりそれなりに前の日付が記されていた。この様子では今日は一人で海を渡るのは止めておいた方がいいかもしれない。天気予報が正しければ、今夜は昼以上に風が出て海が荒れるのだ。商隊や西風騎士団の団体が大き目の船を動かそうとしているところにかち合えればいいが、そうでなければ危険を冒すことになってしまう。
そんなことを考えながらイルーガはフリンズを慰めてから、拵えられていたソファに戻って毛布に潜り込む。海の潮風の気配を孕みながらも、日に照らされていたらしい毛布はイルーガに優しい。気のせいでなければ彼が普段使っている香水とは異なる香油が散らされているように思えて、逃避行動の一環とは言え他人の巣作りに気合いを入れすぎだと思ってしまう。
フリンズが観念して真面目に報告書に向き合っているのを眺めていると、ふわりと欠伸がまろび出た。海がしけるらしいので今日は戻れないかもしれないと小隊の者に告げた時、隈を指摘されて寝てきたらいいのではないかと言われてしまったことを思い出す。
寝ないと身長が伸びないと言われてしまうと、うまい反論が見つからずに苦笑するしかない。ナイトキーパーの仕事は夜勤が必須であり、身長の問題は入隊前に義父からいたく脅されていた。現状それなりの戦闘力はあるつもりではあるものの、身長が伸びれば戦略の幅が増えるのはイルーガだって理解している。
たとえば彼のように、と意識を向けるとフリンズはやっぱり真剣な表情で万年筆を紙面に滑らせていた。彼は書類仕事が苦手ではあるものの、その弱点を補って余りある武力と振る舞いができる大人でもあるとイルーガは知っている。人をからかう悪い癖もあるにはあるが、許容範囲にしてもいいだろう。
個人的な感覚でも、世間一般的な価値観でも美しいと評価されるだろう横顔を眺めていると、紙面に落とされていたはずの視線がこちらを向いた。ぱちりと音を立てるように合わさってしまった視線がどれだけ自分が不躾に彼を見つめていたのかを知らしめてきて、羞恥で頬が熱くなるのを感じる。
思わず視線を外すために毛布を肩まで被ってこれから眠るつもりですよと言いたげな仕草をすると、フリンズが小さく笑ったのが聞こえてくる。そのせいで余計に恥ずかしくなってぎゅっと目を瞑ると、彼は椅子を引いたようだった。それからわざとイルーガに聞こえるように足音を出してソファの前までやってきて、どうやらイルーガに影を落としているらしい。
「ぼく、もうねますから」
「そうですね、報告書が出来上がったら起こしますからゆっくりと眠れますよ。おやすみなさい、坊ちゃま」
彼に見惚れていたと言っても差し支えない状況にあるイルーガが堪えかねて縮こまっているのが面白いのか、フリンズの声には鈴でも転がっているような調子が混ざる。一体どんな顔をしているのか気になった上に聞き捨てならない台詞も聞こえてしまったせいでうっすらと瞼を持ち上げて、自身に影を落としていた彼の表情に眠気も吹き飛んだイルーガは早々に後悔することになったのだった。
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