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ねぶくろ
2026-01-26 18:54:58
5645文字
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Skeb
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髄まで喰らえ
Skebにて納品した作品です。
軽度の暴力表現を含みます。
坂俣
さかまた
鯨一
けいいち
は料理が上手い。
手際よく野菜をカットしていく彼の手元を見上げながら、
三雲
みくも
麦
むぎ
はクッションを抱きつぶした。
大学進学と共に一人暮らしを始めたワンルームには、まな板を置けばそれでいっぱいになってしまう小さなキッチンがある。麦自身はほとんど自炊をしないため、猫の額ほどの空間に不満を感じたことはない。しかし、麦の恋人で幼馴染、料理が得意な鯨一にとって、このキッチンは憎むべき場所のようだった。
「麦くんの食生活が乱れるのは、このキッチンのせいもあると思うんだよね」
いつものように文句を言いつつ、彼は流れるような動作で、切ったばかりの野菜をコンロに掛けたフライパンに放り込んでいく。今日のメニューは野菜炒めと卵のスープだ。ここ最近、食事がおろそかになっている麦の体をいたわる献立に、「鯨一くんが作ってくれるから、俺は困ってないよ」と彼を窺う。見上げる角度の横顔が一刷け朱に染まったのを眺めていれば、彼が菜箸を片手に「お米はあとどれくらい?」と話題を変えた。
麦のアパートは、キッチンのスペースがあまりにも狭いので、炊飯器を置くことが出来ない。
仕方なしに居間の片隅に設置した炊飯器には、残り十五分でお米が炊き上がると表示されていた。UFOキャッチャーで取ったクッションをぎゅっと締め付けながら「十五分」と言葉を返す。
「そっか、それじゃそろそろ卵も入れようかな」
彼が呟き、フライパンから目を逸らさないまま器用に冷蔵庫を開ける。普段はほとんど空っぽの庫内に、鯨一が持ち込んだ食材が整然と並べられているのが垣間見えた。割高な四個入りの卵パックから卵を取り出し、適当な容器に割ってかき混ぜる。二口あるコンロの片方に待機させていた鍋に溶き卵を流し込んでとじれば、簡単な卵スープの出来上がりだ。スープの味見をして、彼がひとつ頷く。
「
……
鯨一くん、何か手伝うことある?」
家主だというのにただ見ているだけというのも気が引けて、麦はクッションを置いた。キッチンに二人で並ぶことはできないので、入り口に佇んで声をかける。彼は野菜炒めに塩コショウを振りながら、少しだけ考えるように視線を虚空へ浮かせた。
「そうだなぁ
……
、お皿だけ用意してくれると嬉しいかな。狭いから、調理は全部俺に任せて」
「分かった」
頷いて、皿を取り出すために戸棚へ腕を伸ばす。お椀を受け取った鯨一がスープをよそい、それを麦が座卓へと運ぶ。大皿を卓上に出せば、コンロの火を止めた鯨一がフライパンを手にして居間へとやって来た。湯気の立つ炒め物を盛り付けて、フライパンをコンロへ戻す。
二人分の箸とコップを用意してお茶を注いでいれば、ちょうど折よく炊飯器が炊飯完了のメロディを鳴らした。茶碗に米をよそって、食事の支度が整う。
狭い一室に香ばしく食欲をそそる香りが立ち込め、麦は座卓の前で胡坐をかいた。正面には鯨一が正座して、両手を合わせる。
「いただきます」
「
……
いただきます」
一人では忘れがちな食前の挨拶を二人で口に出し、箸を手に取る。苦手な野菜を避けて炒め物を摘まみ、口に運んだ。炒めて甘みの増したキャベツと、加熱されてやわらかくなったもやしの食感。控えめな塩味に、麦は思わず頬を緩めた。ごくりと飲み込み、「おいしい」と小さく呟く。
「そう? よかった」
鯨一が微笑みを返して、スープの入ったお椀を手に取った。
「麦くんは好き嫌いが多いけど、風邪が流行ってるからちゃんと残さず食べてね。体には必要なんだから」
「
……
うん」
頷き、麦もスープの入ったお椀を手に取った。卵とウインナー、ニンジンと玉ねぎが入っている。ニンジンの橙や卵の黄色が食卓を華やかに彩り、目に眩しい。口をつけて飲んでみれば、胃に優しそうな素朴な味がした。
「こっちもおいしい。
……
鯨一くん、ありがとう」
こんなにちゃんとしたご飯を食べるのは久しぶりだ、と言葉を零せば、彼が苦い顔で「良くないよ」と息を吐いた。
「ちゃんと食べて、よく寝なきゃ。
……
必要なら俺が作りに来るから、ね?」
約束して、と案じるように言い募られて、胸のあたりが熱くなる。大事にされているのだと実感できることが嬉しい。麦は目を伏せて、喜びに緩みそうになる口元を隠した。上目遣いに鯨一を見つめて、「じゃあ、」と交換条件のように要望を突きつける。
「鯨一くんが明日もまた作りに来てよ。それなら俺もちゃんと食べる」
「
……
。まぁ、良いよ。明日は残業もないと思うし」
本当は自炊もしてほしいんだけど、という苦言は黙殺して箸を動かす。
結局、料理はほとんど鯨一の腹に収まり、食事が終わった。後片付けは麦の担当だ。狭いシンクに皿を運び込んで、肩を縮めながら食器を洗っていれば、鯨一が「麦くん」と声をかけてきた。
「何?」
水を止めて彼を振り返る。鯨一は、少し照れたような顔をしながら「明日は何時ごろに来ればいい?」と小首をかしげた。次の約束を交わせることが嬉しくて、思わず頬を緩める。洗い終えた皿を食器立てに置きながら、明日の予定を脳裡に浮かべる。
「バイトがあるから、俺が家につくのは七時くらいかな
……
。待たせることになっちゃうけど、大丈夫?」
麦の言葉に、鯨一が頷く。
「それだったら、俺の方が早いし、鍵を借りてもいい? 先に準備しておくよ」
「え、良いの?」
鍵のやり取りを段取りして、皿洗いを終える。麦が鯨一の隣に腰を下ろせば、彼がためらいがちにその手をこちらへと伸ばしてきた。手の甲で優しく頬を撫でられて、そのまま顎の下を指で擽られる。むず痒さに口元を歪めれば、彼の手のひらが首筋を包んだ。そのまま、ゆっくりと力をかけられて、息が出来なくなる。
視界に星が散るような感覚と、思考が鈍って危険信号だけが暴れ回る恐怖感。麦が酸素を求めて口を開けば、ハッとしたような顔をして鯨一が手の力を緩めた。
身の危険が遠のいて、麦は激しく咳き込んだ。涙の滲んだ目元を拭えば、薄暗い満足に恍惚とした鯨一と視線が交わる。彼は自責と、怯えと、満足と、快感の綯い交ぜになった表情で目を伏せて、言葉を押し出した。
「
……
ごめん」
「気にしないで」
喉をさすりながら返事をすれば、彼は怯えたように自身の手を握って、立ち上がった。
「ごめん、
……
明日もあるし今日は帰るね」
おやすみ、と何かを振り切るように手早くコートを羽織った彼を見上げて、思わず手を伸ばす。指先が空を切り、彼を引き留められないまま距離があく。麦は俯きがちに、「うん」と相槌を打った。
「
……
おやすみ、鯨一くん」
鯨一は何かから逃げるように、足早に玄関を出て行く。扉が閉まって、麦は座り込んだ姿勢のまま息を吐いた。ひとりぼっちの寂しさを埋めるようにクッションを抱きしめる。
早く明日にならないかなぁ、と天井を見上げて、麦は目を瞑った。
* * *
わずかに喉が痛い。言葉を押し出す直前に何かが引っ掛かるような感覚があって、軽い咳が零れ落ちた。念のためにマスクをつけて出勤したスーパーマーケットで、品出しをする。段ボールを開封し、商品を並べ、箱を潰す。バックヤードにそれを片付け、次の商品を運んで売り場へ向かう。単純だが終わりのない肉体労働に、空咳がひとつ、二つと零れた。
人の目がない時間を見計らって手を止め、麦は小さくため息を吐き出した。眉根を寄せて、あざを隠すために選んだタートルネックの上から、喉元をさする。昨晩、クッションを抱きかかえたまま寝落ちしてしまったのが良くなかったのか、首を絞められた影響か、今日はどこか喉の調子が悪い。
せっかく今日は鯨一くんがご飯を作りに来てくれるのに、とため息を吐いて段ボール箱から商品を取り出し、陳列棚の整理を行う。いつも通りに仕事をこなして休憩室に戻れば、入れ違いにシフトに入る女子高生と行き会った。
会釈して彼女の脇を通り抜ければ、不意に「あ、三雲さん」と何かを思いついたように呼び止められた。彼女はロッカーに戻ると、ごそごそとスクールバッグを漁って何かを取り出す。それは、赤い包みだった。自分でラッピングしたのか、封の代わりをしたリボンが少し歪んでいる。
彼女は吊り目がちの双眸をこちらへ向けて、「これ、貰ってください」と麦に包みを差し出した。
「学校で余ったやつなんで」
「あ、うん。どうも」
ありがとう、と押し付けられるままに包みを受け取る。包装の袋にはハッピーバレンタインという英文が躍っていた。どうやら、友人同士でチョコレートを交換した余りらしい。突き返すのも気が引けて、そのままバッグに包みを放り込んだ。
制服のエプロンを脱いで、ロッカーに仕舞う。スマートフォンを取り出して見れば、鯨一からはいくつかのメッセージが届いていた。通知をタップして中身に目を通す。
『ほうれん草を買い忘れちゃったから、帰りに買ってきてくれる?』
『わかった。バイト終わったから十分くらいで帰るね』
おつかいの連絡に返事を送って、シフトを上がる。丁度いいのでそのままスーパーでおつかいをこなし、麦は鯨一の待つアパートへと向かった。気が急いて、足早に夜道を辿る。鍵は彼に渡しているので、自分の部屋の前でチャイムを鳴らした。中から「はい」と返事があるのが嬉しい。
ほどなくして開いた扉の先には、昨日と同じようにワイシャツの袖をまくった鯨一が立っていた。料理中だったのだろう。彼は朗らかな笑顔でドアを押し開けて、「お帰り、麦くん。アルバイトお疲れ様」と麦を招き入れた。「ただいま」と言葉を返して、小さく笑う。
「あ、ほうれん草、買って来てくれた?」
「うん」
スニーカーを脱ぐ片手間に、「中に入ってるから」とバッグをまるごと鯨一に手渡す。彼は「ありがとう」とそれを受け取った。彼が中身を確認している気配を横目に、沓脱に座り込んでスニーカーを脱ぎ捨てた。麦が顔を上げれば、鯨一が「麦くん」と平たい声を発した。
「これ、何?」
鯨一が小さな包みを手にして問いかける。赤く、可愛らしいラッピング。おそらくは中に手作りのチョコレートが入っているであろう、バレンタインデーの贈り物。
高校生から貰ったそれと、険しい表情の鯨一を見比べる。麦が説明に迷っていれば、彼は何をどう合点したのか、眉をひそめて「捨てていい?」と包みを睨んだ。
「え」
思わず目を瞬いて彼を見つめる。鯨一は苦しそうに眉根を寄せ、ひどく険しい表情で包みを睨みつけている。鯨一は人当たりが良く、親切で、決して誰かからの贈り物を粗末にするような人ではない。急変した彼の様子に混乱しながら、「どうして?」と麦が尋ねかければ、彼は傷ついたような顔をして俯いた。
「
……
麦くんに、食べてほしくない」
「それ、俺宛てじゃなくてただの余り物だよ
……
?」
恋人がバレンタインチョコをもらうのは確かに嫌かもしれないが、誤解は解かなくてはいけない。麦が控えめに申告すれば、鯨一はますます表情を曇らせた。割れたガラス片のような、いびつな光が彼の目に灯る。彼は、「麦くんは、食べたいの?」と質問の形を変えてこちらを窺った。
「いや、
……
鯨一くんが捨ててほしいなら捨てる。食べないよ」
頭を振って、それから彼を見つめ返す。コトコトと、火にかけられた鍋が音を立てていた。静かな室内で彼と向き合って、「鯨一くん」と彼の名前を呼ぶ。
「鯨一くんが考えてること、俺に教えて?」
どうして捨てたいのかも、どうして食べてほしくないのかも、教えてもらえなければわからない。
どうして首を絞めるのかは、説明されれば受け入れられた。
――
だから、話してほしい。
麦の静かな言葉に、鯨一が目を逸らした。唇を噛んで、彼が躊躇うように眉を顰める。
しばらくの間、二人の間には沈黙が落ちていた。鍋の煮える音。車の走行音。二人の心臓の音さえ聞こえてきそうな静寂の中で、鯨一が顔を覆って息を吐く。
「
……
ごめん、麦くん。俺は、君のことを大事にしたい」
懺悔のように吐き出された言葉に、黙って頷く。彼は胸の内の汚泥を吐き出すように、歯を食いしばりながら「でも」と逆説を繋げた。
「大事にしたいのと同じくらい
……
、それ以上に、麦くんのこと、全部俺のものにしたい」
食べるものも着るものも、目覚めて初めに目に映すものも、一日の終わりに言葉を交わす相手も、何もかも全部を掌握して、管理して、麦くんの全部を俺のものにしたい。だから、それは食べないでほしい。
吐き出されたどろどろの欲望に頷いて、麦は鯨一の手から包みを取り上げた。
「分かった。鯨一くんがそうしてほしいなら、これは食べない。
……
もう、これからは、他の誰かが作ったものは貰わない」
それでいい? と、包みを開いて、中身をゴミ袋にひっくり返す。
丁寧にデコレーションされたアイシングクッキーが袋の中に落ちて行って、その動きを目で追っていた鯨一が、ほんのわずかに目を細める。
――
麦にしかわからないほど仄かな笑みを浮かべて、彼が頷いた。
「ありがとう。
……
ごめんね、麦くん」
自責するように俯いた彼に近寄って、その頬に手を滑らせる。自分のそれより高い温度に触れて、麦は小さく笑った。
「いいよ。
……
ちょっとだけ嬉しいから」
鯨一の目を覗き込めば、彼もまた麦を見返した。完璧で人当たりがよく、誰からも好かれて親切な彼の目が、怯えと独占欲で濡れている。そこに自分だけが映っているのを確かめながら、麦は安堵に頬を緩めた。
「なんだか少し、プロポーズみたいで嬉しかった」
ねぇ鯨一くん、俺のために毎日ご飯を作ってよ。
揶揄うように
強請
ねだ
ってみれば、最愛の人は虚を突かれたように目を丸くして、それから苦く微笑んだ。
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