2026-01-27 19:17:37
980文字
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求愛給餌

インフィニティにて

 切り傷をつけた手首を差し出す。冷たい指先が必要最低限に添えられ、溢れ出した血液はこぼれ落ちる前に舌先に受け止められた。そのまま温かく濡れた粘膜が赤い軌跡を辿る。
 細い首がたしかに上下したのを見届け、気づかれぬように息を吐いた。肌を汚した血を舐めとって、柔らかな舌は直接傷口をなぞっている。じくりと擽ったさにも似た軽い痛みが走ったが、黒鋼は身動き一つしなかった。

 俯いているせいで見えないものの、魔術師の右目は煌々と金色に光っているのだろう。もしかすると魔力の半分を失ってなお魔法を使おうとしない今のファイは、魔術師ではなく吸血鬼と呼ぶ方が正しいのかもしれない。
 とはいえ彼が糧にできるのは黒鋼の血液だけである。どちらでもあって、どちらでもない存在。そうしたのは他の誰でもない己だった。

 少なくとも黒鋼が日本国に居た時分、吸血鬼なる生き物についての言い伝えを耳にしたことはない。ただ生き血を啜る妖怪については、いくつかの風聞を聞いた覚えがある。大抵美しい女の見た目をしており、若い男の血を、――直裁的に言えば財産、もしくは精気や命そのものを――、残らず吸い尽くしてしまうのだという。
 あの頃はそんな怪談を聞き及んでも、馬鹿らしいと嗤うだけだった。そんなものさっさと叩き切ってしまえばいい。

 不自然に白い室内灯に照らされたファイは、旅の初めから絶えず浮かべていた笑みを消したのも相まって、作り物めいた印象を与えた。それでもただ血液を摂取するために触れている赤い舌先は温かく、時折薄い呼気が当たることで、その印象が偽りだと静かに伝えてくる。
 魔術師の意思を捻じ曲げてでも、歪な関係になるとわかっていても、黒鋼は願いを叶えた。その結果、ファイは今も生きている。目前に立つのは、刀を抜くどころか手を伸ばし無理矢理繋ぎ止めた異国の人間だ。

 こちらの視線には最初から気づいているだろうに、ファイは頑なに顔を上げない。やわい唇がゆっくりと離れる。唾液で濡れた肌が外気に触れ、わずかに冷えた。
 渡せるものは全て差し出している。あとはこの魔術師がそれを奪うだけだ。もちろん言い伝えのように、これを独り残して破滅してやるつもりなど微塵もない。
 密やかな二人だけの食事の時間が終わる。逸らされ続けた蒼い目がこちらを見るのを、黒鋼はずっと待っている。