いを
2026-01-28 19:51:19
2835文字
Public くらくら
 

雛のいない庭


マルタ

 Aristophanes、最良の話し手アリストファネス。ひとつ教えてほしいことがあるのだけれど、〝人間はどうして死んでしまうのでしょう?〟それはね怪物テラ、万物にはすべてに終わりがないと、物語が延々と繋がってしまうからだよ。永劫回帰というやつさ。死の世界など存在せず、ぼくたちの生はただただずうっと繰り返されているというだけの、究極のニヒリズム。きみなら分かると思うのだけどな。
 
 それは誰かの夢だったのかもしれないし、たしかな現実だったのかもしれない。俺の名前を揶揄するひとがいることを学生のころからとっくに分かっていたけれど、テラ、と呼ばれたのは初めてだった。テラはギリシャ語で怪物。テラバイトの由来である言語だと、飛白先生はいっていた。俺をテラと呼ぶ人はこれまで数人もいなかった。覚えている限り、二本くらいの指で事足りてしまう。空の鳥と書いて、鵼。これだけ見ればなかなか愛想の良い単語だけれど、ひとたびぬえ、、と呼ばれてしまえば、頭は猿、からだが狸で、尻尾が蛇だとか、そういったキメラのような怪物のイメージがついてはなれない。どうして父と母がこんな名前にしたのか分からない。そもそも彼からが本当につけたのかどうかも知らない。
 俺はなにも知らなかった。父のことも母のことも。いるであろう――祖父祖母、そういった血のつながった家族という単位を知らない。気付けば俺はいつの間にか灰届区にいたし、誰かとふたりで暮らしていた。女性だったと思うのだけど、あまり覚えていない。ざらざらとした包丁を持ち乍ら、美しい表情で笑っているようなひとだった。俺はそのひとを、月明かりのなかでしか見たことがない。朝や昼はいつもいなかったから。そのときから俺は鵼だった。ぬえ、ぬえ、といとけない子どもの名前を呼ぶように、あるいは子猫や子犬を誘うような甘い声で俺を急かして、夜の街に出かけたものだった。
 灰届区の教会にいったとき、フレスコ画を見つけた。なまがわきの漆喰の上に顔料で描く画法。とてもきれいなもので、夜でも開け放たれた教会の重たく静謐な場所に、あのフレスコ画はよく合っていた。

「飛白先生、これ」
 飛白マルタの研究室の本棚に、こっそりと紛れ込んだ写真集を捲っていると、見覚えのある絵をみとめた。いつか見たフレスコ画。下記にイスタンブール、カーリエ・モスクと書かれている。
「知ってるのか」
「どこかで見たことがあるなあって。そう、灰届区の教会で見たことがあるんです。……これイスタンブールにあるんですか」
「灰届区? ああ……あそこにも教会があったんだな」
「イスタンブールってトルコでしたよね」
「そうだけど。興味あるのか。スルタンアフメト・ジャーミィ」
 ブルーモスクと呼ばれる寺院。飛白マルタはその難解な寺院の名前をするすると、呪文を唱えるようにつぶやいた。新作フラペチーノの名前をおぼえるよりも難しい名だ。
「いつか行ってみたい、くらいですけどね。そういえば飛白先生のお母さんってギリシャのひとでしたっけ。あれ、ギリシャとトルコって近いんですか?」
「母親はギリシャ人とフランス人の子ども。ギリシャに住んでいたらしいけど。アテネからイスタンブールまではだいたい千キロくらいだな」
「へえ。俺ここから出たことないから海外って憧れるなぁ」
 写真集を眺める。あのフレスコ画を見てから、頁を捲っていない。聖母子、と書かれている。聖母というのだから、聖母マリア、子はキリストのことだろう。
 窓のむこうはカンカン照りのようだった。たまに熱風であろう風が窓をほんのすこし揺らす。
 飛白マルタは椅子に座った足を組んで、ぶらぶらとさせながら外を見ていた。つまさきに引っかけただけの黒いサンダルがすべり落ちる。パタリという乾いた音をたてたけれど彼は微動だにしない。眼鏡の奥の目は何かを見ているのであろうけれど、なにも映していないようでもあった。
 膜が張ったような空間。窓ひとつ隔てた先は、なにがおこってもおかしくはない。爆発がおきても、巨大な生物が暴れ回っても。かといってこの研究施設も特別安全というわけでもないだろう。
 視線を写真集に戻す。
 スルタンアフメト・ジャーミィと呼んだ寺院は、丸い屋根に六本の尖った塔のようなものが下から天へと突き上げられていた。
……飛白先生」
 ふいにこちらに背中を向けたひとは、決してふりむかない。その理由も知っているから、あえていわない。
「どうして、そんなふうになっちゃったんですか」
 外は明るすぎるくらい明るく、窓は鏡のようにはなってくれないから、彼の目も見えない。
「元からだ」
「そうでしたか? 本当に?」
「元からこう、、だ。残念ながら」
 ギイ、と椅子が軋む。飛白マルタは立ち上がり、三つ編みの先を揺らした。
「飛白先生に名前をつけてもらったテディベアあるでしょう」
……ああ、あれ。アリストファネス」
「彼に聞いてみたんです。人間はどうして死んでしまうのかって」
 彼のからだが硬直するように不自然に止まった。時計の秒針さえも止まったようにも感じる。
「あなたが以前、俺に問いかけたことばですよ」
……
――ユリイカ! 分かりましたか? どうして死んでしまうのか」
「死後の世界は存在せず、自分の人生を繰り返すだけの無意味な世界。だから死ぬことに意味もない。理由もない……なかったはずだ、と言うべきか」
 影が黒い、と思う。
 彼は一度うつむき、けれどもすぐに顎をあげる。
「永劫回帰。俺は前にそういった。確かに言った。だが無意味を過酷だと思うなら意味を見つければいいと、少しだけ思うようになった」
 そうしてようやく、飛白マルタは視線をこちらに向けた。
 笑っているような、嘆いているような表情だった。
「意味をみつけてもどうせ俺もいつかは死ぬし、その意味も無価値かもしれないけどな」
「それが無価値でも、誰かにとっての価値になります」
 土色の目を、彼はゆっくりと細めた。
「お前がそれを言うのか。――そりゃまあ、楽しみなことだ」
「今すぐ答えを捜さないでください。今あなたは、問いを生きてください。リルケはそう言いました。正しい生き方をさがすより、適当にがんばってみてはいかがでしょう」
「カウンセラーのお前が適当なんて言葉、言っていいのか?」
「俺は今カウンセラーではなく、飛白先生の隣人として言ってますので」
 肩をひょいとあげて、笑ってみせる。彼もくちびるの端をあげて「便利だな。その文句」といった。

 アリストファネス、俺は永劫回帰という言葉を信じない。怪物テラはまだ貪欲に知識を食おうとしているしこうして問いかけ乍らあるいは答えを得乍ら生きている。

褐色タイルのこのビルデングのしづかな空気
天の窓張る乳いろのガラスの薄やみのなかから
青い桜の下暗のなかに
いとつゝましく漂ひ出でる