銀塩

乙普。普賢が十二仙になるときの会話。

「ほら、全然知らないじゃないか」



強い風が吹き抜ける中、階段をかけ上がった。玉虚宮の奥、広間に続く小部屋の扉は閉ざされていて「関係者以外立ち入り禁止」の貼り紙があった。いったん足を止め、それを一瞥してからノックする。返事を待たずに開くと、部屋の中央に「今日の主役」がいた。
「やあ、普賢。崑崙十二仙昇進おめでとう!」
ひらひらと手を振ってみせると、普賢は所在なげに座ったままかるく頭を下げた。
「ありがとうございます……太乙真人さま」
「あーもう、それはなしって言っただろう?」
ほらほら、と両手を取って立たせると飾りがきらびやかな音を立てる。当の普賢はといえば愛想笑いも追いつかなかったのか、困惑ぎみに眉を寄せた。
普賢真人の崑崙十二仙昇進が決まったのはすこし前のことで、お披露目の式典が本日午後に執り行われる。普賢は何カ月も前から準備に追われ、そのたびに「大げさなことはいりません」とくり返し主張したが、師である元始天尊がそれを許さなかった。
「長らく不在だった十二仙がすべて揃うのだから、すべての崑崙山の仙道にそのめでたきことを周知しなければならない」
言い分はわかるものの、さりとて準備するのは元始天尊ではないし、だからといって断れるはずもなく、なのでようやく迎えた晴れの日も、普賢はこうしてどこか浮かない表情なのだった。
玉や金糸であでやかに彩った正装も、見た目に豪華ではあるけれど、普段から着るものにとことん無頓着な普賢にとっては、かた苦しく動きにくいものでしかなさそうだった。「なかなか似合うじゃないか」というほめ言葉に「だったら太乙さまが代わってください」とため息をつく。
「普賢、私たちはもう同じ崑崙十二仙なんだよ。太乙って呼んでよ」
「そんなに急には無理です」
これまで何十年もずっと先輩として接してきて、今日から同僚ですといってみたところで簡単に切り替えられない、そう言いたいらしいが、
「これまできみと太公望が二人して、私たちに吹っかけてきた数々の失礼無礼を思えば、そんなものは軽々超えられると思うけど」
そういうと普賢はむっつりと黙り込んだ。自覚はあるらしい。
「式典前にわざわざそんなことを言いに来たんですか」
あてつけみたいに口を尖らせるので、太乙はわざとらしく大仰に「おっと、そうだった」と両腕を広げてみせた。
「これから崑崙山を率いていく仲間として、直接お祝いを言おうと思ってさ」
「そういうのはいいです」
「まあそう言わずに」
むっつりしたままの普賢を真正面に見据えた。
成長したなと思う。見た目もだし、こうしてはるか年の離れた仙人である太乙にも物怖じせず、不満を顔に出せるようになった。ここへ来て長らく、にこにこしておとなしく聞き分けが良く、本音を他人にあかさず、行儀がよかった。あのままならきっと彼は、ここにたどり着くまでに仙人界を離れていたにちがいない。
「覚えているかい、普賢」
やや腰をかがめて、目の高さを合わせた。逸らした視線がこちらに向けられる。戸惑いと不信感にあふれた瞳に、自然と笑みがこぼれた。
「きみがまだ崑崙山に来て間もないころだ。玉虚宮に帰る途中、太公望とはぐれて迷子になったことがあっただろう」
たまたま出会った道士はあわてていた。すでに暗いのに、顔が青ざめているのがわかるほどだった。
「玉虚宮へは、どう行けば帰れますか」
声が震えていた。たまたま出会った、素性の知れない仙人に話しかけてしまうくらい、心細かったのだろう。あるいは、とても寒かったのかもしれない。朝までに雪でも降りそうな冷たい夜だった。
「大丈夫だよっていった私の手を、ためらいなく取ったよね」
「あれは——あのころは、元始天尊さま以外の仙人に会ったことがなかったから」
そうだろうとも。あのときの、子供らしい手の小ささと冷たさ、すがるように握りしめた力の強さを、太乙は思い出す。無事玉虚宮に送り届けたときの、ホッとした横顔も。彼を迎えた少年も同じようにホッとして、二人でしばらく無言のまま、額を合わせて無事を確かめ合っていた。きっと彼らはこの先も二人で支え合っていくだろうなと思った。
よもや崑崙山でも指折りの問題児コンビになるとは想像しなかったけれど。
「私は、迷子になって泣きそうだったことも、太公望と結託していろんな悪さをしたことも全部覚えている。だれよりも努力して、勉強を重ねて、地道に、着実に、自分の望んだ道を選んできたことも知っている。きみは実力で仙人になり、十二仙になった。全部きみの実力だ。よく頑張ったね」
普賢はじっと太乙を見上げていた。まっすぐな目にはさっきみたいな戸惑いは消えていた。
「そんなことはわかっています」
静かで落ち着いた声だった。だからこそ、彼がすごく怒っているのだと気づいた。なにか間違えたかな、と太乙は首を傾げる。
普賢はひとつ息をついてから、
「僕は自分の力に自信があるし、これまで努力をしてきた自負もある。自分が進みたい道に、ちゃんと進んでいけると思っています。なにかあれば手を貸してくれる仲間と、正しく信頼関係も築いてきました」
いったん言葉を切って、二、三度大きく深呼吸する。
「迷子になったとき、星はとてもきれいだった。光の粒が降ってくるみたいで、あんなに怖かったのに一瞬で天体に夢中になった。暗い夜道で、あなたは宝貝の話をしたのを覚えていますか? 自分で作ったという小さな電灯をもって、こうすれば世界は明るくなるんだよと言った」
「そうだっけ……?」
玉虚宮への道を歩きながら、思いつくまま話しただけだ。つないだ手を確かめつつ、ほら、あそこに青い星が見えるだろう、あれは夏には見えなくなるんだ、なぜかというと、と立ち止まって夜空を仰いだ。怖がる子供の目を、意識を逸らすためだったけれど、暗闇で見開かれた瞳の中に、満天の星が映ってきれいだった。
「ぼんやりあかるい光で足元を照らして歩きながら、この世界のこと、命のことを話してくれた。それがなければ僕は、自然科学を探求しようと思わなかったかもしれない。その壮大さと深淵さに立ちすくんで、途中で断念していたかもしれない」
「そっか」
「ほら、全然知らないじゃないか」
今度こそはっきりと、非難がましい口調で普賢は言った。
「僕のことを全部知っているみたいに言わないで。いまここで言うべきことは、よく頑張った、じゃなくて、これからもっと頑張れ、じゃないですか」
おもしろいなあ、と太乙は苦笑した。
「そうだね、たしかに」
「どうして笑うんですか」
「いや、あの小さかった子がねえ」
「だからそういうのはいいです」
「大丈夫、この子は私が育てた~なんて言わないから」
「言ってるじゃないですか」
「それはね、私だけじゃない」
太乙は目線を合わせるのをやめ、まっすぐ背筋を伸ばした。
「十二仙みんな、もうだれもきみを甘やかしたりしない。その必要はないだろう?」
その言葉に、普賢はきゅっと口を結ぶ。
「はい」
よろしい、と太乙は頷いた。
「活躍を期待しているよ——崑崙十二仙普賢真人」
「ありがとうございます」
いったん頭を下げてから、普賢は太乙を見上げた。
……太乙真人。これからよろしくお願いします」
扉の外から普賢を呼ぶ声がする。式典の準備が整ったらしい。
「行っておいで。胸を張って、堂々と」
背中をポンと叩いてから、広間へと続く扉を、太乙は勢いよく開けた。