Ca(か)
2026-01-23 23:31:00
6784文字
Public haikaveh SS
 

きみに届く挽歌・2 (一途な鳥の話・改題)

九歳のアルハイゼンと祖母が過ごす、とある年末の話


 うん、完璧だ。
 丹念な拭き掃除の甲斐あって、きゅっと小気味良い音がするようになった窓を見上げながら、九歳のアルハイゼンは達成感に胸をむんとふくらませた。
 十二月も半ばの今日は、祖母と話し合った窓掃除の日だ。リビングや廊下、自室、玄関の小さな覗き窓もぴかぴかに磨いて、新年最初の朝日をきれいなまま家に迎え入れようと朝からせっせと頑張っている。残るは一枚、廊下の突き当たりの窓だ。アルハイゼンは濡れ雑巾を引っ掛けたぬるま湯入りのバケツと乾拭き用のクロス、それから穂の短い小箒を手に廊下をずんずん進んだ。
 リビングの柱に掛けられたカレンダーには、祖母とアルハイゼンがふたりで話し合って決めた掃除の予定が書き込まれている。老人と子どもの生活に無理は禁物で、あらかじめ決めた場所のみを午前中に掃除する約束だ。とは言えもうまるきり子どもというわけでもないのだし、一箇所だけと言わず二箇所、いや三箇所だって頑張れるのにとアルハイゼンは思っている。けれど祖母はそんなアルハイゼンをなだめ、一日一箇所という決まりを今年も譲らないのだった。

「俺、もうそんなに小さくないよ。それともお祖母様は、俺のことがまだ頼りない?」

 不服さが滲んだアルハイゼンの言葉に、「そうじゃないのよ」と祖母は小さく笑って首を振った。

「そんなに心配しなくても、あなたはもうじゅうぶん頼もしいわ。でもね、いろんなことを一息に片付けられるのもすごいことだけれど、ひとつのことを長い期間、じっくりやり続けられることも同じくらいすごいことなのよ」

 それにね――……
 頭の中で祖母の言葉を反芻しながら、アルハイゼンは小箒を窓の木枠にそっと当てた。

 さか、さか、さか。
 やわらかな穂がわずかにしなって、細かな砂を掻き出していく。窓の掃除をするときにはいきなりガラスを磨くのではなく、まず木枠のほこりを払うことからはじめるようにと、アルハイゼンが教わったのは昨年のことだ。木目の流れをよく見て、それに逆らわないように優しく穂を当てたら、あとは力を入れずにそっと払う。汚れを根こそぎ取ってやろうとガシガシこすってしまうと、木枠を傷めてしまううえに却って汚れを押し込むことになるので、けしてやってはいけないというのが祖母の教えだ。
 雑巾をぬるま湯にくぐらせて、ぎゅうぎゅうと固く絞ってから木枠を拭く。届きにくい隅のほうは雑巾の角の部分で拭い、水分が染み込んでしまわないうちにすぐに乾拭きする。木枠がわずかに湿って雨の日のような匂いがするのをすんと嗅いで――うん、上出来だ。アルハイゼンはひとつ頷き、今度は窓拭き用の雑巾をじゃぶじゃぶ濡らした。
 祖母の教えはとても丁寧だ。長い人生で培われた学びを、彼女は惜しげもなくアルハイゼンに授けた。けれどもすべてを真似する必要はないとも言った。なぜそうするのか、あるいはそうしないのかをわかっていれば、やり方が多少違っていてもいい。その試行錯誤の先にこそアルハイゼンだけの人生があるのだと言って、祖母はアルハイゼンの頭を撫でた。
 自分だけの人生。
 九歳のアルハイゼンには、人生なんて壮大な言葉を言われてもピンとこない。祖母のように年を重ねればゆくゆくは重く、深みのある言葉になるのかもしれないけれど、今のアルハイゼンにとってはなにもかも遠くて、自分ごとには思えない言葉だった。それでも祖母の言わんとすることはなんとなくわかった気がしたので、アルハイゼンはこくりと頷くことにしたのだった。
 
「まあ、とってもきれいになったわね」

 振り向くと、キッチンから出てきた祖母が小さく拍手をしながら廊下の窓を見ていた。

「窓がこんなにきれいだと、新年がますます待ち遠しくなるわ」
「お祖母様から見て、これは合格?」

 磨き終わった窓を指してアルハイゼンが訊いたので、祖母はどれどれ、と窓に歩み寄った。木枠に触れ、ガラスの隅に目をやり、それからすん、と小さく匂いを吸い込んで、祖母はにっこり頷いた。

「うん、木枠の毛羽立ちもない、水の吹き残しもない。文句なしの合格よ」

 やった。
 ……と、心が弾んだ拍子に、アルハイゼンのお腹がぐぐぅと鳴った。慌てて手で抑えるも時すでに遅し。祖母はそんなアルハイゼンに、こんなに頑張ったんだもの、お腹も空いちゃうわと目尻のしわを深くした。

「疲れたでしょう。換気のために窓を開けたら、そろそろお昼にしましょうか」


 手を洗って食卓に向かうと、ふわんと食欲をそそる匂いが鼻に届いた。トマトとスパイスの香りが引き立つ、祖母お手製のコシャリだ。
 祖母と向かい合ってから座り、手を合わせたあと、アルハイゼンは手元の木匙をコシャリに差し入れた。汁気を好まないアルハイゼンのために祖母が工夫してくれた、濃厚なトマトソースがほろりと崩れて匙に載る。粒立った米とマカロニも合わせてすくい取り、アルハイゼンは湯気が立ちのぼるひとくち目をぱくんと口に入れた。
 ――ああ、やっぱりおいしい。
 トマトソースの甘酸っぱさに刺激されて、ほっぺたがきゅうっと痛む。唾液がじわっと湧いてきて、なおもぐうぐう鳴るお腹が早くよこせと急かすなか、アルハイゼンはもぐもぐとしっかり咀嚼する。これも祖母の教えだった。
 すこし固めに炊かれた米と、ソースの絡んだマカロニ。そこにほくほくのツルツル豆が合わさって、もりもり噛むほどに旨味が増していく。キッチンに並べられたスパイス瓶のうちどれを使えばこの味になるのかわからないけれど、入っていないはずの肉の気配までするのだから、料理というものはほんとうに不思議だと思う。

「どう、アルハイゼン? おいしい?」
「うん。お祖母様のコシャリ、好きだよ」

 それはよかった、と祖母は微笑んだ。

「お昼からはなにをするの?」
「父さんの本棚に面白そうなのがあったから、それを読むつもり」
「じゃあ、お茶を淹れておきましょうか。ポットに入れておくからいいときに飲んでね」

 うん、と頷いたあと、アルハイゼンはふたくち目をはぐっと頬張った。よく掃除をしたからか、今日はいつもよりたくさんお腹が空いている気がする。それを見越してかアルハイゼンの皿のコシャリはこんもりと小山のように盛られていて、しかし向かいの祖母の皿に盛られたコシャリはなだらかな丘のようだった。
 祖母がしずしずとコシャリの丘に匙を差し入れ、ゆっくりと口に運んでいく。そのひとくちの大きさはアルハイゼンの半分ほどしかなかった。

「お祖母様はそれだけで足りるの?」
「大人になるとたくさん食べなくてもよくなるのよ。アルハイゼンはまだこれからうんと大きくならなくちゃいけないから、たっぷり食べておかないとね」
「うん。今年は身長が五センチ伸びたよ」
「まあ、五センチ! どうりで踏み台がいらなくなるわけだわ」

 私のこともそのうち追い越しちゃうわね、と祖母は目を細め、ほんのすこしのひとくちをまた口に運んだ。小鳥がついばむみたいなその小さなひとくちを見送ってから、アルハイゼンは大きくすくったコシャリをまた頬張った。

 祖母は年々、すこしずつ小さくなっている。
 自分が大きくなっているからそう見える、というだけではない。もともと小柄な人ではあったが、近頃は背中が丸くなり、肩幅も狭くなって華奢さがより目立つようになった。刻々と皺が刻まれた手は今も器用にいろんなものを作るけれど、力の強さという部分だけで言えばもう、アルハイゼンのほうがずっと強い。
 ――あとどれだけ、こうしていられるのだろう。
 これまで何度も考えたことを、祖母の料理を頬張りながらアルハイゼンはまた考える。
 向かい合って食事をすること。
 他愛のない会話をして笑いあうこと。
 おはようとおやすみを繰り返して、慎ましく一年を過ごすこと。
 そんな当たり前の日々は、いつかそう遠くない将来、当たり前ではなくなってしまう。
 アルハイゼンが両親を亡くしたのはずっとずっと幼い頃で、顔も声すらも覚えていない。こうだった気がする、という印象はないでもないけれど、その記憶はなにか薄い膜のようなものに隔てられた向こう側にあって、結局どうだったかはわからないままだ。
 それでもアルハイゼンが今日まで淋しさを感じずに毎日を過ごし、自信を持って自分の道を選ぶことができているのは、祖母が自分を深く愛し育ててくれたおかげだった。
 けれどこの生活にも、いつか終わりがやってくる。
 明確にいつとは知らされない別れの日は、それでもいろいろなかたちで、その訪れを予感させている。

 昨年の大掃除で廊下の窓拭きを担当していたのは祖母だった。
 昨年の祖母はまだ、窓の上にも手を伸ばすことができた。けれど今年はあまり長い時間腕を上げているのが辛くなってきたようで、今回はアルハイゼンが引き受けることになったのだった。
 ほかにも、天井のくもの巣取りや、布団干し、絨毯を洗うこともすこしずつアルハイゼンの仕事に変わっていった。もちろん黙って弱っていくばかりの祖母ではないので、廊下の雑巾がけは今年もてきぱきとこなしていたし、保冷庫の掃除はまるごと祖母が担当した。高齢で無理のきかない身体だからこそ、積み上げられた経験で無駄なく動くことが大切なのだと言う祖母は、まだまだやれるわよと茶目っ気を出してはにかんでいた。そんな祖母を見て、アルハイゼンはいつもすこしだけ安堵するのだった。
 それでも来年は、きっともっと役目が変わる。
 アルハイゼンのできることが増え、反対に祖母のできなくなることが増えていく。
 それは自然の摂理であり、自分たちだけが特別に強いられているものではない。
 でも、だからといって――仕方がない、とすんなり飲み込めるものでもない。
 
 ――いろんなことを一息に片付けられるのもすごいことだけれど、ひとつのことを長い期間、じっくりやり続けられることも同じくらいすごいことなのよ。
 アルハイゼンの脳裏にまた、祖母の言葉がよぎる。
 子ども扱いをされているように感じて、むっつりと拗ねた自分の頭を撫でながら、祖母はそれにね――と、言葉を続けた。
 ――人はいつでもいつまでも、同じだけ頑張れるわけではないの。だから息切れをして倒れてしまわないために、昨日よりも頑張れないときも、あるいは無性に力が有り余るときも、今をおろそかにしないでいられるだけの余裕が必要なのよ。
 
 祖母のひとさじは一年前よりも小さい。その光景に、アルハイゼンはまばたきひとつぶんの静かな気づきを得た。
 あの言葉はきっと自分に向けただけではなく、祖母が自身に向けた言葉でもあったのだ。
 昨日よりも頑張れない身体。いくら気持ちは元気でも、肉体は別だ。祖母はこれまでの生活でも、アルハイゼンに見せてこなかっただけで、日ごと老いゆく自分の身体をもどかしく思うことがあったのかもしれない。
 けれど彼女は選んだのだ。できなくなったことを嘆くより、今できることをおろそかにしないで、この生活を丁寧に続けていくことを。
 ――俺にはなにができるだろう。
 コシャリの山を崩しながらアルハイゼンは考える。
 日々の暮らしのなかでもたらされる祖母の教えは、自分を生かすものだ。掃除や洗濯だけでなく、野菜や肉の選び方、お金の管理の方法まで、アルハイゼンがこれから生きるうえで困らないための知恵を祖母は惜しみなく授けた。自分がいなくても――という言葉こそ口にしなかったが、彼女がそのつもりで知恵を託してくれていることはアルハイゼンもわかっていた。
 自分亡き後も孫が困らないように、健やかに生きていけるようにと願ってくれている。
 そんな彼女に、彼女がもたらすこの時間に、自分はなにができるだろう。

 献身?
 奉仕?
 ――いや、そうじゃない。
 自分がしたいのは、するべきなのは、そんなふうにあからさまに「してあげる」ようなものではない。
 もっと祖母が愛するもののような、シンプルで、飾らない――ありのままのかたちをしたなにかだ。
 けれどその曖昧ななにかは、もうずっとはっきり見えないままだった。

――ゼン。アルハイゼン?」

 向かいの祖母の声掛けに、はっと意識が食卓に戻る。

「もうお腹いっぱいになっちゃったかしら?」

 アルハイゼンはううん、と首を振った。

「ちょっとぼーっとしてただけ」
「そう? でも、食べられるだけでいいからね」

 祖母はそう言うと、一度水を飲み、それから再び木匙を手に取った。
 祖母の食事の所作は丁寧だ。ほんのひとくち、舌に載るだけの量を匙に乗せて、ゆっくりと味わう。特別な作法があるわけではないけれど、静謐で、どこか儀式めいてもいる。ただおいしく食べているだけよと彼女は言うが、アルハイゼンはその匙の運びをきれいだと思った。
 なんとなく真似をしてみたくなって、アルハイゼンも匙の半分ほどを口に運び、もぐ、とゆっくり噛んでみる。甘酸っぱいトマトの果肉が崩れて、やわらかなマカロニがくにゃりと曲がってちぎれる。ツルツル豆が真ん中からふたつに分かれて、米粒と一緒に細かくなっていく。こうしてみると同じ一皿の中でも、素材の歯ざわりはそれぞれずいぶん違っているのだなと新鮮だった。
 顔を上げると、ちょうど祖母と目が合った。

「ふふ。おいしいわね」
……うん」

 なんだかすこし照れくさくなって、アルハイゼンは一拍遅れて返した。
 おいしい。
 祖母と食べる食事は、いつだって、なんだって――

「ほんとうにおいしい。アルハイゼンと食べるごはんは、いつだって、なんだっておいしいわ」

 頭の中を覗いたような祖母の言葉に、アルハイゼンはハッと目を見開いた。
 思いもよらないことに心臓がぴょんと跳ねて、とくとく走りだす。
 けれど――……

 「……うん。俺も」

 早鐘を打つ胸に兆したのは、驚きだけではなかった。

「俺も、お祖母様と食べるごはん、おいしいよ」

 同じ思いでいることは、こんなにうれしいことなのか。
 頬を赤くしながら口にした言葉は、あら、とはにかんだ祖母の頬も染めていった。
 
 向かい合って食事をすること。
 他愛のない会話をして笑いあうこと。
 おはようとおやすみを繰り返して、慎ましく一年を過ごすこと。
 そんな日々がいつまでも続けばいいと願うのは、自分だけではなかったのかもしれない。
 どうあっても別れは避けられない。恐れても、目を逸らしても、その日は必ずやってくる。将来自分に襲い来るであろう寂しさの大きさは計り知れない。
 けれど寂しさの前借りをして、祖母がまだ生きているうちから沈んでしまうのは、今ここにあるあたたかさをなおざりにすることだ。
 ならば、今、自分がすべきことは――
 アルハイゼンは一度目を閉じ、鼻からすう、と深く息を吸い込んだ。胸いっぱい、お腹の底にまでコシャリのいい匂いを吸い込んで、ゆっくりと吐き――それから、ぱちっと目を開けた。

 うん。
 もう、大丈夫だ。
 アルハイゼンは姿勢を正すと、今度はこれでもかというほどにコシャリをすくい取り、大きく口を開けて頬張った。もぐ、もぐ、もぐ、と頷くように咀嚼して、口いっぱいに広がる幸せの味を噛み締める。よく煮詰められたトマトソースは紛れもない我が家の味だ。豆の香ばしさも、米の粒立ちも、マカロニのくにゃくにゃした歯ざわりも全部、アルハイゼンの大好きな祖母のコシャリの味だ。
 
 この味を覚えておこう。
 ずっとずっと、この先大人になってもきっと忘れないでいよう。
 レシピを教えてもらっても、料理がどれだけ上達しても、きっと再現しきれないこのおいしさと。
 いつか思い出になる、今このときの幸せをしっかりと噛み締めよう。
 
 風がぴゅうと吹き込んで、キッチンのカレンダーが揺れる。
 今年ももう、二週間足らずで終わる。
 その先には新年が待っていて、それから冬の終わり、春の訪れが列をなしてやってくる。
 来年はどんな年になるだろう。自分はどれだけ身長が伸びて、祖母はどんなことを教えてくれるだろう。世界はまだまだわからないことだらけで、それを追いかけているうちにまた時は過ぎ、季節は移ろう。

 時間は止まってくれない。
 でも、もう大丈夫だ。
 向かいで笑う祖母の、自分を見るいとおしげな瞳と優しい声を忘れてしまわないよう、アルハイゼンは胸に焼き付けた。


 祖母が亡くなったのは、それから二年後のことだった。