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John
2024-06-21 20:24:29
2219文字
Public
武新
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色泣き
武新。
維新都市SAITAMAでの5年間で、あったかもしれない2人。
しとしとと雨の降る蒸し暑い日だった。
その日、先生と私は久方ぶりの余暇を得て、勤王党本部に滞在していた。
先生は庭の
紫陽花
あじさい
が左手に見える場所へ、洋画風にイーゼルを構え絵筆を取られている。
鍛錬を終え邸内を歩いていたところ、目の端に先生のお姿を捉え、自然と私は足を止めた。
先生の筆致は迷いがない。
白刃と同じで淀みなく鋭い筆先が色を添えていく。
だが、普段はそのまま
一気呵成
いっきかせい
に仕上げられるはずが、珍しく御手が止まった。
「
……
」
しばらく無言ののち、筆が置かれ。
見惚れていた私に声がかかる。
「
蒸
む
すな、田中くん」
「お邪魔をしてしまいましたか」
きっとそうだろうと思い、心の底から恐縮する。
だが先生は型の良い眉へうっすらと苦心を浮かべ、仰った。
「いや、墨の乾きが足りなくてね、私としたことが」
一旦諦めたように、先生は軽く画材を片付け始める。
武市先生はかつても墨画を嗜んでいらっしゃったが、この頃はどこからか彩墨を入手なさって墨画に淡彩を施したりもなさっている。
そういったものがあるというのも、私は先生との日々で知ったのだが。
白く丸い
硯
すずり
には丁度、紫陽花の色を補うのに良い両極の紅と藍が磨られていた。
それは無駄になるのだろうか。
「水張りも乾かずに困る」
そのまま席を立たれて、立ち姿すら
一幅
いっぷく
の画のような和装が私の方へ歩み寄る。
「だがこういう時は急かぬのがよい」
「左様で」
先生は絵を描く為に描かれるというより、思考を澄ますために、集中する行為を好まれるという事らしい。
一心に筆を取っていると、考えがまとまるのだそうだ。
生前は社交の手段にもなさっていたようだが、ここ維新都市へ活動を移してからはその御様子もない。
描き上げられた絵は拠点を飾るか保管されているようだった。
一度、私へ絵を下さろうとなさったこともあったが、あまりに身にあまるので、ひたすらに辞退した。
すると、君の趣味ではなかったな、とあっさり先生は絵を引っ込められ。
私は未だに時折、それが無性に惜しくなる時がある。
なんとも、私の人生はそんな事ばかりで出来ている気がする。
「少し外を歩く」
声を掛けられ、惑いを抱えたまま喜びを得て私は従う。
「傘は頼む」
先生は僅かの間に洋装へお姿を整えられて、本部を出る前に蛇の目傘を手渡した。
従者のように扱われる事は特段、拒否しようと思わない。
供を任される事もむしろ誇らしい。
ただ、相傘のようなのがどうも心を乱される。
武士ならば傘ではなく笠を被るべきとも思うが、ここSAITAMAではそれも浮く。
結局、高僧と従者のような形で私が傘を差し掛けるほうがしっくりときた。
私の広げた和傘の影へ、肩を寄せて先生が入る。
「では行こうか」
「ええ、お供します」
先生は道すがら、歩きながら考え込んでいるようだった。
急かぬのが良い、と、絵画に関して言うのも。
先生がこの御様子でおっしゃられた事であるし。
おそらく絵のことだけではないのだ。
高杉重工への反抗活動が、決定打を欠くまま季節が巡りゆくことへの焦りだろうか。それとも
……
。
「ああ、田中くん、あそこにも紫陽花が咲いている。あれはなかなか
佳
よ
い」
武市先生は足を止めて。
目を細め、豪勢に咲き誇る、藍の色が濃い紫陽花を見ていた。
私も足を止め、同じ物を見る。
かなり立派な株で、葉も艶やか、この陰鬱な雨に生気を誇示している。
その生気が先生の憂いを一時拭い去ったのだ。
私が拭って差し上げられないという事実は
忸怩
じくじ
たる思いだ。
不意に紫陽花にすら嫉妬を覚える。
だが、無垢な感動に先生の表情が染まっている事には安堵した。
お心を煩わせていらっしゃる、その
気鬱
きうつ
が少しでも晴れたなら、よいのだ。
と、その時、一切気づいていらっしゃらないようで。
危急であったため、私は思わず無言で武市先生の
玉体
ぎょくたい
を抱き込んだ。
「た、なかくん!?」
すぐ脇を真鍮色の路線バスが煙を吐きたて通り過ぎる。
傘を持っていない手で強くお身体を引き寄せ。
背で跳ね上がった泥水を受けた。
「先生、
御身
おんみ
、ご無事ですか」
「だが、君
……
」
お気付きにならないとは、よほど心患っていらっしゃるのだろう。
高杉め、と内心悪態をつきながら、私は珍しく油断のあった先生の驚いた顔を見る。
先生の白いお顔には汚れひとつない。
ああそういえばあの江戸城流血開城の日には、白に赤が散る肌がやけに艶めかしく、美しかった事は覚えている。
白い花弁に血が滴ったような際立つ様子。
だが今、このような汚れを先生に被らせる訳にはいくまい。
そんな事を考えながら武市先生の御尊顔を見ている。
先生のほうでもこちらを振り返り、見上げていた。
墨龍の瞳は墨画にそこだけ彩墨で極控えめな金の色を掃いた、そんな深さをしていらっしゃる。
その内、どちらからともなく、それが当たり前のように口と口を付けあって吸った。
「少し早く帰っても、墨が乾くまで退屈はなさそうだな、君が替わりに泣き濡れてくれると言うのなら」
そう口吸いの合間に囁かれる。
先生の御心が晴れるなら何だって私は構いません。
そう思いながら、知ってしまった情に、身体は期待を募らせていた。
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