《十二信》未成立の十二信、かつ十二の片想い。うっかり信一のことを「にぃに」と呼んでしまったために、信一と一緒に真っ赤になってしまった十二のおはなし。十二の過去について捏造あり。ご注意ください。
20数年ほど生きていれば、人には言えない秘密の一つや二つ、誰だって持っているだろう。生死にかかわるような重要なものではないが、気恥ずかしさから隠し通したい過去だ。
十二にもそういう繊細な秘密がある。
九龍城砦に来たばかりの頃の話だ。
まだ10代前半だった十二が龍捲風に連れられてこられた場所は、喧騒にまみれて雑多、仄暗く謎めいている一方、懐が深く、人情に守られているような奇妙なコミュニティであった。
肉体的にも精神的にも危ないところを主管・龍捲風に拾われた。彼の保護の下、ヤクについての体調不良を管理されていた十二は、初期の記憶はあまり鮮明ではない。ただ苦痛ばかりが思い起こされる幼少期だった。クスリに手を出す前も、クスリに手を出した後も、そこから脱出するまでの数年は十二にとって暗闇の時代と言っていい。
十二に用意された部屋で、体の衰弱や発作に耐える日々。世話をするために近づいてくるのは大人ばかりであったが、その中に1人だけ、十二とそう年齢の変わらない少年がいた。
信一だ。
色々な意味でまだ不安定な患者の元にやってくる、大人に混じった子供。当然のことながら、信一は十二が安定を見せたタイミングでしか現れなかった。しかしその異質さは、十二の頭が明瞭な日でも朦朧とした日でも変わらずに存在感を放っていた。さらに信一は、十二が邪険にしようが無視しようが態度を大きく変えず親切であったので、十二が真っ先に懐いていくのは自然な流れであった。
だからであろう。ある日のこと。弱った気力を取り戻すために昼寝をして、夢うつつで目を覚ました。夢と現実と空想が混ざり合い何が真実か分からなくなった時、部屋に信一がいて、十二はその姿をぼんやりと見つめ、つい口から出してしまったのである。
「にぃに」
寝ぼけた混乱によって、城砦に来る前…それも幼い頃まで脳が逆戻りしたのだ。自分の面倒を見てくれることになっている、血の繋がった兄のことを無意識に呼んでいた。長男だけを寵愛する両親から粗雑な扱いを受けていた十二は、他の兄や姉たちから面倒をみて貰っていた。しかし彼らも幼い弟に愛情を示さず、扱いが粗雑であることは変わりなかった。助けを求めても手を振り払われるか、適当に扱われるか。それでも小さな子供が他に頼れる人などいるはずもなく、名前を呼んでは根気よく手を伸ばして、面倒を見てもらうしかない。
十二のやせ細った腕が伸びて、目の前にいる年上の少年の服を力なくひっぱった。
「……にぃに、のどかわいた」
「のど?水しかないかも。ジュースが良いなら買って来なくちゃ」
何でもないことのように、朗らかな声がすぐに返ってきた。毎日聞いていたような不機嫌な声ではなかった。伸ばした手のひらも、十二を安心をさせるかのようにギュっと握ってくれる。思いもよらない反応に、相手を間違えて喋っていた十二は一気に覚醒し、目をこれでもかというほどパッチリとさせた。
「信一」
名前を呼ぶと、信一は機嫌が良さそうな顔をして「うん」と言った。
「のどが渇いたんでしょ?ジュース買ってこようか」
どうしようか?と聞いてくる。十二は幼児のような自分の発言を思い出し、恥ずかしさのあまり体をカッと熱くさせた。動揺で心臓が鳴り始め、でも発言を自ら蒸し返す勇気もない。口をモゴモゴとさせたまま困っていると、信一が十二の腕をひっぱって体をベッドから起こした。それからニッコリと笑うと、十二のボサボサの髪を優しく撫でる。とても丁寧に触れる手のひらの優しさに十二の気持ちが落ち着いてきた頃、信一はもう一度繰り返した。
「何が飲みたいの?十二」
「……水がいい」
呼んだら返事をしてくれて、怒るどころか笑って頭を撫でてくれる不可思議な存在を、十二は穴が空くほど見つめ、やがて小さな声で答えた。水にこだわりはなかった。あったのはジュースを選べば信一が部屋から出て行ってしまう、という寂しさだ。
信一は「分かった」と言って立ち上がり、龍兄貴が数時間前に置いていった水差しからコップへと水を注いだ。すぐに戻ってくると「はい」と言って渡す。
十二がゆっくりと水を飲み干すのを、信一はニコニコしながら見守っていた。コップが空になってしまうと、信一が十二の隣に座って、肩へと腕を回してから抱き寄せるようにひっついた。左肩と右肩、それから横並びになった頭がコツン、と触れ合う。
「いいよ」と信一は言った。
「信仔が十二の兄ちゃんになってあげる」
その言葉の衝撃を、十二は成人を過ぎた『今』でも強烈に覚えている。信一の真っすぐな好意を真正面から受けた十二が感じたことは、温かさや切なさを引き起こすような情緒的なもの以上に、むしろ激しく沸き立つ執着心と苛烈なほど欲が満たされる昂揚だった。
おれの。
真っ先に浮かんだ言葉は「おれの」だ。
焦がれていたもの。差し出した手を掴んでくれる、自分を苛めたり煙たがったりしない、一緒にいてくれるという、少し年上の男の子。愛してくれる、兄。
おれの、兄ちゃん。
それ以降、信一は十二に対してより気を配り、より耳を傾けた。十二にとって信一を兄と呼ぶことはいたって繊細な行為だった。2人きりの時にだけ十二はそう呼んで、その度に幼い信一は幼い十二を抱き寄せて「どうしたの?にぃにに言ってごらん」と応える。そうして十二は誰かに『甘える』ということを学んだのだ。
『兄弟』でいる時はいつだって愛しい時間だったが、十二は他人がいる前で信一を「にぃに」と呼んだことは一度も無かった。十二が呼ばなければ信一が反応することもない。龍兄貴の前でさえ呼ばなかったし、教えたりもしなかった。「おれの」という独占欲に染まった欲望を満たすには、他の全ての介入を禁じる必要があったからだ。
賢い十二は本当は信一が「おれの」でないことをきちんと理解していた。だから信一が「おれの」であるような儚くも貴重な時間は、大切に守られるべきだと思ったのだ。
これは十二と信一の秘密だ。
悪いことをしているわけではない。他人から見れば隠す必要のない些細なこと。しかし十二の繊細さを守ろうと、十二だけでなく信一も暗黙の了解のように喋らなかった。
そうなのだ。だから口にするには慎重に場を選ばなければならないのだ。
それに十二が信一を「にぃに」と呼んでいたのは、実は1年間ほどの短い期間だった。
もう10年くらいは呼んでいなかったというのに。
それにも関わらず、十二が今さらになってポロリと口から溢してしまったのは、本当に『魔がさした』としか言いようがなかった。
珍しく風邪ひいて病み上がりの状態だったためとか、信一に1対1で会計の勉強を教えてもらっている最中だったからとか、集中がついに途切れた瞬間であったとか……とにかく十二の脳が変なバグを起こしたのだ。阿七冰室でノートを開いていた十二は計算に躓いて「あー!分かんねぇ~」とイライラしながら吠えた。そうして。
「にぃに助けて」
十二の声が異様なほど響き渡ってしまった。
悲劇であることは、阿七冰室は多くの客で賑わっていたというのに、どうしてかあらゆるところの会話がひと段落を迎えて奇跡のような間が重なり、ちょうど数秒の静寂が生まれたことだった。そこに十二の発言が神さまの悪戯のように差し込まれて、あろうことか部屋の隅々、天井にまでも届いたのである。
そのうえ十二のノー天気極まりない兄は、状況に全く気がつかずに昔の調子で声を上げたのだ。
「もぉ~、何が分からねぇの?にぃにに貸してみ」
信一は言った後に「あん?」と不思議そうに首を傾げた。自分の発言にではない。十二が口をあんぐり開けたまま固まっていることを不審に思ったからだった。「え、何なの。キモいんだけど」と辛辣な言葉を放った後、ハッとして目を点にする。
「え?俺、今、自分のこと”にぃに”って言った?」
信一がギギギギとブリキ音が鳴りそうなくらいにぎこちなく首を動かす。マヌケな顔を晒して十二を見た。相手の動揺を受けた十二が、全身を可哀想なくらいに真っ赤に染める。
しかも場は2人を見守るように静まり返ったまま。
四方八方からの視線が痛い。
信一が怖ろしい今の状況を理解して、瞬く間に十二と同じくらいに真っ赤に染まり上がった。
信一と十二がふざけあって喋っている。そう脳内処理をしかけた阿七冰室にいる一同は、2人の青年があまりにも動揺して、ついぞ黙ったまま全身茹蛸になってしまったので、一斉に正しく理解をした。
あ、こいつら、マジじゃん。
何も悪いことをしている人間はいない。しかし何故だか最大級に気まずい心地が阿七冰室全体を包み込む。
信一と十二に兄弟を示すようなあだ名があっても、何の違和感はない。例え20歳半ばの成人男性が幼児みたいな呼び方をしたとして、例えばうっかり学校の先生を「ママ」と呼んでしまった時のような言い間違いにすぎないだろう。笑って軽く受け流せばいいようなレベルで、それほど引っかかるようなことではない、が。
それでもシーンと静まり返った場の変な空気が、時間さえ止めてしまったようだった。何より件の2人があまりも居たたまれないような形相で絶望しているために、どう場を混ぜっ返せばよいのか、みんなで窮してしまったのだ。
「……………」
大人たちが揃って困り果てた時。
「かわいい!」
鈴の音が鳴るように、凛として明るい声が弾んだ。
阿七冰室にいる一同の視線が声の主へと動く。椅子にお行儀よく座って楽しそうに笑っている魚蛋小妹が、ちょうど彼女の隣に立って心配そうに十二と信一を見ていた洛軍の服を、クイっと摘まんだところであった。ホールバイトをしていた洛軍が魚蛋小妹を見下ろすと、丸い瞳を期待するようにキラキラとさせた魚蛋小妹が言う。
「ねぇ、洛軍もあたしのこと”ねぇね”って呼んでも良いよ」
「うぉおおお、魚蛋小妹ストップッ」
可愛らしい提案に思わずフフ、と笑った洛軍が返事を返す前に、フリーズを溶かした信一が思わず声を上げた。
「どうして?」
「それ城砦に一気に広まって余計な尾びれ話もついて、えらいことになりそうぉ」
キョトンとする魚蛋小妹に、信一がまだ耳まで赤くして涙目のまま「言わないでぇ」と情けない声を出す。「あらぁ」と魚蛋小妹と洛軍が顔を見合わせる後ろの席で、これもまた数少ない、この場の雰囲気に呑まれていなかったうちの1人である四仔が口を開いた。マスクから覗いている静けさを漂わせた瞳に、ほんの少し面白がっている色を見出した信一が顔を顰めた。四仔は口元にも微かに意地悪めいた笑みを浮かべる。
「おい、にぃに。どうでもいいが後20分でその勉強会を終わらせろ。横のヤツに車で荷物を取りに行かせる約束をとりつけている。時間厳守だ」
「あ、てめっ。言うなって言ってんじゃん!お前はバカにしてんだろ四仔」
ぎゃん!と信一が目を吊り上げて主張しても、その抗議にどこ吹く風の顔を四仔がする。また違うテーブルから信一の部下たちが声をあげた。
「にぃに、俺たちもあと30分で見周りの時間ですよ」
「にぃに、今日は4つくらい既に苦情きてる。」
「にぃに、配線が切れてるだの、雨漏りしてるだの、配管詰まってんだの、大盛況」
「OK分かった。お前ら全員ツラかせ。まとめて雨漏りの隙間に詰めてやんよ。言っとくけど俺はお前らの”にぃに”では断じてねぇからな!?」
「ふふ、そうだよな。十二の、だもんな」
「ちょっ洛軍、その微笑ましいものを見るような慈愛に満ちた瞳、止めてくれる!?」
そういうこっちゃねぇんだよ、と返された洛軍が「そうなのか?」と不思議そうに首を傾げる。「いや……確かにそういうことだけどさ」とモニョモニョと歯切れ悪くした信一は、どこからか視線を感じてそちらの方に顔を向けた。
いつもと同じように穏やかな様子で席に座っている、龍兄貴と目が合った。やけに真摯に見つめてくるのが逆に胡散臭く、信一はジト目を親愛なる兄に向けた。
「......え、何なの兄貴。怖いんだけど」
「にぃに、実は今このジャケットから3枚のレシートがだな」
「~~~~~!!俺の”にぃに”がアンタでしょうがっ!!!!」
っていうか、そのポケットに入ってるモン全部出せぇ!俺が今、十二の隣で何してるか分かってんの!?月締めの帳簿ですけど!?!?このどさくさに紛れて誤魔化そうとしてんじゃねぇぞ、兄貴ぃい!!
目くじらを立てた信一が、席から飛び上がるように立ち上がったところで、周りの客たちは一斉にゲラゲラと笑ってグループで和やかに歓談を始めた。気まずかった雰囲気は霧散して、いつもの阿七冰室の空気が戻ってくる。
ただ一人、十二はやっと(ああああ…)と眩暈を起こしながら顔を両手で抑えた。
(やらかした…)
どうして言ってしまったのか。あの頃は随分と繊細な気持ちを持って横の男を「兄」と呼んでいたはずなのに、軽はずむように出てしまうとは。おかげで信一が一段と騒がしい。
信一が十二をかばっているのは分かっていた。注目を自分に向けるために、わざとらしいハイテンションな行動をとっているということを。この男は十二がすぐに「にぃに」と呼ばなくなったとは言え、いつだってほんの少し、お兄ちゃんらしい振る舞いをしようとするのだ。
それはやっぱり、今でも十二の心の柔らかい部分を甘く刺激するし、優しく包んでしまう。そしてそれ以上に激しい執着心や高揚を呼び覚ますし、感情の根深さを増幅させるのだ。
十二は大きくため息をつくと、龍兄貴に向かってキャンキャンと小言を吠えている信一の服を小さく引っ張った。パタリ、と信一が止まって十二の方を見る。
「なぁ……だからココ分かんねぇって…、にぃに」
「……あら、開き直った」
言ったのは信一だったが、周りの人間もみな同じように聞き取り、そうしてもう興味はないというように聞き流した。十二をマジマジと見つめた信一だけは「ふむ」と一息つくと、急に大人しくなってストンと椅子に座り直した。
阿七冰室はもう完全にいつもの賑やかさを取り戻していた。信一は昔のように十二の肩へと腕を回してからグイっと抱き寄せるようにひっついた。左肩と右肩、それから横並びになった頭がコツン、と触れ合う。
「だからぁ」
信一が何事もなかったかのようにノートに書かれた数式を解説しはじめる。十二は成すがままになって、ノートを覗き込むフリをしながら懐かしい体勢や仕草に気持ちを高ぶらせた。
おれの。
今だって十二はそう静かに心に唱える。
しかし初めて思った頃とは「おれの」への意味合いは変化していた。
十二がすぐに信一を『にぃに』と呼ばなくなったのは、欲しかった存在を得て満足したからではなかった。数か月過ごしただけで、十二は弟という立場だけでは満足できなくなってしまったのだ。
手を引かれるのではなくて対等な存在として隣に立ちたい。支えられるだけではなく、支えたい。肩を並べてずっと一緒に歩んで行く。自分がいて、言葉を交わして、触れ合って、そうしたら信一がずっと笑っていられるような、そういう男になりたいと。
優しい兄弟への渇望は、いつしかひたむきな恋心へと移り変わった。初恋は暗闇の時代にいた十二を大きく奮い立たせ、努力と芯の折れない心を育んでいった。
「おい、聞いてるのかよ」
「聞いてるよ」
十二の反応が悪いので、信一が拗ねたような顔をする。
顔は真横。ひっつく体。人よりこんなに距離が近いのに、信一は十二の恋心など全く気がつかずに、本人としては憧れであったらしい『お兄ちゃん』でいようとし続ける。時折、四仔あたりに「お前らの距離感はオカシイ」と指摘されるような振る舞いを「まぁ、俺たちだし。幼馴染だからさ。兄弟みたいなもん」の言葉のみで片づけるような始末だ。
でも十二は焦ってはいない。
虎視眈々と狙うのは得意な方だ。信一のことは龍兄貴と並ぶくらいに理解している自負もある。自惚れという人もいるかもしれないが、あの過保護な義父に認めてもらうにはそれくらいの気概が必要だ。
「俺のこと見すぎだろ」
信一がボールペンの先っぽでパシリと十二の額を叩く。「イテッ」と痛がるフリをして十二が顔を寄せれば、信一が逃げることもなく「どうした?」と明るく笑う。唇なんていつだって奪える距離だ。それなのに危機感もなく信一は首を傾げるだけ。
「なんか、懐かしいって思ってさ」
「そうだな」
「秘密にしてたのに、自分で言っちまった」
「十二が良いなら良い。まぁ誰も気にしねぇよ。今や昔が、変わるわけでもない」
「そうだよな」
十二はニッコリと目を細めて、信一に同意した。
その通りだ。
今と昔。
意味合いは変っても、ずっと心に抱える言葉は変ってない。真っ先に浮かんだ言葉がブレたことは一度も無いのだ。
おれの。
おれの、信一。
信一へ手を伸ばせば、手を握り返してくることを十二は知っている。信一は十二から逃げたりはしない。今も近くで無邪気に笑っている、兄のような幼馴染み。
子供の頃から賢かった十二は本当は信一が「おれの」でないことをきちんと理解していた。
しかし十二は、それがいつか真実になることについては。
今まで一度も疑ったことはないのだ。
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