machibitomachika
2026-01-28 16:22:58
8646文字
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The Search for 52


The Search for 52

 やけに慌ただしく去って行ったと思えば、彼は小さな缶コーヒーを手に戻ってきた。ポケットからチャリチャリという残りの小銭の音がする。室長はプルトップを開けようと試みたが、指の腹をプルタブに挟むばかりでいつまでも開けられない。
 「ごめん、開けてくれない?」
 「はあ」差し出された缶コーヒーを黒川がたやすく開けると、彼は黒川の手からそれを受け取るやいなや一気に飲み干してから「ありがとう」と言い、離れた場所にあるごみ箱へ足早に捨てに行った。
 黒川はそばで煙草を吸っている見知らぬサラリーマンと一緒にその奇妙な男の動向をただ見守っている。彼らが立っているのは駅名が書かれている看板のすぐ横だった。ここから見えるバス停では、制服を着た少女が、同じく制服を着た少年と小声で何かを話していた。
 室長がこちらへ戻って来る。合図みたいにサラリーマンが煙草を吸い終えて、懐からポケット灰皿を取り出し、そこへ煙草を押し付けて火を消す。彼は足元のバッグを持ち上げて、こちらへ背を向けると、速足で歩いて駅の中へ入って行った。黒川はそのサラリーマンの灰色の背広が、駅の中の大きな柱に隠されていくところを見やっていたが、室長の靴が地面を叩く音が近づいてくると、そちらへ視線を戻した。彼は大した距離を走ったわけでもないのに肩で息をしていて、すこしの間をそれを整えることに費やした。
 一息ついてから間をおいて「学会があるんだよね。発表会みたいなもんだけど」と室長が言いだす。「ついて来てくれない?」
 「今から?」
 「今から」室長がこちらに切符を差し出した。だから彼にしては妙に荷物が多いのかと黒川は思い当たった。身なりもまた、彼にしてはきちんとしている(気がする)。対する黒川は何も持っていない。レールの向こうのどこかを目的地にしている人物としてはふさわしくない身軽さだった。
 「断る理由もないのだから研究室から連れ出す前にそうと教えてくれたら良かったのでは?」そう思ったが、黒川は指摘をしなかった。彼のやることなすこと全てに言葉を尽くして説明を求めていたって仕方がない。切符に書かれている駅名を見おろす。頭の中に地図を描く。日本列島の形をした地図を。そこの一ヶ所にピンを刺す。
 「発表会っていうのは、なんというか、へんなところでやるんですね。研究に何か縁のある場所なんですか?」
 「いやまったく」
 「
 「研究者っていうのはみんな定期的にへんなところで集まるものなの」黒川の表情を読み取った室長が言い、前ぶれもなくふと顔を上げて「思ったより寒いな、外」と続けた。彼に合わせて黒川も顔を上げたが、彼の言う寒さは分からなかった。人間は顔を上げると天気が分かるし、惑星を覆う気温や季節だって分かる。そういう生き物らしい。
 顔を戻すと、少し先を歩く室長の後ろ髪に色の変わった葉がついていて、黒川はそれを彼の背後から音もなく取り上げた。
 「何?」
 「いえ」ポケットの中にそれを突っ込み、黒川は意味もなく笑った。「べつになんでも」
 改札を通って、しばらく無言のあいだを移動した。白いタイルが黒いザラザラとしたコンクリートに代わり、室長は電光掲示板を確認すると示された番号に沿って歩き始めた。もうすぐ乗車する予定の列車がホームへ到着するらしかった。
 「発表の内容って」と黒川が言うと、
 「別に、君たちのことじゃないよ。俺も座って聞いてるだけ」先回りして室長が答えて、それから「まあ、今回はね」と付け加えた。
 「そうなんですか、てっきり」何を言うべきか黒川は考えた。本当は何も言うべきではないかもしれない。「室長は何のために行くんですか?」
 「え? うーん何のためだろ。土産を買うためとか?」
 「土産」黒川は切符の記載名をもう一度見て特産品を思い描いたが、彼の知識ではどのような形も湧いてこなかった。「何か有名なんですか?」
 「何が有名なんだろうね?」
 「」黒川は室長に分からない程度に息を吐いた。「分かりました」
 「まー、べつにどっちだっていいんだよね」このように室長は訳の分からないことを述べた。「難しく捉えないで」
 先に並んでいた人びとの後ろに室長は立ち並び、黒川もそれに倣った。するとちょうど、列車が風を引き連れながら入ってきた。案内のアナウンスが放送されていたが、何も聞き取れなかった。それを誰も気にした様子はない。彼らにはどのような案内や導きなど不必要みたいだった。
 ドアが開きゴトゴトと体重のかかる靴底を引き連れた乗客たちが、乗客でなくなる方向へ歩き出した。黒川と室長は一緒にその人波が過ぎ去るのを待った。そして、今自分のポケットの中にある葉は、このプラットホームのどこにでも手を放して良いものなのだと黒川は気付いた。
 しかしながら、そうするには片足を掛けたこのドアからは不自然でヒトらしくない形のように感じた(すくなくとも、この時の彼にとっては)。結局彼は彼のポケットの中に木の葉を入れっぱなしにしたまま乗車することにした。
 「ふしぎなもんだよね、揃いも揃って」室長は手配された自分の指定席にすわって、リラックスをした。「知らない人間がこんなにも大勢どこへ行くんだか」
 「さあ」黒川はさほど興味もなく「でもどこかには行くんでしょう?」と言った。
 「それはそうだ」ふしぎと室長は彼の答えを気に入ったようだった。
 彼は列車の中で睡眠を貪り、黒川は流れていく景色を見やりながらカフェインのことを考えた。音を立てて眠っている彼の隣の席に座りながら黒川はただ外の町並みを見た。低い建物の向こうに薄く山が見える。素早く移動するための細長く四角い機械たち、乗るのは初めてではなかったが、黒川にとっては入眠出来るような馴染みのある空間ではないことは確かだ。
 「寝ましたか?」黒川は室長のことを確認した。確認したとおりに彼が座席に綺麗におさまり眠っているところを見た。それから彼は発表会の行われるへんなところの最寄り駅に着くまで眠り続け、黒川は座り続けた。
 そろそろ起こしてやろうと黒川が身を乗り出して室長の肩に触れようとすると、彼はひとりでに起き上がり、アイマスクを上げた。聞き取れない案内アナウンスのさなかにいた人びとと同じく、何の導きや助けなどは必要でないみたいに。瞼が開かれて、室長の瞳があらわになった。
 黒川がただ室長を見ていると、彼はこちらを見た、瞳と瞳が分かりやすくぶつかり、室長が笑っている。
 「ああ、寝たらすぐだね」
 黒川自身はとっさに何かを言い出せなかった。「そうですね」
 
 一見それは彼らの町とは何も変わらないように思えた。少なくとも黒川にとっては区別が難しかった。彼らは改札を出て、小さい申し訳程度の土産屋とバーガーショップの前を通り過ぎた。駅の前には木が一本植わっていて、そこを囲むようにベンチが備え付けてある。右手にロータリーが横たわっていたが、バスやタクシーは一台も停まっていなかった。
 「じゃ」
 「は?」
 「三時間後にここで集合ね」
 「集合って」黒川は室長が離れていく気配を感じて非難の声をあげた。「なにか手伝いが必要だから私を連れて来たんじゃないんですか?」
 「いや?」室長は肩をすくめて少し考えるフリをした。「そうだな、今回の君は単純に俺の話し相手」
 「そうですか」ばからしくなって黒川は生返事をする。「あなたの考えることって分かりません」
 室長はよく分からないところからやって来た笑みをしている。
 「そう? まあ、そういうことだから、しばらく好きにしててよ」
 彼はこちらに背を向け、大股で歩き雑踏の中へまぎれて行った。黒川はそこに立ち尽くし室長が自身のまなざしの外へ去っていくのをただ見ていた。
 人びとは思い思いの目的地へと向かっていた。その中の一人が黒川に軽くぶつかり、「失礼、すみません」と乾いた声で言った。
 「大丈夫ですよ」黒川が答えると、その人は微笑みに満たない顔をして、去っていった。ぶつかるついでに三時間の時間のつぶし方を教えてくれたら良かったのだが、その人はすぐに道の先へ視線を戻して小さい背中ばかりを印象付けて消えていくのだ。
 彼は結局駅のベンチに座っていた。人がまばらに駅に入ったり出てきたり、あるいはまったくの無人になったりした。そろそろ三時間経ったかと言う頃に人影が群衆からはぐれてきて、こちらに歩いてきた。それは室長の形をしていて、彼自身の笑みをしていた。
 「君、ずっとそこに座っていたの?」
 挨拶もなしに室長はそう言った。
 「はい」黒川は答えて立ち上がる。「見たいところもありませんし」
 「あー。そう」室長は目を閉めて、また開け、頭をかいた。「まあいいんだけどね」
 「いいって、あなたが連れて来たんでしょう?」
 「それもまあそうなんだけど」
 室長は少し考えごとをした。黒川は室長が何を言い出すのかを待った。
 「出発までまだ時間があるよね?」室長が黒川に確認をして、返事もないうちに「甘いものが食べたいんだよね。お店見つけたから行こうよ」というようなことを述べた。
 「はあ、まあ好きにしたらいいんじゃないですか」この場においては時間というのは彼だけが把握している概念だった。黒川はただ室長の予定や都合に合わせているに過ぎない。
 彼が探し当てたカフェはビルの隙間で、太陽の日差しのない妙に薄暗い場所だった。室長がドアを開けて入っていくので、黒川もそれに付いて行った。
 室内は外と同じような気温で、どのように配られた配慮もなかった。ただ壁と床があって、窓辺に種類の分からない植物が置かれているだけ。
 キッチンカウンターの向こうで、男女が一人ずつ立っていて、男は洗い物をしていて、女はコーヒーミルのハンドルを回しているところだった。夫婦かと思ったが、会話も何もなく、まるでこのカフェの備品のひとつかなにかみたいだった。
 「いらっしゃい」と女が言った。不愛想だとは思わなかったが、柔らかな感じもなかった。
 室長が窓辺の席を選んで、黒川はその向かいに座った。テーブルの端に置いてあるメニューを室長は引き寄せて視線を落とした。
 「何か食べたいものある? おごるよ」
 「なんですか? 急に
 ふしぎそうに室長はこちらを見た。
 「急? 君は俺の要求を叶えて、俺が対価にご飯をおごる流れとしては自然だと思うけど」
 「そういうものですか」
 「君たちにもあるでしょ?」
 「打算や計画が?」
 「生活と営み」
 差し出されたメニュー表を見ると、文字列が並んでいて、たいていはそれがどういうもので、どういう柔らかさをしているかを想像することはできた。
 「じゃあ室長がおごりたいものを頂きます。」
 「お任せってこと?」
 「そう言ってます」
 「分かった」
 すると洗い物を終えた男が注文を取りに来た。指先が赤切れていて、爪が丸くやけにつやつやとしていた。
 「えーと、パフェふたつ。あとコーヒー」そして店員の顔から視線を放してこちらを見た。
 黒川が否定も肯定もせずにいると室長は店員に視線を戻して「それも二つ」と言った。
 「かしこまりました」
 男が注文を書きとってカウンターへ引っ込んでいった。入れ替わるみたいにコーヒー豆を挽いていた女が、マグカップになみなみと注がれた黒い液体を銀のトレーに乗せてやって来た。彼女からはコーヒーとミントのにおいがした。
 「どうも」室長がコーヒーを受け取って、さっそく一口飲んだ。
 黒川は湯気が立つそれを一度自分の方へ引き寄せた。
 「はー」室長が声を含めた息を吐いて、椅子に深く座り直す。
 そして今まさに気づいたように、上の方を見た。
 「ずいぶんと物悲しい曲を流すね。」彼が言った。空間そのものに満ちた音楽のことを指しているようだった。
 「。」あなたにもそういう感覚があるんですねと言おうと思ったが黒川は黙っていた。彼は例えば地面の下を流れている音楽を聴き取り、更ける夜の中に灯る光を眩しいと言うように、地球人の感覚に合わせてそう述べているに過ぎないかもしれない。
 ドアについている四角い窓から黒川は外を見た。日差しは傾き、カフェの中は電球の光を頼りに、室内を象っている。
 黒川は室長のいうところの、物悲しい音楽の中にいて、二人は溶けるパフェを黙って食べ、料金を支払い外へ出た。室長はポケットの中に残っていた小銭全部と、財布の中から残りの貨幣を出していた。
 横を歩く室長が、学会から帰ってきてからこの方、口数が減っていることに黒川は気づいていた。室長は学会から持ち帰ったなにかの気配を帯びていて、静けさの中にある彼を、黒川は見やった。たとえば、コーヒーとパフェの他に、何か得体のしれないものを胃袋に入れているみたいだった。
 「学会が思ったほど意義のないものでがっかりしているんですか?」
 室長は瞳だけでこちらを見た。
 「ん? んーいいや、それほど期待していたわけじゃないし」
 「何を?」
 「何が?」
 「だから」黒川は先ほどの室長の言を思い返して、どう表現すべきかを悩み、「何を期待していなかったんです?」という、不可思議な質問をした。
 「なんだそりゃ」彼はわずかに唇の形を上向けた。スマートフォンを持ち上げ、現在時刻を確認した。その四角い光が、真っ直ぐと彼の輪郭のふちをあらわにして、彼と、彼以外を明らかにした。「奇妙な質問だ。どの学者も応答しない」声色は優しく落ち着いていた。どのようなニュアンスも感じ取ることはできなかった。
 それから彼は林への土産を買っていこうと話した。小さな駅の中で室長が選んだ焼き菓子は正直彼の好みではないだろうと黒川は思ったが、黙って会計をした。彼は黒川にどうでもいいことを話した。調子が戻ったのか、あるいはそう演技しているのかまでは分からない。それから彼は言葉にならないくらいの不明瞭な発音で歌を歌っていた。カフェの中の物悲しい曲だった。
 「知ってる曲なんですか?」
 「いや? 知らない曲だけど。聴いたことがあるだけ」
 「なんだそれ」と思ったが黒川は黙っていた。カフェにくる以前の彼がどこでそれを聴いたのかを想像した。ラジオ放送昔のテレビの音楽特集、そういった上辺だけの知識を思い浮かべる。

 「君を連れて来て良かったな」室長は指定シートに座り、リクライニングを倒して、アイマスクで顔の半分を覆いながら言った。「移動中に退屈せずにすむ」
 「え? そうですか」いつもの通りに彼のやることを見ているだけに留めていた黒川は、行きと帰りの室長のことを考えた。「でもこれから眠るんでしょう?」
 「その通り。つまらない論文を仕上げるために犠牲にされる睡眠も世の中にはあるからね」彼は答えて、シートにもたれ睡眠を試みようとしていたが「あ、そうだ」と起き上がった。
 「何ですか? さっきのトイレで忘れものでもしたんですか?」
 「これ」室長は個包装された包みを黒川に手渡した。「食べていいよ。おやすみ」
 それが最後で、彼は少しもしない内に眠り始めた。列車が発車のアナウンスをするより前だったので、切符の座席番号を見下ろしながら乗車してくる人びとが時おり、快眠を貪る室長のことをなんとはなしに眺めては後ろへ流れて行った。黒川が形式ばった微笑みをやると、彼らは決まって気まずそうな、それでいて親しみを込めているような、そんな感じの微笑みをして、彼らの番号の通りの席へと去って行った。
 すると、列車が動き出して、景色がゆるやかに流れ始めた。プラットホームで、一人の女がこちらをひたむきに見つめて、両の手を振りながら、堪え切れず泣き出している。彼女は派手なブレスレットをしていて、彼女が顔を伏せて肩を震わせるたびにそれが光を反射して窓の中に差し込み、ぴかぴかとした。そばにいる室長はもはやアイマスクと、彼自身の眠りの中にいて、女の放つ輝きは彼のところへは届かなかった。黒川は自身のいるこの車両に、彼女の片割れがいるのだと目星をつけたが、みな一様に物音立てず平然としているので、どれがそうかまでは分からなかった。五二ヘルツの孤独な歌(室長が世間話でこの話をしていた)と同じく、あの女が元から一人だったというだけの話なのかもしれない。
 列車が加速をして女と町を置き去りに駅から離れていく。別離。地球人が特別秘密に抱き込んでいるからあらわになっていないだけで、彼女たちはあらゆる町にいる。特別なことはなにもない。だからこそ、黒川だって雑踏にまぎれることができる。孤独な人間はどこにだって現れる。群衆の中のひとりとして路肩に立ち止まったとして、誰もが何ゆえに彼が彼女が自分がひとりでいるか気にも留めない。五二ヘルツの歌が海中に漂い、宇宙を旅する。カフェの物悲しい音楽と同じみたいに「奇妙な質問だ。」室長の輪郭がスマートフォンの灯りに沿って縁取られる。「どの学者も応答しない。」
 見おろすと手の平の上に、受け取った形で個包装されたひとつの焼き菓子がある。黒川はようやく座席の背もたれに寄りかかり、その存在を認知した。林へ買ったものと同じもののようだった。
 駅で買った焼き菓子を、地球人はどういったタイミングで食べるのだろう。動き続ける景色のどこかにチェックポイントがあり、そこを通過したら彼らは包装紙を破いて中身を取り出すのだろうか。
 結局彼はそのタイミングが来たら食べよう、と判断してポケットの中にそれをしまおうと、右手をポケットに入れ込んだ。違和感に突き当たって、手を引っ込めると、小さな葉がその動きに従って出て来た。朝方の室長から取った葉だった。
 「」彼はすべてのタイミングと機会を失い続けているように思った。
 彼は取り出した葉と一緒に焼き菓子をポケットに突っ込んで、シートに背を預ける。目を閉じたが、眠ることはしなかった。瞼の外ではシートに座る人間たちそれぞれが、それぞれのタイミングと機会でスマートフォンからお気に入りの音楽を聴き、食事をして過ごしている。列車が夜の中を横切り、窓の形をした光をコンクリートの上に落とす。
 そしてそれを伺っているあいだに、彼は彼らの最寄りの駅に着いたのだった。
 黒川は身体の向きを変えて、また勝手に起き上がるものかと思いながら室長のことを眺めたが、彼は眠り続けていた。
 「着きましたよ」手を置き、指を曲げて、黒川は室長を軽くゆすった。
 「んあ」室長はゆったりと起き上がり、あくびを抑えながらアイマスクを外した。目元を軽くこする。「おはよう、黒川くん。お菓子は食べた?」
 「食べましたよ」彼は彼に無意味なことを述べた。「おいしかったです」
 「それは良かった」
 微笑んで室長は立ち上がり伸びをした。夜の透明めいた空気の中を二人は突っ切って駅を出た。途中で室長が自販機で缶コーヒーを買って、それを飲みながら歩いた。
 「意味がない一日だったかな」と彼は総評して、一口缶コーヒーの中身を飲んでから「いや、そうでもないかな」と訂正した。
 「そうですか」黒川は街角を見た。知っている景色と風景を見た。上を見た。室長が寒さを感じ、曲の物悲しさを感じ取ったように、まったく同じ動きをした。だからといって、どのような寒さも、物悲しさも、彼の元へは来なかった。

 机に広げた土産の菓子のひとつを林の指先が拾い上げる。
 「わあ~」と彼は言った。このニュアンスはお野菜星人にもなんとはなしに分かる。別にこの焼き菓子は好きなものではないが、かといってありがたがらないわけでもない。そういう感じの反応だった。それが分かっているのかいないのか、室長はひとまず満足したようだった。そもそも土産を買ってくるという発想自体が彼の中では良いアイデアだったのかもしれない。まるで長旅をした人のような発想で気に入ったのかも。
 考えを巡らせていると、室長は席に座っていて、いつものようにコーヒーを飲みながら、こちらに話しかけて来た。
 「君も食べたら?」
 「私はもう頂いたので」
 「そう?」室長は列車の中の睡眠を思い返したようだった。「でも君、ホントは食べなかったろ」
 顔を上げると、彼はもう仕事にとりかかっていて、何の答えも要らないようだった。
 ポケットの中のつぶれた焼き菓子のように。枝から離れた葉のように。無防備に見えて謎めいた人間たちの中身を考えた。
 「めちゃくちゃだ、なにもかも」なぜかは分からないがそう思った。「なにもかも」
 そして彼は窓辺に座り、歌を口ずさむ。
 「へえ、黒川さんてその歌知っているんですね」林はこちらを見て、純真に笑った。口をつけた菓子の包装紙を握って、そばに立っている。
 「いいえ」黒川は答えた。「知らない曲です」
 海の底に響き渡るとぎれとぎれの歌と違って、誰もが知っているラインに乗って流れているのに皆知らない歌だと言う。そうしてその曲が、誰も知らないラジオとテレビの電波に乗って流れ続ける。