ねぶくろ
2026-01-28 19:13:54
3774文字
Public Skeb
 

香るは幸福

Skebにて納品した作品です。

 一月も五日を過ぎたショッピングモールは空いていた。今日で正月休みが明けた者も多いのだろう。窓から見える、すっかり人波の落ち着いた廊下を一瞥し、ひいらぎ夏京なつきはコーヒーカップを傾けた。
 目を向ければ、正面の席に座した恋人──清水しみず冬雪ふゆは、ミルクレープを美味しそうに口に運んで、頬を緩めている。無防備な笑顔に、こちらも少しだけ頬が緩むのを自覚した。
 学内では決して見ることのできない、夏京にすべてを預け切った表情。自分にだけ許された笑顔が胸を満たして、飲んでいたブラックコーヒーがにわかに砂糖を含んだようだ。にやけそうになるのを堪えて、彼女を慈しむように視線を合わせる。
「映画、どうじゃった? 原作と比べて」
 水を向ければ、冬雪は目を輝かせて「すごく面白かった」と笑みを深めた。
「途中から原作と展開が違ったけぇ、最後までわくわくしながら観れたよ。夏京くんは? 小説は読んでなかったじゃろ。どうだった?」
 こちらを窺う彼女の視線を受けて、「面白かったよ」と言葉を返す。
 今日は、彼女が好きだという小説を原作にした映画を観に来た。多少の恋愛要素を含んだサスペンスだ。派手な爆発や緊迫感のある戦闘の他、小説原作ならではの鮮やかなセリフ回しや緻密な伏線が盛り込まれていて、とても面白かった。原作を知らない夏京が観ても圧倒される出来だったのだから、原作ファンの冬雪はなおさらだろう。
「俺は、最初の爆発で死んだと思っとった仲間が助けに来たところが好きじゃな。びっくりして、思わず声が出るかと思ったわ」
「あぁ! もう逆転は無理だと思ってたけぇ、彼が助けに来た時は感動したなぁ」
 夏京は彼女の満足そうな笑みに安堵して、頷いた。冬雪の楽しそうな声だけで、気持ちが満ちる。夏京はコーヒーカップを傾けながら、それとなく腕時計の示す時刻を確認した。
 現在時刻は午後三時過ぎ。解散するにはまだ早い。
 わざわざ初売りセールの終わった今日を選んだのは、混雑を避けてのことだ。このモールには大抵の衣料品店や雑貨店が入っているので、買い物には事欠かない。夏京は話題が一区切りついたところで、口を開いた。
「この後、買い物するじゃろ? 何か買いたいものとか、決まっとるん?」
 問いかけに、彼女が「そうじゃなぁ……」と、ほうじ茶ラテの入ったカップを両手で包んで虚空を見上げる。しばらくの間を置いて、彼女は「夏京くんは?」とこちらにボールを返した。その言葉に、一旦欲しいものを思案してから、軽い苦笑を返す。夏京は、「俺のことは気にせんでええ」と、手持ち無沙汰にカップを揺らした。
「特に買いたいものもないけぇ、冬雪の行きたいところに行こう」
「それじゃったら……。ハンドクリームを買いに行きたいかなぁ」
 ゆるやかな言葉と共に、彼女の視線が夏京の手元へ注がれる。視線を辿って小首を傾げれば、冬雪は少しだけ痛そうに目を細めて言葉を継いだ。
「夏京くん、乾燥対策なんて何もしてないじゃろ。ちゃんと保湿したほうがええよ。……折角だから、買いに行こ?」
 言われて、自分の手の甲へと視線を向ける。確かに、保湿などのケアはなおざりだ。かさかさと乾いた皮膚が目に映る。元より肌が強いので乾燥に困ったことはないが、放置していれば血が出ても不思議ではない。あまり意識したことがなかったが、確かにケアは大切だろう。──そうでなくとも、冬雪の気がかりを放っておくという選択肢はない。
 夏京は鈍い相槌を打って、「そうじゃなぁ、……不便はしとらんけど、お前が言うなら」と手元に向けていた視線を目の前の恋人へ向けた。目線を合わせて、やわらかに微笑みかける。
「一緒に行くってことは、冬雪が選んでくれるんじゃろ?」
 目を覗き込めば、彼女が頬を赤らめて恥じらうように目を逸らした。
……夏京くんに任せてたら買わないのが目に見えてるもん。仕方ないから選んであげるだけよ」
 強がるようにそっぽを向く彼女を眺めて、夏京はニヤニヤしながら「そうか」と言葉を結んだ。
 彼女の皿が空っぽになるのを見計らってコーヒーを飲み干し、伝票を取る。それじゃあ行こうか、と声をかければ、彼女はまだ少し拗ねたような表情で頷いた。

     *     *     *

 冬雪が贔屓にしているというその雑貨屋は、店の前に立つだけで花の香りに包まれるほどだった。圧倒的な芳香が漂っているというのに嫌な感じが全くしないのは、店のセンスがいいことの証左だろう。入浴剤集めが好きな彼女らしい、と馴染みのない可愛らしい店構えを眺めて、冬雪に促されるまま入店する。
 常連なのか、冬雪はノールックでハンドクリームの並んだ棚の前まで向かった。
 流石だな、とその背中を追いかけて、辿り着いた先で夏京は目を瞬いた。棚に並んだハンドクリームの種類は、ざっと数えても優に十を超えている。パッケージには果物や花が描かれており、それが各商品の香りを表わしているであろうことは想像に難くない。夏京は並んだパッケージを見比べながら、店内BGMに負けないようにと冬雪の耳元へ顔を寄せた。
……ハンドクリームって、香り以外に何が違うんじゃ?」
 問いかければ、冬雪は「一応、配合剤の違いで効果が違うんよ」とこちらを振り向いた。
「夏京くんは単純な乾燥じゃから、特に気にせず何でも好きなのを選べばいいと思うけど……。こだわりとか、ある?」
 彼女の言葉に、夏京は少しだけ考えてから、「あんまりベタベタしたやつは好かん」と応じた。
 夏京がハンドクリームを常用しないのは、ケアが億劫だという以上にクリームを塗った後に、手がべたつくという不便に起因している。すぐに他のものをさわれるような、さらさらした質感のものであれば、そこまで抵抗なく普段使いできるだろう。
 回答を受け、冬雪は「べたつきが気になるんじゃったら、ここにテスターがあるけぇ実際に使って考えた方がいいね」といくつかのパッケージを手に取って裏側の説明に目を通した。そのうちの一つを選んで、「これが一番さらさらしとるシリーズだけど……。どう?」と首を傾げた。
「実際に試してみる?」
 問われて、夏京は頷いた。冬雪が差し出すテスターを受け取り、自身の手の甲にクリームを少量だけとってみる。思いのほかさらりとした感触に目を瞬いて、夏京は「おぉ」と感嘆の声を上げた。想像していたよりもずっとさらさらしていて、不快感がない。
「これじゃったら俺でも使える。……パッケージが可愛いのだけ気になるけど」
「それはもう我慢して」
 冬雪が呆れたように笑って、「香りは?」と棚に並んだパッケージを指で辿った。いかにも女性向けと言った風の可愛らしいものから、比較的性別を選ばないシンプルなものまで、同じシリーズの商品だけでも五、六種類は展示されている。
「ここからここまで同じシリーズじゃけぇ、選びたい放題よ? 好きな香りとかある?」
 問われて、夏京は「お前もここのハンドクリームを使ってるんか?」と問いかけた。
 彼女はきょとんと眼を瞬いて、「そうじゃけど……」と小首を傾げた。お揃いのブレスレットで飾られた華奢な手元を眺めて、傷一つない滑らかな肌に手を触れる。
……。同じ香りのは?」
 問いを重ねれば、彼女はわずかに動じたように目を瞬いてから、棚に並んだうちの一つを手に取った。白い花の描かれた、比較的使いやすそうなパッケージだ。その手からテスターを借り受けて、香りを確かめる。
 ふわりと広がる花の甘さと、植物らしい爽やかさ。──確かに、どこかで嗅いだことのある香りだ。
 夏京は一つ頷いて、「いい香りじゃな」とテスターを棚に戻した。自分が使うには少し女性的過ぎる気もするが、甘すぎない爽やかさは心地がいい。夏京は迷うこともせず、同じ花の描かれたハンドクリームを選び取った。
 それを見て、冬雪が控えめに夏京の手を取る。
「ええの? 夏京くんの使うものじゃろ、……もっと夏京くんの好みで選んだ方が」
 控えめな言葉に、悪戯心が湧く。夏京は触れた手を取って、顔を寄せた。ほのかな花の香りを確かめて、冬雪の手の甲に口づけを落とす。突然のことに、冬雪は頬を赤く染めて硬直したが、夏京は気にすることなく彼女に笑いかけた。
「俺が気に入ったんじゃ。これがいい」
……そう」
 冬雪は気恥ずかしさからか、顔を隠すような俯き加減で頷いた。色白な肌を染める朱色が愛おしい。夏京は彼女の耳元に顔を寄せ、囁きかけた。
「冬雪と一緒に選んだものじゃけぇ、大事にする」
 その言葉に、彼女がこちらを見る。恥ずかしさと嬉しさでか、少し拗ねたような上目遣いに、心臓がドキリと跳ねた。至近距離で見つめ合う格好になり、今度は自分の頬に熱が集中するのを感じる。冬雪は照れ隠しにか髪の毛を耳に掛け、「それじゃあ」と言葉を返した。
「ウチがいない時にも忘れずに保湿して。……夏京くんが痛い思いをするのは、嫌じゃけぇ」
 言い訳のように付け足された最後の言葉に、嬉しさと愛おしさで頬が緩んだ。空いた手で彼女の髪を撫でる。「当り前じゃろ」と答えれば、彼女は満足したのか、それとも安堵したのか、浅く頷いた。