けいあお

成立。

 京が嫉妬深い人間であることを自覚したのは高校時代であった。
 当時の恋人が空き教室で友人とセックスしていたのを目撃し、どうしようもなく胸が重くなった。彼らはありふれたじゃれ合いをしているだけなのに、京にはどうしてもそれが受け入れ難かったのだ。
 あなたは自分の恋人でしょう。どうして自分以外に肌を触れさせるのか。どうして楽しげに唇を重ねるのか。どうして、どうして、と自身のおかしさを棚に上げて相手を責めるような思考ばかりが京を連日苛んだ。
 ここで堪えられれば良かったのに、京は重く伸し掛かる嫉妬心をとうとう恋人へ打ち明けてしまう。
 どうか自分以外に触れさせないで。どうかその唇は自分のものだけでいて。
 返ってきたのは困惑と、お前はおかしいという批難の言葉。そこまで束縛されたくないと切り出された別れに頷く以外の選択肢はなく。
 その後も恋人ができたことはあったけれど、やはり彼らに他者の痕跡を感じると京の胸はずきずきと酷く痛んだ。人間関係において当たり前のことをしているに過ぎない彼らに対し、どうしてと嘆く気持ちが抑えられない。
 ただでさえ面白みのない人間なのに、こんな厄介な性質。自分への失望は早々に抱いた。
 そんな様だというのに、京はまたひとを好きになった。
 渡瀬葵。
 京に煙草の味を教えた年下の青年。飄々とした性格で、まるで戯れに尻尾を絡ませてくる猫のような彼は日々に鬱屈する京を攫い上げた。
 話し上手な店主の営む隠れ家のような喫茶店。水分の抜けた朽ちかけの柱が支える廃駅。ふわふわした四つ耳の小動物が集まる路地裏。日常のなか、間違い探しのようにひっそりと存在する秘密基地に京を連れ出してくれた葵は、自身の欠点をぽつりと口にした京に言う。
「つまらないかどうかはお兄さんが決めなくていい」
 その言葉と、甘噛みされた指の感触をずっと覚えている。


 休日の朝だというのに、京はいつもの目覚ましが鳴るより早く目が覚めた。
 体に残るのは心地良い気怠さと噛み跡。その理由である葵は京の隣で寝息を立てていて、彼の首筋にも残る情痕に京は照れた気持ちになりながら口元へ笑みを浮かべる。
 葵が恋人になってくれてから、まだそう日は経っていない。けれども、京にとっては随分とむかしから葵を好いているような気がするほど、日々のなかで彼を思う頻度は多い。今朝だって夢のなかに葵の姿を見たように思い、京はいつか柔く噛まれた指をじっと見て、それから葵の寝顔をもう一度見つめる。
 いまは瞼の閉じられた切れ長の目。黒子の上にかかる睫毛の影と、吐息をほろりと零す薄い唇。眠っている人間の肌は白く、それが元より色白の葵だと心配になる程だったので京は彼の肩に上掛けを引き上げる。
(好きだなあ)
 隣で横になりながら京がしみじみと思っていると、体温に惹かれたのか身動ぎした葵が京の鎖骨に頭をくっつけるように身を寄せてくる。京は小さく笑って彼の体に緩く腕を回す。抱き締める体は細く、京の腕のなかにすっぽりと収まった。
 このひとが自分の恋人。
 京が好きだと伝えて、同じ気持ちを返してくれたひと。
「ん……けい……?」
 ぼんやりと考えているうちに腕の力が強くなってしまったのか、葵が寝起きに掠れた声を出しながら頭を上げた。まだ眠たげな顔。
「起こしてしまいましたね。ごめんなさい、まだ眠っていて大丈夫ですよ」
「んー……大丈夫、っ」
 けほ、と乾いた咳をする葵に京は慌てて身を起こし、サイドテーブルに置いてあるペットボトルの蓋を開ける。
「飲めますか?」
「腰怠い……飲ませて」
 ころりと仰向けになった葵の口元にほんのりと浮かぶ楽しげな笑み。京は苦笑を浮かべてペットボトルに入った水を口に含むと、葵の頭の横に腕を突いて彼と唇を重ねた。
 口移しで飲ませた水。葵の喉が上下するのを確認してから唇を離せば、葵は「もうひと口」と平然としたように言うのだ。
 京はもうひと口、ふた口と続けて葵に水を飲ませ、満足した彼が猫のように伸びをするのを微笑ましく見つめるが、その痩躯に幾つも残る痕を改めて見てやはりやり過ぎではないかと昨晩の己に思う。
「京、頭でも痛いの?」
 額を押さえて俯いた京の蟀谷に触れる葵の指を反射的に掴まえて、京は緩く指を絡めながら「あー……」と気まずい声を漏らす。
「痕を……沢山つけてしまったな、と」
「ああ……いいんじゃない? 俺も京につけたし」
 ここと、ここと……と葵が反対の手で京の首筋や胸元に触れる。その手が段々と下へ向かっていくので、京は昨晩の熱を思い出しそうになってしまって困る。いや、困りはしていないのだけど、随分と無理をさせてしまった葵を困らせることになりかねない。
「ふふ、困った顔してる」
……好きなひとの前では正直なんです」
「へえ?」
 のっそりと起き上がった葵が京の膝に片手を突き、耳元へ顔を寄せてくるのを京は止められなかった。
 耳朶を噛む歯の感触と、それを慰撫するように舐る舌の熱さに京の全身が大仰に跳ねる。
……ほんとだ。分かりやすいね」
 頬を撫でる葵の手がひんやりとして感じるのは、それだけ京の顔が熱くなっているからだ。
 猫のような目をして笑みを浮かべる葵に小さく唸り、京は彼を押し倒すようにして抱き締める。ぼす、とベッドに戻った葵がくしゃりと京の頭を撫でる。京はこの年下の恋人に翻弄されっ放しだ。敵わないと思うし、それが嬉しいとも思う。
 葵の肩口を甘噛みする。極柔く喰んで顔を上げようとした京を止めるように、葵が京の後頭部をくっと押した。
「噛んでいいよ」
 そんなに甘やかすようなことを言わないでほしい。
 京の本性は貪欲で際限なく求めてしまうから。嫉妬深く、与えられるものだけでは足りないと貪りだしてしまうから。
……いいよ。俺もするし」
 躊躇う京に葵がもう一度言って、直後に京の首筋を噛んだ。がり、となかなか容赦のない強さに京は一瞬目を閉じる。閉じて、その痕が消えないようにと思う。そうしないと噛み痕などすぐに消えてしまうのだ。それが京には惜しくてならない。
 京はは、と飢えた心地で葵の首筋に舌を這わせ、僅かに躊躇ってから歯を立てた。柔い皮膚に食い込む歯。血が滲むほどではないけれど、葵が望んでくれたなら暫くは消えないだろう。
 口を離し、もう一度口付けて葵の首筋を吸いながら京は願う。
 どうか、次に見たこの肌に自分の知らない痕が増えていませんように。
 京はどうしても、葵にも願ってしまう。
 どうか、愛しいひとに触れるのが自分だけでありますように。
「京?」
 平素、他者に興味が薄そうなのに、葵が京の機微を察したように声をかけてくれる。それが自分にだから、と京は自惚れたい。
……全部、ぼくのなんですよね」
 京はベッドに腕を突いて、間近に葵の色素の薄い目を見つめる。
 葵は自分の全部をくれると言った。京はその言葉に縋り付いている。
 どうか、自分以外に触れないで。どうか、自分以外の誰もこのひとに触れないで。
「ふふ……そうだよ。京も俺の」
「はい、そうです。全部ぜんぶ、葵さんのものです」
 この重たい感情の全ても葵のものだ。
 葵は京の嫉妬深さを知ったらどうするだろう。自由気儘な性質のひとだから、煩わしいと思われてしまうだろうか。そうしたら、京はどうしたらいいのだろう。
「京、重い」
……ごめんなさい」
 体重をかけてしまった京への苦情はあっさりしている。横にずれて、それでも離したくないと抱き寄せる京の腕は拒まれなかったし、葵からも背中に手を回してくれた。
 それだけで十分だと思わなくてはいけない。貪欲に求めて葵が離れていかないように京は己を律さなくてはいけない。
 ──なんて、そう思っていたのだけれど。
「京以外としてないよ」
「え!」
 それはいつかの、これからの話。
 ひとりで思い悩む京のまだ知らない幸せは間もなくやってくる。
 それまで京は幾つも葵に痕を残すだろう。
 自分だけのものでいて。
 切々と願いを込めながら。