2026-01-25 19:12:32
2736文字
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🍑

ももさんゆめ

 ちょっと距離置きたい。百から連絡してこないで。落ち着いたらあたしから連絡するから、それまで。
 そう言われたのはもう二週間は前のことだったと思う。こうしたことは度々あって、その理由やきっかけはいつも違うしオレにははっきりとした原因がわからないことも多かった。それでも間違えたな、という瞬間はしっかり感じ取れてしまうのがまた辛いのだ。いつも正解を探して口を開き、その中のたった一言が、もしくは言葉を尽くせば尽くすほど、二人の間にあると信じている糸が固く絡まってしまうのがわかる。
 もしかしたら何も言わずに黙っていればいいのかもしれない、と思うことも少なくはなかった。実際にそうして落ち着いたこともある。けれど、「なんで黙るの、もういいよ」とより場が冷えていくこともあるのだ。だからオレはいつもその一瞬のうちに変わっていく正解を探して、言葉を発さずにはいられなかった。自身の内側から溢れる、恐怖と不安と焦燥感に駆り立てられているだけなのだとしても。
 言われた通り、連絡をすることなく日々を過ごした。いつラビチャがきてもいいように、寝るときだって通知音を最大にして、唯一彼女と自分を繋げてくれる薄い機械を命綱のように握り締めていた。一向にくることのない通知に痺れを切らし、何度メッセージを書いては消したか、勢いに任せて通知ボタンを押してしまおうかと思ったかわからない。正解がわからないから、彼女の言葉をただ信じるしかなかった。
 これは、オレが間違った罰なのだ。だからこの苦しみはオレの自業自得だった。それなのに、と目の前で静まり返るドアを見つめる。
「これは流石に、ストーカーで通報案件だったりして……
 毎日のように手を掛けていたドアノブは、もうオレの手の温度なんか忘れてしまったかのように冷え切っていた。その断絶に伸ばした指を引っ込め、恐る恐るドアに手のひらを当てて呼吸する。
 ただチャイムを鳴らせば、もしくはこのドアを叩けば、それだけでよかった。部屋の窓は薄暗い空の下でぼんやりと光を灯していたから、そのまま出かけてしまったのでなければ、彼女は中にいるだろう。だからあとは、オレが覚悟を決めればいいだけなのだ。
 緊張に固まった身体をコントロールし、自身を攻撃し続ける心の声を圧し殺した。肌を刺す風に冷や汗が乾いていくのを感じながら、彼女が出てきたときの光景を繰り返し想像する。
 なんで来たの、言ったよね、もう二度と顔見せないで。大丈夫、オレはその失望を受け入れられる。だって、このまま薄れるように消えてしまわれるより余程良かった。最初からなかったみたいに扱われるより、せめてもう二度とこんな真似をすることのないよう断ち切られたい。というのはただの言い訳で、多分、もう一度でいいから顔を見て声が聞きたいだけなのだ。それらを自覚してることのたちの悪さに辟易するが、そうやってオレはオレ自身をこれまで以上に嫌いになってでも、たった一つを諦めきれないのだから仕方がなかった。
 オレは今度こそ、脳内で何十回とそうしたようにノックしようとし――
「だぁっ……!?」
 直前、開かれたドアに思い切り顔面を打った。
 衝撃と低い声に中から狼狽えたような、焦った声がして、鈍い痛みを覚えながらもそれら全てが狂おしく愛しいのだから我ながらどうしようもない。うずくまるオレの上から、「えっ? は? もも? なんで……何やってんの」と一番聞きたかった声が落ちてくる。それも、オレの想像とはかけ離れた、棘を出すことすら忘れてしまった気の抜けた色で。
「いや、あのさっ、ごめん、オレ……どうしても、我慢できなくて」
 開いた扉の隙間から見える彼女の足は、少し前に新しく買ったのだと嬉し気に話していたブーツに包まれている。今から出掛けるところだったのだろう、それをオレが邪魔してしまった。それなのにその足がオレの横を通っていこうとしないことに、勝手に赦された気持ちになっている。
「落ち着いたら連絡するって言われてたのに、なのに、家まで来てさ……ほんとにごめん! でも、会いたくて」
 オレの言葉を待ってくれていると、身勝手な勘違いをしてしまう。
「やっぱこれってオレから連絡したことになる? 直接来るのはノーカンになんない? なんて……
 いや嘘、ストーカーの思考でしかないよねこれって、っていうかもうちょっとセキュリティしっかりしたところに引っ越さない? オートロックとかの、こんな部屋の前まで来れちゃうの心配なんだけど、とぼろぼろと言おうと思っていなかった言葉が口から漏れた。いや、オレが言うなって感じだよね、と半分笑いながらの自虐にようやく、ほんとだよ、という相槌が打たれて息が止まる。
……とりあえず入ってよ。ずっとそこに座られてるとそれこそ通報さそうだし」
「それは……嬉しいけど、いいの? 出掛けるところだったんじゃない?」
「うん。でも、もういいや。もうどうでもいい用事になったから」
 ブーツを脱ごうとしゃがんだ彼女と、自然と視線の位置が合う。そこに最後に見た激情がなく、なんだか呆れたような、放心したような穏やかさだけが存在することに安堵していた。オレをそうして見ていてくれていることよりも、少なくとも今だけは彼女自身の心が凪いでいるだろうことに。
「ねえ、そんなに優しくていいの? オレ、家まで押しかけてんだよ?」
……いいって言ってんじゃん。あたし以外にやったら通報されてたと思うけど。まあ、オートロックは次引っ越すときは考える。誰かと住むってなったらもっと広い家がいいし、そしたらもうちょっと綺麗なマンションがいいよね」
……うん」
 のろのろと立ち上がると打ったはずの顔より曲げていた膝が痛んだ。ドアをくぐると、先ほどまでついていたのだろう暖房の暖かさと外気温の冷たさが混じった、ぬるい温度に出迎えられる。オレは片足でもう片方の足を踏むようにして靴を脱ぎ捨てると、背中を向けた彼女を強引に抱きすくめた。
 寝る前にオレが握り締めていたいのはいつだってこの柔らかい肌なのだ。ピカピカのブーツに似合うデートコースだってオレは三日三晩考えられるし、もっと広くて綺麗で安心して快適に暮らせる部屋だって、オレは一緒に探すことができる。
 毎秒変わる正解を、オレはこれからも多分間違い続けるだろう。それでもこれだけは違わず、掴んでいられる。
「好きだよ。それはわかっててよ……
……うん、知ってる」
 泣いているのか笑っているのかわからない、搾り取られた最後の一滴のように漏らされた、わかってるよ、という言葉もまとめて、繰り返しこの手に抱き直す。