暗闇を歩いていた。空があるはずの方向を見ても、星の光は一切見えなかったので、おそらくどんよりと曇っているか夜空の下ではないのだろう。
掲げるべき明かりもなく、いつも連れ立っているはずの鳥もいない。いつも一緒にいたはずなのに、どうしてか名前も姿もよく思い出せなかった。
明かりがないのは心細いものの、決して致命的な状況ではない。理由は自分にもはっきりしなかったが、どこを避けて歩けば躓かずに済むのかがなんとなく分かっていたからだ。だから、安全な場所を選んで自分は――はて、自分とは何だったか――歩みを進めていく。
ここはこんなに寒々としているように思うのに、不思議と暑くも寒くもない。痛くも辛くもなくて、ただただ何もないだけだった。
どこに向かっているかも分からぬまま、ただ留まってはいけない事だけは分かっていた。おそらく、引き返すことも許されないだろう。ひたすらに真っ暗なそこを歩くうちに、ふと気がつけば青い明かりがぽつりと遠くに見える。
あの光の色を、たしかに見た事があった。通るべきと感じる経路とは違うように思えたが、その光を確かめたくなって足を進める方向を変える。そうすると足元に何かがまとわりつくような感覚がして、一気に歩きづらくなった。
「こんな夜分にどうしたのですか、イルーガ坊ちゃま」
「……フリンズさん」
明かりを手にしていた者の顔が見えるようになったと思ったら、不思議そうに挨拶をされた。反射的に零れた言葉を自身の耳で聞いてから、彼がフリンズと呼ばれる男だと思い出す。
ええと、たしかキリル・チュードミロヴィッチ・フリンズ。ほとんど家名でしか呼ばないので、よくミドルネームまで思い出せたものだ。定期的に受け取る報告書のサインが名前を省略する形式であったなら、曖昧な覚え方をしてしまっていたかもしれない。
そうして彼に呼ばれたのが呼び水になったように、自分が誰であったのかもはっきりと思い出す。自分はイルーガと呼ばれており、未だに姿が見えない頼れる相棒の名はアドンという。
「気がついたらここを歩いていて。夜なんですね」
「ええ、星空が見えるでしょう。なかなか見事なものですよ」
「……本当だ」
そんなまさかと訝しみながら彼が視線で示す方角を見上げれば、真っ暗闇にぱらぱらと光源を散らしたような星空が見えた。さっきは真っ暗で何もなかったはずなのに。
「あの、アドンは見ませんでしたか?」
「あなたがここに連れてこなかったのでは?」
「そう……そうなんでしょうか」
少なくとも僕は見ていませんよとフリンズが言うので、なんとなくそんな気がしてきてしまった。アドンだってこんなところに連れてこられてしまっても困るだろうから、結果的には良かったのかもしれない。
「こんなところにいるのもなんですから、少し歩きましょうか」
「そっちなんですか?」
「ええ、行くなら向こうが良いですよ。ちゃんと道もありますし」
イルーガが進むべきと思っていた方向とは別の方角を示されて少々渋る声を上げてしまったが、たしかに彼が示した先には人が踏み固めた道ができていた。イルーガが進もうとした先には何もなく、彼の意志を曲げるに足る材料はないらしい。
フリンズの誘いを受け入れて歩く間、珍しくフリンズはあれやこれやと話しかけてはこなかった。久々に会えば最近はどうしていたのかくらいは挨拶代わりに尋ねてくれていたというのに、今夜に限っては今までどうしていたのかすら訊いてきてくれない。
「こんなところにいると、何年も前の事を思い出します」
沈黙に堪えかねたわけではなかったが、イルーガは自分から口を開くことにした。正確に言うと、十年以上と三年以上前の事である。
闇夜を一人、いや、どちらかは夜ではなかったかもしれないがイルーガはどちらもそう記憶している。初めて一人になった時にそんなことがあったかも分からないが、自分は走っていたはずだった。あの時の自分に何があったか証言してくれる人はもうどこにもいないし、自分の記憶はまったく信用できない。
その何一つ確かでない記憶の中で、イルーガはただ一人駆けていた。その行動がどんな結末に辿り着くかも分からないまま。
「どうして僕が生き残ったんでしょう」
「あなたのような経験をした人間がそう思うのは決して珍しい事ではないらしいですよ」
青い明かりを掲げてイルーガの歩幅に合わせてゆったりと歩きながら、フリンズがあっさりとした口調で指摘する。きっとそうだろう、少なくともナド・クライの地において生き残りという身分はそう珍しいものではない。ありきたりな悲劇に、足やら服の裾やらを長らく引っ張られている自覚はイルーガにもあった。
「サバイバーズ・ギルトですよね」
沈黙は肯定ということなのか、隣にいるせいでイルーガが彼の相槌を見落としてしまっただけなのかはよく分からなかった。ただ、彼がこの言葉を知らないはずがなかろうと思う。
イルーガだってこの苦悩を見て見ぬふりをしてきたわけではないのだ。だから、自分が感じている罪悪感と焦燥に名前が与えられて、知識としてラベリングされていることを知っている。
あの状況で誰が死んでもおかしくはなかったし、誰が生き残っても不思議ではなかった。偶然イルーガがその立場に収まっただけにすぎず、それ以上の意味はどこにもない。
もし、生き残りという言葉に特別な意味が与えられるものがあるならば、それは自身の今までとこれからの働きと成果のみである。そこまで理解していたとしても、割り切るのは難しかった。
青い炎でも照らせない暗闇を見ながら、もし自分があの時死んでいたらと飽きるほど繰り返した問いを自身に投げかける。
「坊ちゃまの命にそんな大層な価値はありませんよ」
「――……」
自分は今、思いを吐露してしまっていただろうか。急に告げられた暴言に近い言葉に、イルーガは思わず目を丸めて立ち止まってしまう。
「あなたが死んだとして、代わりに誰かが生き残る事はなかったでしょう。報告書に書かれるあなたの名前の位置が変わったに過ぎません。それは今も変わらない」
「……それは聞き捨てなりません。たしかに僕は武力においては君に譲りますが、それでも分隊長の身分をいただいています。僕はその評価を正しく認識しているつもりですし、そうでなくとも分隊長が死ねば指揮が乱れてより多くの者を危険に晒し、死者を増やすかもしれません」
続く言葉選びだけは丁寧な発言に黙っていられなくなって口を挟めば、フリンズはどこか楽しそうに口角を持ち上げて見せた。
「はい、その認識は正しいと僕も思います」
「だったら――」
「あなたが死ねば死ぬ命はあるかもしれません。けれどその逆、あなたが死ねば助かる命などありません。あなたの命が損なわれる事自体に一切の価値はなく、そこにはただ取り返しの付かない損害しかないのです」
イルーガの発言を遮りながら続けたフリンズの手には青い炎がちらちらと踊っている。フリンズの発声に使う息に合わせて揺らぐようなそれに照らされながら、イルーガは彼のはっきりと断定された言葉を咀嚼した。
人の死には価値がない。それは目の前で死んでいった者のものもイルーガのそれも等しく同等に。
あの時自分が別の選択をして死んでいたとしても、きっと何も起きなかった。きっとフリンズの言う通り何かを成し遂げ、他者に影響を及ぼす事などできはしなかったのだろう。不思議と今夜はすんなりとその事実を受け入れる事ができた。
「さて、そろそろ帰りませんか」
「帰る? どうやってですか?」
そもそもどこに、と考えてイルーガはここにいる前にどこにいたのかも思い出せないことに気がついた。そこでアドンが待ってくれているのなら、随分と可哀想な事をしてしまっている。
「坊ちゃまが分かるようになるまで一緒に行きましょう。はぐれないように手をどうぞ」
さすがに子供扱いが過ぎると思ったが、この場所の事が全く分かっていないのは間違いないので、今回はフリンズの誘いに乗ることにする。恭しく差し出されたそれを手に取ると、フリンズはやはりイルーガの歩幅を意識した調子で歩き始めた。
お互い手袋をつけたままだったので彼の体温は伝わってこないものの、ごわついた生地越しに肉と骨の感触を微かに感じる。最初はフリンズばかりが握ってくれていた手を途中から握り返し、彼が向かっている何も見えない暗闇に目を凝らす。
再び沈黙を保って半歩前を進んでいたフリンズがぴたりと足を止めたので、イルーガは慌てて立ち止まり彼の様子を窺った。そうすると、彼もまたイルーガをじっと見つめている。
「……少し足りないかもしれません」
「え、何が――」
それから妙な事を言ったと思ったら、口を塞がれてよろめきそうになったところを繋いでいた手を引かれて留められる。せめて口を閉じなければと思った瞬間に何かが入り込んできて、くぐもった声を上げてしまった。
喉を撫でられて反射的にごくりとその何かを飲み下すと、満足したのかようやく彼の唇が離れていき――
視界の端に青い炎が見えた気がした。そう認識し終わる前に鮮烈な痛みが胴から全身に走り抜けて行き、イルーガは声になりきらない悲鳴を上げる。悲鳴が上がらなかったのは抑えたのではなく、そもそも必要な息を確保できていなかったのだ。
喘ぎながら肺を膨らませようとすると、骨が不自然に動くような感覚があり意識が遠のきかける。それでも意識を飛ばすわけには行くまいと、イルーガは霞んだ視界に映る個室で人の姿を探した。
「ようやく起きましたね。よかった」
「……ぼく、たち」
喉をほとんど震わせられない声だったが、フリンズはイルーガが喋りたいと気がついたらしい。イルーガに都合の良い事に、彼は大怪我をした人間が喋り続けるのを良しとしたようだった。
「さっき、はなして」
「話を? きっと夢を見ていらっしゃったのでしょう。先ほどまで坊ちゃまは意識不明のままだったんですから」
本当に不思議そうに彼が首を傾げた気配があったあと、言われてみれば当然の説明をフリンズから受ける。
ああ、そうだ。自分はあの時。肋骨の骨折の数はぎりぎり呼吸ができる範囲で収まったが、出血が酷かった事を覚えている。我ながらよく意識を取り戻したものだ。
「ゆめのきみ」
「ええ」
「いつもより、いじわるだった……ような」
夢の内容は全く思い出せなかったが、不思議とそんな印象が残っていた。はっきりとは見えなかったもののフリンズは目を丸めて、それから少し笑ったらしい。
「そんな夢が見られるなら大丈夫そうですね。では医者を呼んできますから、頑張って起きていてくださいね」
そう言ってフリンズは体にいらぬ刺激を与えぬように前髪をわずかに擦る程度に触れて、イルーガから了解を受け取ると廊下に出て行った。そうすれば、再び痛みばかりに意識が持っていかれるようになってしまう。
ゆっくりと息をついて引き攣りそうになる体から力を逃しつつ、イルーガは天井に視線をやった。死ななくて良かった。死んでしまう事に、価値などないのだから。
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