花の一夜(藤堂+フローラ)


 温室に逃げ込んだのには、とくに理由はなかった。
 身の内のマガツヒは、ときどき、頻度で云えば二三日に一度は、藤堂の思考を歪められた憎悪に苛んだ。同じように神性を取り込んだはずの近藤はまるで平気そうにしているのでアヴェンジャーゆえの特性であるかもしれない。藤堂を復讐者のクラスで召喚してしまったことを思い返すたびに後悔を浮かべる、優しすぎるあのひとに迷惑はかけまいと、よく藤堂は衝動が収まるまで一人で籠って耐えていた。
 今日は夕食を求めて食堂に向かっている中途で、前触れもなく被虐衝迫が抑えきれなくなり、誰にも見つからないような空間を求めてふらふらと温室に入っていった。温室の庭園はいつも樹木や花が藤堂の背丈を覆うほど咲き乱れて、少しばかりなら身を潜めることもできる。敏感になってしまった嗅覚の刺激を避けて、藤堂は懐かしさを覚えるかたちを頼りに、植木のそばによろよろと膝を抱えてうずくまってようやく、長いため息をつけるようになった。
 夜の闇と鮮血と浅葱色。冷たい汗の臭い。怒声と剣戟と冷徹に諭される声。あの夜を強制的に再現しようとする脳裏から逃れようと、藤堂はぼんやりと目の前の四つ花の繊維を眺めていた。
 どれほどそうしていただろうか。
 熱が引いていくのを感じて、藤堂はまばたきをしてまなじりの雫を落とした。すっかり温室の規則正しい照明は日没を迎えて、辺りは星空を模した夕闇に包まれている。藤堂は袖で乱雑に拭いて顔を上げ、やっと落ち着いて自身が逃げ込んだ樹木のかたちが目に入った。
 みずみずしそうにぴんと張った緑の葉、手毬のような花弁がたくさんに咲いている。色合いは暗くてわかりづらいが、紫がつよいだろうか。
「紫陽花か……
 昔、藤堂が生きていた時代、屯所の寺の敷地にもよく植えられていた花だ。季節ではないように思えたが、ここは魔術的に世界各地の植物を保管するカルデアの温室、不思議なことと云えないのだろう。
 藤堂は痺れたような姿勢をくずして花に触れてみた。ずっしりした実在の重みを感じる。きちんと剪定された花壇は、なにがしかの美的意識を持って誰かがまめに手入れをしているらしかった。
「お花、お好きなんですか?」
「うわあっ⁉」
 急に耳元でささやかれ、まさか近くに人がいると思っていなかった藤堂は素っ頓狂な声を上げて上総介兼重を出現させようとして、すんでで思いとどまった。
 目を白黒させて隣を見やると、いつのまにか少女の姿のサーヴァントがつま先立ちでかがんでいた。ぽうっと提灯のようにやわらかな光の粒子をつぶさにまとっている。視線が合ってみるみるうちに彼女の真白な頬に熱が灯った。
「わああすみません! 驚かせてしまいました」
……いや、こちらこそ勝手に踏み込んですまなかった……。きみがここの管理を?」
「わたしはお花のようすを見回りに……いえ、お散歩をしに来た、といいますか。気ままにそよぐふわふわの綿毛気分になるような、すてきな温室ですもの」
 愛らしく微笑む彼女は、光の粒子でほのかに発光して、かぐわしい花の匂いを漂わせ、花を編んだような衣装も相まって、西洋の絵画に描かれる妖精を思わせた。藤堂はとたんに自分が尻に土をつけた姿で座り込んでいるのが情けなく思えて、よろりと立ち上がって軽く衣服をはたいた。藤堂に合わせてすっくと背を伸ばした彼女は藤堂といくらも背丈が違わない。
 少女が紫陽花に見入っているので、なんとはなしに立ち去りづらく藤堂は訊ねた。
「きみは、紫陽花が好きなのかい」
「ええ! もちろんです! お花ならなんでも好きです。あなたは?」
「懐かしい花ではあるかな。生前もよく見かけたから」
「まあ、もしかして日本の方かしら。紫陽花は日本原産ですものね」
「そうなのか?」
 とくに花を愛でる慣習といえば花見か和歌の題材かの藤堂は花の種別にうとかった。思い返してみれば、昔伊東先生が紫陽花は古来より親しまれていたと何かしらの雑話で仰っていたかもしれない。
 藤堂が興味を持ってくれたと思い込んだらしい彼女はいっそう声を弾ませる。
「雨の季節の象徴なんですってね。ここのお花が植わってる土は中性だから濃い紫に染まるけれど、あちらは酸性を効かせて青くしていて、グラデーションがほんとうに美しいです。最近は品種改良で黄色や緑のお花をつける品種もあって——あら、ごめんなさい。わたし、お花のこととなると喋りすぎちゃって」
「ずいぶん花に詳しいんだな。まるで本当に花の妖精みたいだ」
 慌てたように手を振っていた少女は花を写し込んだような目をまるくして、はい、と蜜のような声でうなずいた。
「花咲のお爺ちゃんには、ハナちゃんって呼ばれています。ええと、あなたは」
「藤堂平助だ」
「藤堂さん。よかったら、ぜひ見てもらいたいお花があるんですが、ご一緒にお散歩はいかがでしょう」
 とりたてて断る理由もなかったので藤堂が了承すると、ハナと名乗った少女は嬉しそうにはにかんでくるりと歩き出した。
 彼女の歩調に合わせて藤堂も隣に並ぶ。彼女は良き灯りとなり、道中の草花の種類や育て方、その美しさを讃えた。彼女は藤堂がなぜ紫陽花の花壇でうずくまっていたのかにはちっとも興味を持っていなさそうなことに藤堂は心からほっとした。
「あちらです。昨日つぼみが大きくふくらんでいて——
 云い終わらないうちに彼女は飛び跳ねて駆け寄っていく。甘いような香りが鼻をくすぐって、藤堂は一度深呼吸をして後を追った。
「見てください。ちょうど、花びらがひらいたところです」
 ちいさな満月のようだった。
 うつむきがちに枝垂れる一輪は、夜闇にもぽっかりと浮かんでいる。少女に合わせて藤堂も膝を下ろして花を覗き込んだ。透けるような純白の花びらがヴェールのように重なりあい、大輪の裳裾を広げている。甘い芳香はこの花からこぼれていた。
……きれいだ」
 まるで極楽浄土の仙女をあらわした花と云われれば、藤堂は信じただろう。
「このこは月下美人、というおなまえです。別名で一夜花といって……夜のみじかい間にしか咲かない、シャイなお花なんです」
「まるで蓬莱の花だな」
「東の土地のお花、といえばそうかもしれません。こう見えて、このこはサボテンの仲間なんですよ。葉っぱに厚みがあるでしょう?」
 少女は興奮したように早口で月下美人の育て方や学名やその特徴について熱く語った。それらは花にあまり詳しくない藤堂の頭にすべて留まりはしなかったが。枝がのびのびと行き交うように語られる、とつくにの花の話には面白く印象が残った。
 月下美人はふたりの前で静やかに花を咲かせ、やがて夜も更けないうちから儚くしぼんでいく。あっけないほどの短命な花に、藤堂は惜しく思った。
……一年に一度しか咲かない、という伝承があるんです。ほんとうはこのこが気持ちいいように可愛がってあげると、何回かは咲くんですけど……でも、開花を見守れるのはとってもめずらしいから。藤堂さんは四つ葉のクローバーみたいにラッキーでした」
……僕は、幸運Eなんだが。ハナちゃんのおかげなんじゃないか?」
「ふふ。実は、今夜咲いてくれたらいいなって、月下美人さんにお願いしてたんです」
 少女はそれこそ花のように麗しく笑む。花と話せるという突飛もない話でも、彼女ならそうだろうと藤堂は思えた。
 藤堂はしぼんだ花に目を落とす。
「しかし、もったいないな。花がひとつだけというのも、これじゃ実をつけられないんじゃないか?」
「そうですねえ。このお花は一株でたくさんお花をつけますけれど、ここには他の株がないので咲いておしまいだと思います。悲しいことですけれどね。あ、お花は有効活用もできますよ。なんと、食べられるんです!」
「菊の花みたいにか。どんな味がするんだろな」
「湯がいてちょっとドレッシングをかけたらすてきなサラダになりますよ。日本の方でしたら、天麩羅もいいかも」
 云って、きゅうう、と可愛らしい音が響いた。藤堂のものではない。少女が恥ずかしそうに眉を下げた。
「あの、ほんとはこんなことはないんですけれど、カルデアでお食事をいただくようになったら、大食いのアボカドさんみたいにお腹がすくようになっちゃって……
……僕もだ。サーヴァントは腹がすかないはずなんだが。夕飯、結局食べそこねてしまったな……
 時間の経過はよくわからないが、決められた夕食の時間はとっくに過ぎているだろう。もしかすると厨房を担当するサーヴァントは朝の仕込みのために居残っているかもしれないが。
 顔を見合わせて、同時に立ち上がった。彼女は一言断って花をやさしく摘む。ほとりと花は彼女のてのひらに収まった。
「天麩羅、揚げてもらえるかなあ」
「ご飯が残っているといいんですけれど」
「できれば汁物と漬物もだな。天麩羅がだめなら、さっきのように湯がいて酢の物にしてもいいんじゃないか。僕も多少は料理の心得はある」
「えへへぇ、頼もしいです。わたしはあんまりお料理は得意じゃなくて」
 くすくすと笑いあいながら温室を後にする。料理方のような期待はしないでおくれよ、と藤堂は念を押した。少女はくすぐったそうに了承してくれた。
 ふたりが歩いた後のカルデアの廊下に、少女の足跡のような光の粒子がかすかにきらめきながら舞っている。