久々知が数日の実習を終えて忍術学園に辿り着いたのは、深夜が近くなってからだった。消灯時間を過ぎた学園は昼間の活気を失ってひっそりと静まり返っている。かと思えば、吹き荒ぶ風に夜間鍛錬中らしい気配がほのかに混じる。忍術学園のいつも通りの夜だった。
ほとんどの生徒が寝ているだろう下級生の部屋の前を通り、自室へと向かう。起こさないよう、足音を殺して。冷え込む夜だった。月が落ちてから、夜は一層冴え渡っているように感じる。雪は降っていないが、冷たい風は吹く度に久々知の体温を奪っていた。身を縮めて少しでも風に当たる面積を減らそうとしながら、自室への道筋を急ぐ。
「喜八郎」と掲げられた部屋が見えてきたところで、スピードを落としたのはほとんど無意識だった。愛しい恋人に最後に会ったのは実習に出る前日。しばらく顔を合わせていない。寝顔を見るくらいなら。一瞬だけ脳裏に浮かんだ考えをすぐに棄却した。こんな寒い夜に扉を開ければきっとそれだけで起こしてしまう。叶うなら温かい布団で朝までぐっすりと眠っていてほしい。
通り過ぎるつもりで、意識して歩く足を早めた。しかしそれは叶わず、四年い組の部屋の前でひたりと足を止めた。起きている人の気配がする。
耳を澄まし、部屋の中の気配に集中する。健やかな寝息に交じる、僅かな唾を飲む音。どうやら勘違いではなさそうだった。喜八郎が起きているかもしれない。1歩、2歩と扉に近づく。起きているのはひとりで、もうひとりは寝ている。しかし気配だけではそれ以上の情報は得られなかった。
部屋の中でゆっくりと気配が動く。向こうもこちらに気がついたようだった。警戒するようにそっと扉に近づいてくる。
「ごめんね、起こしちゃったかな」
扉の向こうに小さく呼びかける。他の人を起こしてしまわないように、そっと。
「久々知先輩?」
「うん」
返事をすると、すぐに扉が開いた。出てきたのは寝巻きに半纏を羽織った喜八郎だった。吹き込む風にびくりと身体を跳ねさせたが、身を縮こませながらも廊下に出てそわそわと扉を閉める。そのまま流れるように腕を伸ばすので、久々知は慌ててそれを制止した。
「なんでです」
暗くて顔はほとんど見えないが、声色で不服そうな表情が手に取るようにわかる。久々知だってもちろん思いっきり抱きしめたいところなのだが、衝動のままに行動できる程子供ではなかった。
「誰かに見られたら困るだろう」
「こんな時間、誰も来ませんよ」
「帰ったばっかりでまだ風呂も入ってないんだ」
「気にしません」
「汗臭いし埃っぽい」
「構いません。それよりここまで来といて顔も見せずに立ち去ろうなんて薄情が過ぎるんじゃないですか?」
起こしたら申し訳ないと思ったからだったが、言っても喜八郎が納得してくれるとは思わなかった。それ以上言い訳も思いつかず、大人しく喜八郎に手を伸ばす。
分厚い半纏の所為で、いつもの喜八郎とは程遠い感触だった。きっとつい先程まで布団の中で温められていたのだろう、ほかほかと温かい。空風に晒されて冷え切った身体にじんわりと熱が広がっていく。これでは喜八郎が冷えてしまう。ぎゅうっと強く抱きしめて離れようとしたが、察した喜八郎に引き寄せられる。しばらく無言で些細な攻防を繰り広げていたが、やがて久々知の方が諦めた。喜八郎の腕の力が少しだけ緩む。
「実習でしたよね。お怪我はありませんか?」
「そういうのは普通抱きつく前に聞くものだよ」
「どこか痛みますか?」
「大丈夫」
心配するみたいなことを言いながら、喜八郎はちっとも離れる素振りを見せない。なんてことない擦り傷くらいだから実際に心配は無用なのだが、なんだかおかしかった。もう今更気を遣っても豆腐に鎹というもので、喜八郎の頭に頬を寄せる。ふわふわの髪の毛が首筋に当たって擽ったい。
「ああいうの、危ないからやめた方がいいよ」
「ああいうの?」
「誰か来たのに気づいても入ってこないなら寝た振りしてた方がいい。俺だったから良かったけど、曲者だったらどうするつもりだったの?」
「上級生の誰かだとは思ってましたよ」
「どうして?」
「だって、足音は消してるけど気配は消してなかったじゃないですか」
そう言う喜八郎はどこか得意気だ。
確かにその通りだった。先生や上級生ならともかく下級生にまでそれを指摘されるとは思わなかった。たった一学年下なだけの後輩をあんまり見縊ってはいけないようだ。自分や同級生が成長するのと同じように、後輩だって時間を積み重ねた分だけ成長している。
「久々知先輩だったらいいなとは思いましたけど、まさか当たるとは思ってなかったので驚きました」
喜八郎が久々知の首元に額を擦りつける。
「喜八郎も成長したね」
「でしょう?」
喜八郎が顔を上げた。きっとその顔は喜色を滲ませていることだろう。たった今頼もしさを感じたばかりなのに、こういうところはいつまでも可愛くて仕方がない。
気づけば吸い寄せられるようにその唇に口付けていた。離れると喜八郎の視線が刺さるような気がして、なんだか途端に気恥ずかしい気持ちが湧いてくる。さっき「誰かに見られたら困る」なんて言ったのは久々知だ。その視線から逃がれるように、抱きしめた腕を離す。
「冷えるからそろそろ部屋に戻った方がいい」
ただの言い訳だ。多少渋られるかと思ったが、満足したのか喜八郎は意外にもあっさりと離れていった。
「はい、先輩もお疲れでしょう。ゆっくり休んでくださいね」
「うん、ありがとう」
「会えて良かったです」
「俺も」
「明日、会いに行っていいですか」
「うん、待ってる」
あんまりに可愛い発言にまた抱きしめたくなったが、その衝動をぐっと堪える。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
手を振って歩き出す。喜八郎は見送るつもりなのか廊下に立ったままこちらを見つめている。早く部屋の中に入るようハンドサインを送るが、動く気配がない。仕方がないので、来た時と同じようになるべく急いで曲がり角を抜けた。
自分の部屋が見えてきたあたりで、そういえばどうして起きていたのか聞きそびれたことに気がついた。眠れなかったのか、帰りを待っていてくれたのか、たまたま目を覚ましただけだったのか。どれでもいいし、全部違っていてもいい。会えたという事実だけで十分だった。
冬の夜は凍てつくように寒かったが、身体にはまだ、抱きしめた喜八郎の感触が残っている。
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