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John
2022-11-15 22:59:55
8949文字
Public
武新
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霜月某日 雨
武新、ピクシブに投稿したものと内容は同じです。
維新都市の五年間で、もしかしたらサーヴァントの武市瑞山と田中新兵衛にあったかもしれない日常。
剣術系も幕末知識もにわかです。
ご容赦ください。
ごく一部ですが薩摩弁を作るために『恋する方言変換(@Koisuru_Hogen)』お借りしています。
R18Gを付けるかほんの一瞬、悩むくらいの流血表現があります。
セックスシーンやキスシーンは無し。
独自研究、独自解釈、捏造設定のオンパレードです。
江戸城流血開城から数年目、
仲冬
ちゅうとう
。
その日は雨であった。
二騎、それぞれ古風な
番傘
ばんがさ
をさす連れ
添
そ
った人影が歩いている。
そう、二騎
……
彼らは人ではなくエーテルの肉を持つサーヴァントだ。
故に、魔力、神秘を伴わぬ何であろうとも彼らを損なわない。
寒さは無効だ。
とはいえ、もし人の身であれば、
骨身
ほねみ
に染みるような寒い日であった。
雲の上にあるだろう太陽は、既に低いはずの時刻で。
天は冷たい
鈍色
にびいろ
に
覆
おお
われ、
冷雨
れいう
はしとしと、いつ止むともしれない陰気さで降っている。
二騎は、特に言葉も交わさず、
所狭
ところせま
しと建物の
林立
りんりつ
する薄暗い路地を歩いていた。
裏路地の
猥雑
わいざつ
な電飾看板が雨と蒸気の
帷
とばり
に
滲
にじ
んでいる。
真鍮色
しんちゅういろ
の配管がそこかしこに巡る
金臭
かなくさ
い街は、魔力の流れに満ちていたが。
人工の灯火以外、全てが
薄墨
うすずみ
の色に沈み込んでいた。
二騎のうち片方は
武市
たけち
瑞山
ずいざん
という。
玄冬
げんとう
の概念を形にしたような。
周囲の墨色を
精髄
せいずい
のみ抽出したものが命を得た、そうとすら思わせる出で立ちをしている。
実際に彼は、自ら墨龍の異名を名乗ることもあった。
隙
すき
のない総身墨色の
洋装
スーツ
に、黒い髪、薄墨色で龍が描かれた
肩掛け
ストール
をしている、肌の白い
流麗
りゅうれい
な男である。
時節も折、あたりは寒々しい様子であるし、薄氷の如き鋭い冷気を
纏
まと
って表層は凍っているのかとすら感じられた。
ただ吐息が
烟
けぶ
っているので、そうではなく、内には
焦熱
しょうねつ
を持ち生きているとわかる。
付き従っているのは
厳
いかめ
しい面で口元を覆う、悪夢のような大男だ。
筋骨隆々とした肌を晒し、寒空に、下は
袴
はかま
ひとつの薄着で眉ひとつ動かさない。
生前、彼を仕事が荒いと
揶揄
やゆ
するものもいた。
抜き身の長刀を荒縄で保護した手に提げるその大胆な姿は、まさに豪胆でがさつな傑物という風合いだ。
しかし、よく見るものは気付いただろう。
足運びは裏腹に繊細で静かな、几帳面さすら漂うものだ。
武器を
編
あ
む一瞬の隙すら
厭
いと
い、彼はこの道すがら剣を
提
さ
げたまま。
その静かに剛直な様子は、
柄
つか
へ雨避けの手拭いをかけた
大刀
だいとう
を
能
よ
く使う強者であると、如実に見る者へ示してくる。
もっとも今、気配遮断を行なっている彼を視るものがいたならば、だが。
彼は
田中
たなか
新兵衛
しんべえ
といった。
彼ら二騎は
昭和勤王党
しょうわきんのうとう
。
有り体に言えば、過激な武力行使をする反体制組織だ。
高杉重工の治世に
叛意
はんい
を持つ、市井の協力者へ顔見せや工場の視察を済ませ。
本日の予定を終了して勤王党カワグチ支部への帰りであった。
墨龍の影踏まず。
大男は互いの傘が触れ合わない距離を保ち、美麗な墨絵の
左後
ひだりうし
ろに音もなく大きな影を落としている。
「先生」
新兵衛が前を行く武市へ、唐突に呼びかけた。
彼にしては抑えた声で。
「この先にある角を、川へ曲がります」
平時の予定にない道の提案。
新兵衛の一言で何か察した武市は、刃のごとき目線を前方に向けたまま、
肯首
こうしゅ
するだけで同意を返す。
新兵衛もそれのみで意図が伝わったことを理解した。
尾
つ
けられている。
昭和の維新都市でも、さして変わるものではなかった。
雨はいつでも、獲物を仕留めた捕食者の足跡を消し、血を洗ってくれる。
忍び寄る際に、気配を隠してくれる。
新兵衛も、逆の立場なら今日を選んだだろう。
数人の尾行に気付き、新兵衛は傘を持つ右手へ力を込め、左手の愛刀へちらりと目を遣る。
雨よけに手拭いを掛けるなどせずとも、柄巻が漆塗り
……
地黒塗りの実戦刀は水に比較的強く。
そもそもサーヴァントの武装は
鮫皮
さめがわ
が生前のように雨でやられたりはしない。
剣も肉と同じ
架空元素
エーテル
で編まれたもの。
それでも。
万が一にも
濡
ぬ
れた柄が
滑
すべ
り、刀を落として
失敗
しくじ
るような真似は避けたいという、彼の想いがそうさせていた。
寒く薄暗いこの時刻、今日はなんとも暗殺日和だ。
人通りは少ない。
おあつらえ向きに雨まで降っている。
来ると思っていた。
今日の帰り道は、人を切り捨て主を守ることになるだろうと、新兵衛は既に予測し覚悟を決めている。
迎え撃つことに適した場所は、帰路のうちで何ヶ所か想定し暗記していた。
現状もっとも近い場所へ、背後の気配から意識を逸らさず、後ろを歩きながら新兵衛は主を誘導していく。
武市自身も、心得ている様子で促されるより先にそちらへと進んでいた。
相手は別の筋書きを抱いていたかもしれないが、それを実現させる気は彼らにない。
今日は人殺しには良い日だ、だから。
背後の物陰に、敵意ある輩がこちらを狙い、鈍色の牙を鞘走らせようと構えながら追って来ている事を。
気配以外からも、新兵衛は確信した。
この維新都市SAITAMAには川が流れている。
クマガヤブロックとカワゴエブロックの間を通り、中心街を囲う外壁周りをイルマブロック側へ半周して、トコロザワブロックとカワグチブロックの境界を抜けて外部へ流れ出ている。
人工的な直線と曲線に進路は加工され、
砂利
じゃり
ではなく
護岸
ごがん
で垂直に囲われた川だ。
幾度か角を曲がりつつ、二人は川へ向かって道を選ぶ。
目的とする場所へ至ると、左右を高い建物に挟まれたその路地をしばらく進む。
隠れる場所のない長い通路で、刀を抜かずに歩くなら三人並べる程度の幅という舗装された道だ。
この先は、まだ道のりがあるにはあるが行き止まりで、その大きな川が存在するだけ。
ある程度、奥まで入ったところで立ち止まる。
武市が立ち止まると、それに合わせて、離れたさらに手前で新兵衛も立ち止まった。
相手が同じ路地へ侵入し姿を表すことは、二人が立ち止まるのとほぼ同時だった。
数は五人、襲撃者たちは二人と多少の距離を挟んで立ち止まるなり次々に腰の刀を抜いた。
回り込むことは困難な場所を選んだのだから、伏兵は考え難い。
これは襲撃者たちにとって獲物を袋小路へ追い込んだ絶好の機会でもあるのだから、今ある戦力を割いて逃げや余力を考えはするまい。
気配からサーヴァントはいないと新兵衛は感じ取った。
どうやら生きた人間が、魔力を帯びた武器を携えている。
心のうちで新兵衛は。
五人とは少なか。
おいの首も、安う見られたもんじゃ。
と相手の
浅慮
せんりょ
を
嗤
わら
った。
それとも、彼らはこんな日に自分が主人の護衛を本当に離れると考えたのだろうか。
そう思えば、
面頰
めんぽお
の下で更に笑みは深くなる。
勤王党は、生前同様に一部では慕われつつ、随分各所から恨みを買っている。
数日前からそれとなく気配はあったこの襲撃、主犯を現時点は断定できないが、目星をつけている相手は高杉重工憲兵隊でもなくあまり大きな組織ではない。
今の所、飛び道具を使ってくる気配もない。
使われたところで、大抵のものは新兵衛の身を損ねないのではあるが。
相手は、真剣を構えはしたものの踏み込みをためらっているようだ。
慌てることもなく、武市と相手の間に立ちはだかった新兵衛はそれを
睥睨
へいげい
し。
鼻からゆるりと息を吸い、一度、その牙のような歯を薄く開いてシィッと細く長く面頬の内に吐いた。
この場を
血塗
ちまみ
れにする意思が確と強固になる。
臍下
へそした
の
丹田
たんでん
を意識する。
意識が研ぎ澄まされ、思考が人間を殺す決心に切り替わり、心が鋭い刃のごとくなっていく。
周りの音も、命の遣り取りに不要な有様はすべて、集中する意識から遠ざかった。
先に仕掛けたのは新兵衛だった。
番傘を壁際の背後に打ち捨て、地面に白い手拭いを落とし、奇声をあげながらあっという間に獲物と距離を詰める。
「キェエアアアアアアアアアア!!」
その瞬間、ほとんどの襲撃者たちには何も無い場所から大男が刀を構えて飛び出して来たように見えた。
突進ののち放たれる
渾身
こんしん
の振り下ろし。
ただでさえ及び腰だった襲撃者たちは浮き足立ってまともに迎撃するどころではない。
「チェエエエストオオオオオオオオ!!」
上から打ちかかられた一番前の男は、あっけなく脳天を割られて、大きく削られた頭の中身をまろび出させた。
叩き込まれた刃に顔半分が潰れるような形で、白い頭蓋骨と
脳髄
のうずい
、肉と引っ付いたまま削げ落ちた頭髪が混じって雨水に落ちる。
その頭だったモノの持ち主の身体は、しばらくよろけた後に重い音をたてて水飛沫の中に沈んだ。
未だ、
痙攣
けいれん
しているその身は、二度と立ち上がることはないだろう。
そう、この時点で獲物と狩人は逆転した。
「キェエエエエエイッッ!!」
凄まじい気迫と勢いで、あっという間に仲間が一人殺され。
けたたましい雄叫びを上げながら何の
躊躇
ためら
いもなく、更に迫る巨大な男へ恐怖を覚えてしまうのは自然なことだ。
狭い道でも、振り上げて振り下ろす動きを基本とする剣術は合理的だった。
新兵衛は
斃
たお
れた一人の脇を抜け。
恐怖に構えが崩れてしまっているすぐ後ろの男へ打ちかかる。
くずれ落ちた仲間を唖然と見るのではなく、彼は恐ろしい勢いで自身に迫る人斬りを見るべきだった。
しかし全ては遅い。
「チェストオオオオオオオオオオ!!」
相手の耳をかすめるわずかに斜めの斬撃が、その弱々しい構えを弾いて、ざっぷりと首を裂く。
喉から胸元までを切り裂かれ、ほぼ切り離されたようになった男は、あっけなく新兵衛の足元に倒れた。
まずは二匹、残りは三匹。
優秀な猟犬は、凄まじい速度で回るどこか冷静な思考を保持したまま、振り下ろした血濡れの刀を顔の横へすぐさま構え直し。
次に狩れそうな最も近い相手を瞬時に選別する。
次に狙いを定められた男は、小さく悲鳴の声をこぼしつつも打ちかかってくる新兵衛に合わせて来た。
しかし。
「クァッ! キェアアアアアアアア!」
初太刀で構えを崩され、肩口に二撃目がめり込んだ。
三撃目は脳天へ入る。
「チィェリァあああアあ!!!」
その瞬間、新兵衛のものではない別の
猿叫
えんきょう
が響く。
三番目の男と打ち合ったこの隙に、四番目の男が仲間ごと叩き斬る勢いで剣を打ち下ろしてきたのだ。
反応できたのは経験と運だった。
「!!」
とっさに、右手で柄を握ったまま刀を横に構え、刃の背へ左手を当てて。
強力な衝撃を受けて、そのまま力を左手側へ流すように動く。
鍔
つば
で受けるようには動かない。
ほぼ条件反射で、新兵衛は体が勝手にそうしたかのように動いた。
示現流に受けの技はないなどと言われることは確かにある、が
……
。
長刀を横にしたため、危うく壁に刀を刺しそうになるところ、寸前で回避し。
面
おもて
には出なかったが、新兵衛の背に初めて冷えたものが走る。
身が厚い大太刀は折れもせず、押し切られることもしなかった。
ただ、彼の
膂力
りょりょく
で片手を離れた刃の背に当てて二ヶ所で支え、刃先側に流して受けていなかった場合、刀ごと押し切られていた可能性はやはりある。
四番目にかかってきた男は、どうやらこの中で一番の手練れ。
しかも同じ薩摩の剣を知る者のようだ。
互いに構え直して。
新兵衛は距離をとった後も、体重を乗せる間をとるべくジリジリと下がりながら、これまでに斬った死体を踏んで滑らぬよう気を張り詰めさせる。
相手は逆に、そろそろと死体を踏み越えて間合いを一定に保つ構えだ。
白い手拭いが濡れて地面にあるのが手前の足元によく見える。
その横に傘が落ちている、このさらに後ろの離れた場所には新兵衛の主が、彼への信頼か傘を差したまま構えもせずにいる。
ここから先に下がるべきではない。
「
雲耀
うんよう
……
ッ」
先手必勝。
より疾く、強く、ただその決意が勝負を決めた。
相手の、次に来る打ちかかりなど一切待たずに、斬られても構わないという様子で新兵衛は自らが真っ先に打ちかかる。
その一撃で己の命が潰えるとしても、新兵衛はやはり踏み込んだだろう。
サーヴァントと人の差というより、矢張りただ其れのみがこの一瞬を決めた。
「キェエエアアアアアアア!!!」
先に仕掛けられた形になった相手は、迫り来る新兵衛へ振り下ろそうとするが。
新兵衛は懐まで入り込み、相手の腹を深く斜めに切り裂いて、左後ろへ流すように斬った身体を押し出した。
そのまま落としてあった番傘の方へ、新兵衛に斬られた男は倒れこむ。
すでに肌へ赤い衣をまとったように、人斬りは血濡れで真紅に染まっていた。
右手は絶対に刀を離さない決意を示すように、鍔へ括り付けられた赤い細綱を巻きつけて剣を握っている。
本来であれば、滅多なことでは刀を抜かない誓いの為に使う紐があるべき場所だ、それはとっくに、別の意味を成している。
その人殺しが、鬼気迫る表情で最後の獲物へ顔を向ける。
残った一人は、哀れな悲鳴を口から大きく漏らすと、背を向けて逃げを打った。
臆病などではない、それこそが確かにこの場でとりうる最善のひとつではあっただろう。
だが。
即座に。
考えるより思うより早く。
新兵衛は逃げる背中に向けて力強く地を踏みしめて蹴り、大きく飛ぶように一歩を進めた。
「キェエアアアアアアアアアアアア!」
恐ろしく素早い。
サーヴァントであることを加味しても、驚くべき疾風迅雷の速度。
その足はあっという間に逃げる背後に食らいつく。
猟犬の
顎門
あぎと
は捉えた相手に、何の躊躇いもない渾身の力で、血濡れの牙を上から下に見舞う。
哀れな男の背中はぱっくりと、背骨まで
袈裟
けさ
に切られ、崩れ落ちた。
周囲に殺気が残っていないこと、獲物の絶命。
それらをしばらく探り、用心してから。
人斬りは構えをやっと解いた。
音も、匂いも、過剰ともいえる集中で、戦いに要らぬ全てが新兵衛から追い出されていた。
息を吸い込み吐くと、次第に新兵衛の五感へ殺すこと以外の周りが戻ってくる。
さあさあと雨が降っている音がしていた。
あたりはまさに、血と肉片の海だ。
雨脚は強く、地面に溜まった水は流れる血が混じって、まだ新しく
温
ぬる
い死を
噎
む
せるほど充満させている。
新兵衛は、その血が広がっても届かないあたりまで距離をとっている彼の主を。
武市瑞山のほうを見た。
彼が守った、絵画のような男は、
微塵
みじん
も動かず傘を差したまま血の
一雫
ひとしずく
も浴びていなかった。
白い肌は白いまま、黒は
清漣
せいれん
に黒のままだ。
その艶やかな黒い革靴が雨交じりの血へ踏み出すように、一歩を進めようとする。
それすら新兵衛は制して。
今の光景を平然と見ていた武市に、淡々と述べた。
「
……
川まで『これ』を運びます。今日はもう何も無いでしょうが、しばし
御身
おんみ
を離れます」
新兵衛の目は、慣れ切った無感情を
湛
たた
え、人間だった残骸を見下ろしている。
武市は声を返さずただ頷いた。
新兵衛はそれから、死体を増水している川の流れに捨てた。
流れた遺体は見つかる時は見つかるが、決定的な遺留品や目撃者がなければ、維新都市の警察機構なら案外これで足はつかない。
京都で生きていた頃、島田左近殺しの時ですら既に使っていた手法だ。
汚れることはいとわず、数体ずつ幾度か往復して運びきり、殺した相手の持ち物も全て流れに捨ててしまう。
何か雇い主なり所属なりが知れるものがあるか探るも、大したものはなかった。
首を晒すことは、この度はしないでおく。
できればそのまま水を浴びて血を流してしまいたかったが、垂直の護岸で四角くなった川は、その点かつての京を流れる川のようにはいかなかった。
おざなりな手すりの向こう、かなりの幅で道よりはるか低い場所を流れる水路のような川を、立ち去る前に新兵衛はもう一度見渡した。
サーヴァントなので、流される恐れぐらいはあるが溺れはしない。
最悪、追い詰められたなら飛び込むことも想定内ではあったが。
増水してもまだ高い護岸があり、川面まで落ちれば簡単には上がれそうにない。
川へ降りる代わりに、彼は一度霊体化して汚れを払った。
手ぬぐいは凝った品ではない量産品で、古風な番傘とはいえそれもこの維新都市でありふれた品だった。
それらは血に濡れてしまったため、死体と一緒に流して
棄
す
てておいた。
全て『片付け』が終わり、新兵衛は待っている武市の元へ戻った。
「田中君」
武市の表情から先程までの氷片が如き冷たさが、思いの外、溶けて目尻が下がる。
柔らかい色で、この時やっと墨絵のような男は口を開いた。
「君、傘が無くなってしまったな」
そもそも。
最初は証拠が残ることを懸念して傘を持たないつもりでいた新兵衛に、傘を持たせたのは武市だった。
更にいうなら新兵衛は付け狙われているようだとわかった時点で、相手の素性をつかみ、逆に一人一人襲撃をかけて殺すつもりだったのだ。
それを、一気に早く解決できて良いと、武市が提案して今回の運びになったのだった。
「君がこの傘を持って、私に差し掛けてくれ。共に入って行こう」
まさかの言い付けだった。
本来、武士の男子が二人で相傘など、作法が良いとは言えない。
新兵衛とて、そのくらいのことは知っている。
相合傘
あいあいがさ
など、
逢引
あいびき
した町人の男女が
出合茶屋
であいぢゃや
から
後朝
きぬぎぬ
の雨天に、さて困ったなどと
嘯
うそぶ
きながらする、軟弱な
……
。
情人
いろ
同士が、するような、こと。
「駄目です、先生。いくら武市先生のおっしゃる事とはいえ、その、そのような。残りの帰路は危急のことも少ないでしょうし、霊体化してお側に
侍
はべ
ります」
しかし、この半平太という男、言い出したら聞かない頑固なところがある。
「なら私も濡れて帰ろう」
思いの外、軽い調子で、笑みさえ浮かべて美麗な男はさらりと述べた。
それこそ新兵衛が絶対に回避したい事だった。
「それは、なりません、先生が濡れて帰るなど」
「では、君がこの傘を持ってくれ」
武市は傘を持ったまま、主が濡れることも自らが持つことも拒否する新兵衛へと迫る。
二歩、三歩と新兵衛は後ろへ下がる。
これまで眉ひとつ動かさなかった大男の眉尻が、大層こまったというように下がり。
厳しい面で隠しきれないほど、表情が情けなく困惑している。
動揺したままま方向を深く考えず退がったため、新兵衛はたちまち路地を囲む建物の壁面を背に感じる羽目になった。
五人をあっという間に切り捨てた大きな人斬りが、迫る主にジリジリと壁まで追い詰められ。
ついに、その手に無理やり傘を押し付けられ始める。
「田中君、このまま私は番傘から手を離すぞ」
「い、いけません。武市先生」
武市が傘を押し付けようと、手を取る試みからすら腕を逃がしつつ。
拒絶していた新兵衛は、思わず、本当に手放されて落ちそうになる傘の
柄
え
をつかんでしまった。
相手が傘を取った事を確認すると、武市はすぐに満足そうな顔で帰路へ歩き出す。
武市が歩き出すのに釣られるように、新兵衛も歩を進める。
傘を持たされてしまったからには、
添
そ
って移動しなければ主が濡れる。
「ああ、田中君。凍雨に濡れるのは人ならざる身でも堪えるものだ。そうだろう? そんなものは
雅
みやび
ではない。
鴉
からす
とて冬には身を寄せる」
先程までの気迫は嘘だったように所在無くうろたえた様子の人斬りに、矢張り先程までの冷たい視線はなんだったのかと思わせる勤王党の盟主は、愉快だという風に言葉を紡ぐ。
武市は美しく人を寄せ付けがたい堅物かと思えば。
その精神の中身は存外に熱く、柔らかで。
近頃よく二人だけであれば見せるそれに、新兵衛はどう対応していいか分からない。
「もっと寄りなさい田中君、肩が濡れている。それでは寒い。誰も視てなどいないさ」
誰も見てなど、いない。
それはそうだ、見るものがいたなら。
先程の
血腥
ちなまぐさ
さを隠す為に新兵衛は斬らねばならない。
「
……
はい」
誰も見てなどいない。
それに対して答えたのか、身を寄せる事への同意か。
新兵衛自身にすら、はい、という発声の真意は測りかねた。
ただ、この場合、もはや否は選択肢としてすらない。
武市は、身を寄せる同意と取ったようだ。
新兵衛からは一切距離を近づけなかったが、武市はすっと距離を詰めた。
笑顔の吐息すら聞き取れて、息の白さがよく見えるほどの近さへ気兼ねなく近づいた義兄は、彼の義弟へ何事も血腥いことなどなかったと言う調子で微笑を混じらせた声を掛ける。
「帰ったらすぐ、熱い湯を浴びるとしよう」
服の
袖
そで
が触れるか触れないか。
新兵衛は触れないよう気遣って、薄紙のような距離だけ必ず保った。
見目には汚れていないとはいえ、今さっき血濡れになったばかりの己は掠る程度でも触れる訳にはいかないと新兵衛は考えている。
考え、傘を捧げながら、人斬りはすぐ右を歩くひとを見る。
麗しい墨絵に水や血など付けるのはもってのほか。
墨龍が雨に濡れ泣くのは許されざる事だ。
新兵衛の心に、ふと、脈絡なくそんな夢想が浮かんで消えた。
武市の願いに従い身を寄せはしながら、触れ合わず。
ことさら彼の兄分に、新兵衛は傘を差し出すのだった。
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