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2026-01-22 15:39:36
34202文字
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學パロ箕乱
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學スト箕乱、実習生編
學スト箕乱の大人編です。
まだ構成ができてないから、思いついたものからあげていく。推敲ほぼゼロなので支部にまとめるときは適宜削除したり書き換えたりする予定です。
ぽさんと箕さんのキャラがぶれてるのなんとかして〜の気持ちで走り出したので着地複数分岐中です、自分でもどこにいくかわからん。
あと成人指定はここにあげるかわからんです。
あげるときはパスかけます。
【プロローグ】
僕は夢と現実の区別をしていない。
現実はいつも荒唐無稽だし、夢の中にも秩序はある。
そもそも、どちらも僕にとっては等価で区別する必要がない。
多くの人は夢と現実を区別するらしい。
例えば、夢だった、よかった。現実だ、気が重い。
けれど、どうしてそちらが夢でこちらが現実だって言えるだろう。
そう、例えば昨日見た夢の中で、僕は大人の箕浦くんに助けてもらった。なにか悪いことをして捕まったのを、救い出してくれた。
僕はやけにほっとして、普段は話さないようなことをべらべらと話していた。おじさんになった箕浦くんはそれを苦笑して聞いていた。
その声は酷く懐かしいようで、どこか違う世界のような。
目覚めると僕は教師である自分のことを思い出した。
そして、夢の中の僕らのことは途端に朦朧とする。
ぼんやりしたまま洗面台の前に立つ。
そこにボサボサの髪の毛をした二十九歳の僕がいる。
夢の中の僕は、何歳くらいだったんだろうか。
僕を見つめる、優しく濡れたように光る黒い瞳が不意に目の前に浮かぶ。
「また、背伸びてるんだろなぁ」
鏡の中の男がぐいと背伸びをした。
「ちぇ、不公平だな」
まぁでも、僕が背も高くてスポーツ万能だったら隙がなさすぎてかえって嫌味なくらいだから、僕にはこの身長があってる。
そしてもっと大切なのはこの明晰な頭脳こそが、僕だってこと。
そういうわけで、僕は身支度もそこそこに家を飛び出す。新入生のように胸にわくわくを抱えて。
「今日からだ」
教育実習が始まる。
そして、今年の教育実習生は、箕浦くんを含む三人だ。
【先輩と後輩】
「箕浦金之助です。宜しくお願いします!」
職員室では実習生の自己紹介が終わって、各々担当の教員に挨拶をする。俺は江戸川先生だ。
先生のところに行くと細い目をさらに細めて両手を広げた。
「箕浦くん!よく来たねぇ」
そのままがっしり抱きつかれ慌てて引き離す。職員室がにわかにざわつき、与謝野先生は笑顔で頷いている。
「せ、先生!なんですか急に!」
「えー?再会の抱擁?」
「いや、正月にも会ってるじゃないすか」
「君の驚き慌てるところが見たくってねぇ」
そう言ってからようやく離れると、分厚い資料を手渡される。
「君のことだからそんなに詳しく指導はいらないだろうが、一応まとめておいた。国木田に礼を言っておいてね」
「国木田先生、ありがとうございます!」
国木田先生が自身の机から手を挙げて応えてくれる。
「明日までに目を通しておいて。僕の仕事のことはよく知ってるだろうから割愛。基本的にはこの範囲の授業を君に任せることになるから、明後日までに話す内容をまとめとくこと。添削は僕か国木田がやるから」
「はい!」
「今日と明日は僕の授業を見てもらう。明日は体育もあるから、そっちも見たいだろ?先生には話を通してある」
「うわ、ありがとうございます。体育のことまで」
「せっかくだからね、たくさん経験していくといい。体育祭も近いから準備も手伝ってよね」
「勿論です!懐かしいな」
「君は体育祭が終わるとすごくモテてたもんね」
「そういう話じゃなくてですね」
「今日は二年の化学。明日は一年の物理だよ。明後日は三年の生物だけど、取る人が少なめだしまぁデビュー戦としてはぴったりだろ。今日の授業は三限だからそれまでに準備をしてもらうよ。質問は?」
「ないです」
「じゃあ朝の打ち合わせはお終い」
江戸川先生はそう言って立ち上がると白衣を翻して歩き出した。
「何してんの?さっさと準備室行くよ」
「あ、はい!」
他の実習生は先生たちに挨拶に回るようだ。
「あの、俺は挨拶行かなくて良いんですか」
「いらないでしょ、僕が許す」
學園では結構偉いらしい江戸川先生が言うのだから、まぁ大丈夫なのだろう。
「あ、違う違う。君、有名人だから」
「へ?」
「まったく準備期間なしで推薦と奨学金もぎ取った奴ってんで割とうちの指導陣に爪痕残してるんだよ、箕浦くんは」
そう言ってにんまりと細い目をさらに細めた。
「教師としての働きにも期待してるからね!」
あと、僕のサポート役としても。
一段小さな声でそう付け加え、先生はさっさと歩き出した。俺はその変化に妙な含みを感じたが、気のせいだということにして後を追った。まさかその予感が当たることになるとはその時は思いもしなかった。
【大人になったら】
職員室中に響く声で挨拶と自己紹介を終えた箕浦くんのことを、背が伸びたなと眺めていたら彼が近づいてきた。
改めてそばで見上げるとかなり大きい。
座っているとずっと首を上げないといけないから立って話すことにしたがそれでも見上げることになる。
なんだかやはり狡い気がする。
箕浦くんは素直に頷きながら僕の言葉を聞いていたが、モテてたもんね、と言うと飛び上がるように否定した。事実なのに。
準備室に移動してからはやる事も多く、指示と確認の会話が殆どだった。授業が終わり一息ついたのは昼時を過ぎてからだ。
「あーごめん、勝手に休憩とってくれる?僕まだやることがあるから」
「何言ってんです、俺も手伝います。さっきの答案採点するんですよね」
「うん、それと実験器具の片付けも」
「じゃあ先にやっちまいましょう。俺、それが終わってから飯にします」
「悪いね。昼ごはん奢るよ」
「まじすか!やった」
「学食でいい?」
「むしろ学食が良いです。俺弁当だったからあんま食ったことなくて」
「そうなの?結構美味しいよ。甘いものもあるし!」
「はは、先生はそこがメインでしょ」
まだ戸棚にお菓子隠してるんですか。そう言って器具を仕舞っている棚の奥を覗き込む。
そうしているのを見ると、昔に戻ったみたいだ。
あの頃も、棚の奥を覗き込んではお菓子の袋を取り出して、先生もうなくなりそうですよ、俺買ってきましょうか、って言ってくれた。
手際よく器具を片付けていくのを眺めながら、何故教職を受けようと思ったのか、改めて気になってきた。
「箕浦くんは、どうして急に教職受けようと思ったの」
「先生がいるから」
「は?」
「俺、先生とまた、ここで過ごしたかったんです」
窓の外から照り返した光がビーカーに反射した。僕は眩しさに目を細める。
「
……
というのは冗談で、本当は先生みたいになりたかったんです。俺、先生のお陰で大学に行けたから」
箕浦くんは少し恥ずかしそうに言う。
「先生が教えてくれなかったら、推薦も奨学金も無理でした。本当に感謝してます」
「何言ってんの、君が頑張ったからでしょ。僕は何にもしてないよ」
箕浦くんは笑うと首を振って、内ポケットから万年筆を取り出した。
「これ、卒業式の日に頂いた。実は思ったより勉強も、家のことも大変だったんです。流石に教職は欲張り過ぎじゃないかって、通わせてもらっただけで感謝すべきじゃないかって思ったこともあった。でも、これ見ると先生や學園長が教えてくれたことを思い出して。楽な方にいきたい気持ちを戒めることができた」
大切そうに、それを握りしめる。
「先生」
不意に、箕浦くんが僕をまっすぐに見た。ビーカーの反射光がシャツに白い亀裂を走らせる。
「俺、忘れてませんから。あの日、先生が言ったこと」
空気が震えていた。
あの日、僕が言ったこと。
「それを確かめたくて、戻ってきたんです」
白いシャツが、ゆらゆらと陽炎のように燃えていた。
【歓迎会という名の宴会】
「なぁに遠慮してんだい、さ、呑んだ呑んだァ!」
「与謝野先生、やめてくださいパワハラです!」
賑やかな歓迎会の会場で、俺は少し戸惑っていた。酒の場は初めてではないが、酔った江戸川先生は初めて見たのだ。
「なんだ、箕浦くん。全然呑んでないじゃァないか」
「乱歩さんまで、止めてください!」
国木田先生が青筋を立てて片端からアルハラを駆除して回っている。
たしか年末年始に招かれて行く時は、ここまで酔っていたことはない。いまや先生の顔は真っ赤だし、呂律は回っておらず、足元も覚束ない。
「ほらぁ、呑んだ呑んだァ」
俺にしなだれかかるように麦酒瓶を差し出してくる。
麦酒よりも先生の具合の方が気に掛かり呑むどころではない。
助けを求めるつもりで學園長の方を見たが、顔色も変えずに一瞥されただけだった。
「なんとかしろってことですかねェ」
右から江戸川先生、左から与謝野先生に詰め寄られながら考える。他の実習生は談笑しながら静かに飲めているらしいから、この辺が特に騒がしいことになってるのは間違いない。
「っと、大丈夫ですか先生」
がくりと俺の前に体を転ばせ、頭を卓に打ちそうになるのをすんでのところで抱き起こす。
「だぁいじょうぶだよぉ、へへ」
いつもと違う、緩みきった笑顔を不意打ちで喰らってしまい心臓がどんと跳ねた。
「おや?乱歩さん、随分と出来上がってるじゃないか。ほんとに大丈夫かい?家帰ったらどうだい」
与謝野先生も少し心配そうだ。
「ねぇあんた、家わかるだろう?送ってやってくれるかい」
「へ、俺ですか」
「惚けた奴だねェ、あんた以外誰がいるってんだ」
「ぼくはまだだいじょぉぶだよぉ」
「乱歩さんには聞いてないんだよ。ね、いいだろう?」
「はぁ、まぁそれは」
勿論送っていくのは問題ない。問題があるとすればその後俺が真面目に帰るかってとこだろう。
「そうかい。あんたなら安心だ。じゃ、よろしく頼んだよ」
与謝野先生は勝手に話をまとめると、アルハラを刈り取っている国木田先生のところへ行ってしまった。恐る恐る學園長の方を見ると、杯の向こう側で僅かに頷いた、ように見える。いつものことだが分かりづらい。
仕方がない。ここは腹を括るしかなさそうだ。
「先生、帰りますよ。立てますか?」
「へぇ、なんで?まだ会はひらいてないのに」
「そんなんじゃ、残ってたって楽しめないでしょ。さ、行きましょう」
俺は先生を支えて立ち上がると、こちらへやってきた国木田先生に事情を伝えた。
「そうか、わざわざすまない。本来なら教師である俺達が何とかすべきなのだが、生憎今日は幹事を任されていて抜けられない。頼めるか」
「だぁいじょうぶさ、この子ならしっかりしてるし、乱歩さんとも親交があるみたいだしね」
「そうなのか?」
「まぁ、はい。年末に呼ばれて飯食うぐらいですが」
「ご実家も知っているのか。それなら安心して任せられるな。乱歩さんの今のお住まいは知っているか?」
「あぁ、はい。以前届け物をしたことが」
「国木田ァ、大丈夫だって。この子に任せときな。さっ、妾たちは飲みに戻るよ」
「箕浦、すまないが宜しく頼む。何かあれば俺の携帯に掛けてくれ」
国木田先生はそう言ってメモ用紙を俺に手渡すと、与謝野先生に引き摺られるようにして宴会場へ戻って行った。
部屋を出ると途端にすごく静かだ。學園長の伝手で借りたという和風の料亭の庭はきちんと手入れされており、うすい月光に浮かび上がる石の影が綺麗だった。
先生は急に静かになったと思ったらどうやら半分眠ってしまったらしく、俺はなんとか靴を履かせたあとは家まで背負って行った。
背中の温もりがなんだか嬉しく、こんな状態で嬉しいというのも不謹慎だが、道行はまったく辛くなかった。
一人暮らしをしてるというアパートの前まで来て、なんとか鍵をポケットから探し出し、部屋の中へ入る。広めのワンルームに、寝台と、食事用らしいローテーブル、高そうな絨毯が引かれている。壁面には本がびっしり詰め込まれている本棚が置かれていた。
先生を寝台に寝かせて、ネクタイを緩めて布団をかける。
「先生、家着きましたよ」
一応声はかけてみるが、案の定返事はない。起きてから飲むかもしれないと思い、キッチンにあったグラスに水を注いで置いておく。
「俺、帰ります。明日、遅刻しないでくださいよ」
すうすうと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。
柔らかそうな唇から酒精の混じった息が漏れていた。以前、先生がしてくれたように、頬を撫でてみる。人の肌の温もりというのは、何故か酷く安心する。俺はいつか、この肌の温もりを知っていたような気がして、そんなことがあるはずがないのにと笑ってしまった。
「先生、いつか」
目覚めているときに触れてもいいですか。
そんなふうに聞きたくなった。
先生の口から微かに甘い声が漏れる。咄嗟に俺は手を引っ込めて立ち上がった。流石にこれ以上は不味い。
急いで靴を履き部屋を出た。外から鍵をかけ、郵便受けに放り込む。
やけに心臓が煩く鳴っていた。
【とある噂話】
「ゔーあだまがいだい」
職員室で机に突っ伏す僕の背を、与謝野先生がさすってくれる。ついでにへ◯リーゼとかイ◯みたいな痛み止めを並べていく。
「やれやれ、乱歩さん昨日は機嫌良く呑んでたからねぇ。これでも飲んどきな。ないよりゃマシだよ」
「ゔーありがとう
……
」
声もがらがらだ。昨日どうやって帰ったのかも覚えていない。
「そこはあの子に頼んどいたよ。喜んで、って感じで背負って帰った」
「朝起きたら誰もいなかったけど
…
」
「乱歩さん、本当に頭回ってないねぇ。そんなの送ったらすぐ帰ったに決まってるじゃないか。逆にいたら怖いって」
与謝野さんの指差す方向で、箕浦くんが織田先生と話していた。
今日は僕の授業が午後からだから、別の先生の授業を見学しにいくつもりなんだろう。
「ちょうどいいや。僕準備室で寝てくる。誰も来ないように言っといて」
「はいはい。あの子はいいのかい」
「いい、今日は明日の準備で忙しいだろうから」
それに箕浦くんなら何かあれば勝手に訪ねてくる。
僕はよろめきながら職員室を出ると準備室に向かう。廊下は蒸し暑く、まだ五月だというのに先が思いやられた。
準備室で横になって少し経った頃、扉を叩く音がした。「江戸川先生、いらっしゃいますか?」と尋ねてきた声は、生徒会長だ。
僕は重い体を引き摺ってようやく扉へ辿り着く。
現生徒会長の幸田さんが立っていた。
「ちょっと、ヰ界のことでご相談があって」
くっきりした口調で彼女は告げた。
「ヰ界がおかしい?」
「はい、これまでの発生の仕方とは違う気がして。私自身はヰ界に這入ることができないから確かめられへんのやけど、まず単純に数が多くて」
「噂話の数が多いってことはないの」
「噂自体が大きく膨らむことはありますけど、生徒の数が増えてるわけやないから噂の数が突然増えるってことはないはずなんです」
「どんなヰ界ができてるの」
「調べた限りでは、敗残兵の亡霊が旧校舎、猛スピードで走る老婆が体育館の裏手、桜の木下に埋まった死体が學園のシンボルツリーになってる大樹の桜、願いを叶える牡丹
……
となんか他の細かいのも合わせると十個はありそうなんです」
僕は聞き覚えのあるヰ界に目を瞬いた。
「あれ、牡丹の話ってまだ生きてるんだ」
「うちの名物みたいになってますからね、牡丹の花は。消えては生まれって感じみたいです」
「ふうん、まぁわかった。他には?」
「あと、これは先生には言いづらいんですが」
「嗚呼、箕浦くんか」
「はい、女子生徒を送って帰ったという話がありまして、風紀委員から報告が」
「職員会議では誰かに後を追われていたという話だったが、それそんな深刻?」
「江戸川先生はご存知ないかもですけど、箕浦先生、生徒の間で人気あるんですよ?毎年実習生はちやほやされますけど、今年はなんか違うっていうか、彼、男子にも人気があって」
「嗚呼、それなんかわかる気がする」
長男だからか妙に面倒見がいいし、運動もできて男の目にも格好よく見える。頼れる兄貴って感じだ。
「で?もしかしてそれもヰ界になってる?」
「可能性はあります」
「ヰ界の数が増えてることに関係する?」
「まだ不確定ですけど、いつもと違うことなんてそれくらいしか思いつかへんから」
「そうだねぇ、少し厄介なことになりそうだ」
幸田さんは意思の強そうな瞳をじっとこちらへ向けた。
「それって
……
、あの」
「それ口にしないでおいてくれる。ますます厄介になるから」
「わかりました」
箕浦くんと僕との間には何かしら特別な雰囲気があるらしい。
箕浦くんが僕に好意を持ってるのは知っているけど、それがどうして噂話にまでなるのやら。
「箕浦くんにはあまり関わらせない方がいいかもしれないな。送ってもらったっていう女子生徒と話してみるよ」
「ありがとうございます」
「君は生徒がうっかりヰ界に入ってしまわないように、噂のある箇所は立ち入り禁止にしておいて」
「わかりました」
幸田さんは頭を下げると準備室を出て行った。
僕はまた古いソファに潜り込むと目を閉じる。
箕浦くんはよく言ってもすこし目立つくらいの、ごく普通の青年だ。確かに運動がよくできるし頭の回転もそこそこいいし顔も怖いけど悪くない。何より話しやすい。でも、それだけだ。特別な能力があるとか、ずば抜けている、って感じじゃない。
もし彼の存在が學園のヰ界発生を乱しているんだとしたら。それはなにか、彼に対する熱のある想いが絡んでる。
「うーん、少し気をつけるよう言っておいた方がいいかもしれないな」
僕は熱気に耐えられなくなって窓を開けた。
青臭い芝生の匂いがした。
【織田先生と】
「美味いか?」
「はい!」
織田先生が飯を奢ってくれるというので喜んで着いてきた。老舗の喫茶店の咖喱が美味いという。出てきた咖喱には卵がのっている。少し変わった趣向だと思ったが、これが食うと美味い。
俺が貪るように咖喱を食っている横で、先生も負けじと食っている。静かな先生だと思っていたが、実際は喧嘩に強いらしいとか、夜の街では有名だとか派手な噂も聞く。
「なんだ?」
「あ、いえ。先生も好きなんすか、咖喱」
「此処のが特に気に入っててな。卵がのると美味い」
表情はあまり変わらないが、声は少し柔らかい気がする。
あらかた食って、食後に珈琲も頼んでもらったところでようやく落ち着いた。
先生はいいか、と断ると煙草に火をつける。細い煙がゆっくりと先生の周りを取り巻いていく。
「お前の名前、少し古風だが、親は夏目漱石が好きだったりしたのか?」
「いえ、どうでしょう。学のある親ではないから」
「金之助、ってのは漱石の本名でな。印象の強い名だ」
吐く息と一緒にふわりと煙が顔を覆う。
さすがに国語の先生だけあって、文学に詳しそうだ。
「箕浦は、どうして教職を受けてみようと思ったんだ」
当然の疑問だと思う。
これには、明確な理由がある。
「俺、江戸川先生に教えてもらうまで、自分が大学に行けるなんて考えたことがなかったんです。だから、俺と同じような生徒がいるなら力になりたいと思ったんですよ」
「ほう、良い心がけだが、優秀な生徒ばかりとも限らんだろう」
「だからです。俺だって勉強ができるほうじゃない。だから、苦労してる奴の気持ちになれるんじゃないかと」
「なるほどな。江戸川先生はお前をだいぶ高く評価してるようだったがな」
珈琲カップに口をつけながら、そんなふうに言われて俺はつい顔を赤くしてしまう。
「そ、そうなんすか」
「今回は僕が担当なんだ、とだいぶ張り切ってたぞ」
「ひぇ
……
」
カップの向こうで、織田先生が少しだけ目を細めた、ように見えた。
俺は嬉しいやら恥ずかしいやらで脇にたっぷり汗をかいたが、江戸川先生の話が聞けたことは純粋に嬉しかった。
【噂の出所】
「私、部活で遅くなることが多いんですけど、近道したくて旧校舎の横を通ったら誰か後をついてくるんです。怖くなって走ったら、足音も早くなって。なんとか追いつかれる前に職員室まで走り切って、それでそのとき残って作業してた箕浦先生に送ってもらいました」
箕浦くんを見るとなぜか得意げにしている。
結局ヰ界の話を隠しておくこともできず、女子生徒に話を聞くと言ったら立ち会います、と押し切られてしまった。
赤羽さん、というその女子生徒が話すには、その後旧校舎の側は通らないようにしていたが、昨日はどうしても間に合わせたい用事があり仕方なく裏手を通ったらしい。
「昨日はまだ明るかったですし、大丈夫だろうと思って。そうしたら、やっぱり同じ辺りで誰かが着いてくるんです」
昨日はそのまま走り抜けて門を出た。足音はそこでぴたりと止んだらしい。
「振り返って確かめなかったの?」
「怖くてそれどころじゃなかったんです!それに振り返って誰かいたら逃げるどころじゃなくなっちゃうと思って」
ゾッとしたように両腕を自分で抱きしめる。箕浦くんが律儀に上着をかけてやる。
「江戸川先生、このくらいにしては」
「うん、もう十分だ。箕浦くん、今日も送ってあげたら」
「えっ、でも」
「明日は休みだろ、授業準備もない。早めに帰るといい」
「
……
はい」
嬉しげな女子生徒とは対照的にあからさまに残念そうだ。
「江戸川先生、ありがとうございます」
「うん、君も不用意に旧校舎に近づかない方がいい。建物も古いし、何があるかわからないからね」
「はい。では失礼します」
「先生、それじゃ俺も」
「うん、宜しく」
未練がましく僕を睨むと女子生徒について部屋を出ていく。
不満があるのは君ばかりじゃないんだぞ、と何度言ってやろうかと思ったが、流石に大人気なさすぎる。
先輩教師として余裕を見せてやることにした。
とはいえ、二人がいなくなってしまうと部屋は途端に静かだ。箕浦くんは基本的に我慢強いから生徒に手を出すようなことはないとして、生徒の方は明らかに箕浦くんに気がある様子だった。
強く押されたら、揺らいでしまわないだろうか。
胸の奥にもやがかかる。
家に上がって行けと言われたら、素直に上がりこむのではないか。部屋に招かれたら、素直に入ってしまいやしないか。そんなことにでもなったら教員免許どころではない。まして、この學園には絶対に就職できない。
もやもやが苛立ちに変わる。
だいたいなんだ、あのジャケットは。必要がないだろう。ああいう仕草が人を勘違いさせるんだぞ。思わせぶりに頬に触れたり、抱きしめたり、笑いかけたり。
そんなの、誰にでもしていいものじゃないんだ。
「僕だけにしてくれればいいのに」
口をついて出た言葉に自分で驚く。
そうか、僕は他の人に優しくしてほしくないのか。
がたん、と扉が開く音がする。
「箕浦くん、どうして」
「いや、校門を出たところまでで大丈夫だって言うんで戻ってきました」
「そんなの建前に決まってるじゃないか」
「でも」
下を向いてしまう。
僕は扉の前で立ち尽くす彼に近づくと、ジャケットの裾を掴む。
「思わせぶりなのは、やめた方がいい」
「なんですかそれ」
「ジャケットを掛けたり、送って行ったり」
「それは教師として」
「知ってるよ、君が真面目だってのは」
本人を目の前にするとどうも本音がうまく出てこない。僕は昔からそういうところがよくない。
「違うんだ、僕が厭なんだよ。君が誰かに優しくしているところを見るのが」
今度は僕が俯く番だった。
「僕だけにしてよ」
途端に箕浦くんのがしりとした腕が僕を抱きしめた。厚い胸板がふわりと身体を包み込む。
「先生、先生だけですよ、俺が抱き締めたいって思うの」
苦しげな、掠れた声だった。
箕浦くんはすぐに身体を離すと、少し恥ずかしそうに顔を撫でて、送っていきます、と言った。
僕はうん、と答えたけれど、きっと箕浦くんに負けないくらい恥ずかしい顔をしていたんじゃないかと思う。
【調査開始】
「昨日の女子学生の件だが」
江戸川先生が何気なく切り出す。生徒会の面子は今年もヰ界調査に走り回っている。だが今準備室ににいるのは俺と先生だけだ。
「僕の見立てでは、現在確認されているいくつかのヰ界が絡んでる。放課後に戦死した兵士の亡霊が旧校舎を彷徨ってるってやつ、あったよね」
「夕方になると誰かが渡り廊下に立ってこちらを見ているとかってやつですか」
「そう、それから、走るお婆さんのやつ」
「時速二百五十キロで走る老婆のやつですね」
「そうそう。なんかその辺が合わさって新しい怪ヰになってそうなんだよね。興味ある?」
「はぁ、まぁ」
事件そのものよりも、先生が首を突っ込みそうなことの方が気になる。
「今回の件で、ひとつ、他のヰ界よりも深刻な面があるんだけど、箕浦くんは気がついた?」
「ヰ界に入り込んだかどうか、はっきりしないことですかね」
「七十点。ヰ界に入り込んだとしたら戻って来られるはずがないんだ。だとしたら、論理的に対になるのはもうひとつの選択肢だけ」
「ヰ界に入っていないか、あるいは」
「ここ全体がヰ界となってしまっているか、だ」
俺たちがもうすでに、ヰ界にいる
……
?そんなことがあり得るだろうか。
「出られる変則的なヰ界という可能性は」
「却下。それは定義から外れる。もしそうだとしたら、それはヰ界というよりも、もっと別の世界だと定義した方がいいだろうね」
「或いは、怪ヰがヰ界とは別に存在する?」
「それも却下。だとしたらそれは僕らが定義する怪ヰではない。べつの化け物だね」
「先生はどっちだと思ってるんすか」
俺は少しむっとして聞き返す。
江戸川先生は面白そうに口元を歪ませる。
「彼女の聞いた足音は正真正銘、この世界の住人のものだ」
「それって
……
」
「言葉通りだよ」
「でも、先生。だとしたらなんで校門で止まったんだ?」
「そりゃ、出られないからだろ」
「出られない?」
「僕らはここから出られない。というより、
彼女しか出て行けない
・・・・・・・・・・
んだ」
「は?」
話がまったく見えない。
彼女が聞いた足音は現実のもの、ならば実体がある。そして俺たちと同じ側の存在のはずだ。
その存在も、俺たちも、出られないのに、彼女だけが出られるというのは
……
。
「つまり、赤羽さん、彼女が異質なんだ」
カン、と威勢の良い音が開いた窓から聞こえた。
「そもそも君は、彼女が君の授業を受けていたかどうか思い出せるか?」
「いや、
……
そういえば」
思い出せなかった。だが、この学校の生徒ではあるはずだ。
「在籍者名簿を調べたよ。彼女の名前はなかった。部活動の部員名簿にも。不思議なことに僕は彼女の名前を知っていたが、彼女が何年生なのかは決して思い出せなかった」
「では今回の件は」
「ただの幽霊さ」
「はぁ!?」
あんなはっきりした幽霊がいるだろうか。
「正確には、広域にヰ界を展開できるような強い情報をもとにした怪ヰじゃないかと考えてる」
「先生がいってた、ここ全体がヰ界ってのは」
「あながち間違ってなかったわけだ。だが、その形がドーナツ型だったってのは。気づくのが遅れるわけだ」
「ドーナツ?」
「彼女の存在は僕らを取り巻くように作られたヰ界の中だ。ところが僕らはヰ界に入った覚えはない。入ってなくていいんだ。彼女は限りなくヰ界を引き延ばして彼女のかたちにぴったり合わせた」
「だとしても、怪ヰって偶発的な存在ですよ。そんな小器用なことできますかね」
「うーん、僕もそう思う。だからこの小さな出来事には真犯人がいるはずなんだよね」
「真犯人?」
なんだかきな臭くなってきた。
「怪ヰを操るような奴がいるってんですか?」
「元はみんな情報だ。たとえば計算機のような零一の記号の羅列だとして、この学校を覆えるくらいの情報量なら容易く生み出せる。噂の元を掴んでるような輩がいるなら、そいつが真犯人というわけだ」
さて、面白くなってきた。先生が瞳を開いてにんまり笑う。時折覗かせる鮮やかな翠色が、怖いと感じるのはこういう時だ。
「で、どうするんです」
「赤羽さんはしばらくここにいるだろうし、君は彼女に好かれてるみたいだから、君に囮になってもらおうかな」
「囮って」
「彼女と一緒にヰ界に這入ってほしいんだ。で、僕が原典怪ヰをやっつける、っと」
「またそんな、簡単に言いますけど」
「簡単さ。少なくとも前に君が見た時よりは、ずうっと簡単だ」
窓の外からまた、カン、と乾いた音が響く。野球部の練習なんだろう。先生は音に惹かれるように外を見た。
「あの時君が僕のことを抱き締めてくれなかったら、僕はまだヰ界の中だった」
感謝してるんだ、これでもね。
振り返った先生の笑顔はどこか寂しげだった。先生はきっとまだあの日のことを忘れられていない。
あの人のことが、まだ好きなんだと厭でも気づく。
「先生」
「うん、そう。そろそろ忘れても良いはずなんだけどね」
「先生、俺」
「うん」
腕を伸ばす。先生の手首は変わらず酷く細い。
引き寄せると抵抗はなく、するりと胸の中に収まった。俺はその頼りない身体を恐る恐る抱く。
「俺、この三年の間に少し狡くなりましたよ。今だって、凄いこと考えてます」
「へぇ、どんな?」
「今なら隙だらけのあなたを、抱けるかなって」
「抱いてる」
「キスして、柔らかいとこ触って、犯したいとか、考えてます」
「はは、そっか」
「駄目ですか、まだ」
「嗚呼、うん。君のせいじゃない。僕の問題だ」
僕はたぶん、君のことはけっこう好きだから。
腕の中で、小さな声が告げた。
嬉しい言葉のはずだった。
それなのに、どうしてか胸が痛かった。
【江戸川先生が倒れた】
実習が始まって数日、何故か話の流れで水泳の模範を見せることになった。泳ぐのは嫌いではないが、先生の前で裸を晒すのはまぁそこそこ痺れるものがある。
その日は五月にしては酷く暑く、空調の効いている屋内プールも気温が高めではあった。
學園の競泳部は伝統的に実力があり、二年前になって設備を一新するため保護者や協力企業から出資を募ったのだという。他校から練習に来る生徒もいるほどだという設備は確かに素晴らしく、俺が生徒だった時とは比べものにならない。
プールサイドには男子生徒がずらりと並んでいる。
男女別の授業体制は変わらない。風紀を重んじる學園長らしい。俺もこういうのは別の方が気が散らなくていいと思う。
「では授業を始めます。俺が先に手本を見せるので、皆さんはそれをしっかり見て、真似してください。練習の時はサポートで他の先生も入るので、具合が悪くなったり、怪我をしたらすぐに教えてください。準備運動が終わったらやっていきます」
ふとプールの入り口付近を見ると江戸川先生と与謝野先生が見に来てくれている。俺は会釈をして、そのまま授業を始めた。
「せっかくなんで、クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの順に2往復で見せていくので、自分の得意な泳ぎをよく見ておいてください。あとで練習するときにグループに分かれてもらうので」
そう告げて、スタート台に立つ。
手を挙げて、身体を折り、足に思い切り力を込めて飛び込む。水が全身を包み音が消える。
最初はクロール。ターンして背泳ぎ。スタートに戻ったら今度は平泳ぎ。最後にバタフライ。
俺の泳ぎは決して速くはない。選手の泳ぎじゃない。でも俺は自分の泳ぎが好きだ。
死んじまった母さんが教えてくれた唯一のことだから。
壁面にタッチして模範を終える。
何故か拍手が起こった。
「素晴らしいじゃないか!」
嗚呼、先生だ。
プールサイドに立っていた与謝野先生と江戸川先生がやんやの喝采を送ってくれていた。それに釣られて生徒たちも拍手してしまったんだろう。
俺は悪くない気持ちになりながら生徒のところへ戻ると組み分けを始めた。あらかたグループに分け終えて、各自の練習場所を指示したところで、重いものが落ちてきたようなどさりという音がした。同時に「乱歩さん!」という鋭い声が飛んだ。
身体が勝手に走り出していた。何かいう暇もなく先生の下に駆けつけると呼吸を確認している与謝野先生を見る。
「呼吸はある、心拍が異常に速い。体温が高いから軽い熱中症か風邪だ。そんなに深刻じゃァなさそうだ」
先生の報告を聞きながら俺は細い身体を抱き上げる。
「安静にしてられる場所に運びます。与謝野先生、着いてきてください」
「わかった。あまり揺らさないようにしてやっておくれよ」
「はい」
横抱きに抱き上げた先生の顔色は真っ白だ。それなのに全身が酷く熱い。
「保健室に保冷剤がある。ベッドもあるしそこまで頼めるかい」
「了解です」
先生の身体は頼りなくぐったりとしている。意識がないのだ。与謝野先生は熱中症と言っていたが、脳震盪とか麻痺ではないのだろうか。
不安で腕が震える。
「先生、死なないでください」
与謝野先生がそれを聞いて驚いたように目を見開く。
「死にゃしないよ。妾に任せな。あんたは乱歩さんを下ろしたらちゃんと授業に戻るんだ。いいね」
「はい」
きっと大したことはないのだ。
少し体調が悪く、立ちくらみで倒れてしまっただけに違いない。自分に言い聞かせてみるが、保健室に先生を送り届けた後も、心臓の厭な鼓動は続いたままだった。
【いなくならないで】
僕は後からきいたから、その時の様子はよくわかっていない。ただ、しっかりした腕が僕を抱き上げて、抱き締めてくれた。それから揺れが続いて、気がついたらベッドで横になっていた。
与謝野さん曰く、
「格好よかったなんてもんじゃないよ。ありゃヒーローだね。声も上げずに駆け寄って、乱歩さんのこと抱きかかえてさぁ」
だそうだ。何度も繰り返すから自分で見聞きしたようにその場面は鮮明に思い描ける。
「乱歩さんのことが大切だって顔に書いてあったねぇ」
「もう、やめてよ
……
」
僕はいたたまれなくなって布団に潜り込む。
「乱歩さんも悪いよ。体調が良くないならちゃんと休まなくっちゃ。休むのも仕事だからね」
「せっかく箕浦くんの晴れ舞台だから、休んじゃ悪いと思ってさ。でも、わかったよ」
与謝野さんはにっこり笑って席を立つ。
「あとはヒーロー様にお任せするよ。妾は一時間ばかり出てくるから。留守は任せたよ」
片目を瞑って見せる。そこへ、箕浦くんが入ってきた。与謝野さんは彼に鍵を預けると同じことを言って出て行った。
「先生、大丈夫ですか」
酷く不安そうな顔をしている。
「大丈夫。ごめんね、迷惑かけちゃって」
箕浦くんは頭を振ると、さっきまで与謝野さんが座っていた丸椅子に腰掛けた。
「それにしても、よくすぐに動けたね」
「俺、体育の勉強もしてるんですよ。判断と応急処置くらいはできます」
頭を抱え、大きく息を吐いて前屈みにちいさく折れ曲がる。
「
……
よかった。なんともなくて」
「寝不足だってさ。確かに最近事件に夢中になってあんまり寝てなかった
…
ってうわ」
箕浦くんの腕が僕をきつく抱いていた。抱き起こされる格好になった僕は変な方向に首が曲がるのをなんとか堪えながら自由な肘から下で箕浦くんの腰を抱いた。
「先生、急にいなくなったりしないでください。絶対に」
いつもの箕浦くんらしくない、細い声だった。
そうか。僕ははたと思い出す。
彼は、すでに一度、大切な人を亡くしてるんだ。
僕は苦しいのを我慢して、もう少し背中の方へ腕を伸ばす。ぽんぽん、と叩くと少し腕の力が弱まった。
「大丈夫だよ。僕を誰だと思ってるの」
「
……
はい」
身体が離れていって、現れた顔はぐしゃぐしゃになって真っ赤だった。
「なぁに、泣いてたの」
「泣いてません」
赤い頬に手を伸ばし、真っ赤な目元を拭う。箕浦くんの大きな手がそれを掴んで、頬ずりする。
「泣いてるじゃないか」
僕はもう片方の手を伸ばしてまた目元を撫でる。
箕浦くんが黒い瞳で僕を見た。
「先生、キスしていいですか」
僕は答えずに目を閉じた。
【大切だから】
江戸川先生とキスしてしまった。
泣いてる俺を先生があまりに優しく撫でるから、つい甘えたら、受け入れられてしまった。
先生の唇は柔らかくて温かくて、甘い果実のようで。歯止めが効かなくなり何度もねだってしまったが、先生は拒まなかった。
そうだ、拒まなかった。
拒まなかったどころか、三度目あたりからはうっすらと口を開けて俺が押し込んだ舌に舌を絡めてきた。
顔を離すと息を乱した先生が切なげにため息を吐くから、とうとう堪らなくなって覆いかぶさろうとしたところでがらりと与謝野先生が戻ってきた。
反射的に両手をあげた俺に向かって指を差しながら、与謝野先生と江戸川先生はしばらく息も出来ないほど笑っていた。
そんなことがあったせいで、困ったことに授業準備がまったく進んでいない。帰宅してからも、先生の真っ赤に染まった目元やわずかに漏れる息のことを思い出しては股間を膨らませてしまい、宥めるために何度か抜いたが、それでももやもやは晴れず、なんとか今日やる予定のところまで進めて、明け方にようやく倒れるように寝た。
幸いなことに江戸川先生は休みを取っていて、顔を合わせずに済んだ。これで後ろに先生が立っていたりしたら授業どころではなかった。
そんなわけでしどろもどろになりながらもなんとかその日の授業を終えて、体育祭の準備に向かっていたらあの花壇の前に立つ學園長にばったりと会った。
「箕浦くんか。授業はどうだ」
學園長は比較的優しく語りかけてくれたが、俺は江戸川先生とのことが酷く後ろめたくなり、視線を逸らしてしまう。
「はい、とても楽しいです。生徒たちも素直で熱心ですね」
「そうか、それならいい」
「今年の牡丹はもう終わったんですね」
そう伝えると、頷く気配がした。
「貴君にも見せたかった。今年は特に大きく咲いてな」
あの年、俺は江戸川先生に恋に落ちた。
それからずっと、先生が好きだ。
「そういえば、交際している女性がいるとか」
「えっ、いや、今はいません」
「そうだったのか。失礼した。正月からこちら、乱歩がやけに貴君の話をするものでな」
「そう、だったんですか」
「実習にくると知って随分と張り切っていた。昨日のことは、それがすこし行きすぎたのだろう。許してやってくれ」
「いや、俺こそ、なんだかすいません」
昨日、という言葉で先生の真っ赤な顔がフラッシュバックする。思わず謝ってから、不思議な顔をしている學園長に手を振って否定する。
「いやあの、俺の出番を待っててくれたそうで、俺のせいだなと」
「貴君のせいではない。乱歩の体調管理がなっとらんのだ。気にすることはない」
學園長はそう言ってまた静かに花壇に目を向ける。
俺は先生に似た花を後にその場を離れた。
「そういや」
ふと足を止める。
「學園長は、どうして牡丹を育てようと思ったんですか」
振り返ると、學園長が柔らかく笑った。
「少し、彼奴に似ている気がしてな。嗚呼、これは乱歩には内緒にしておいてくれ」
彼奴のことだ、もう気づいているやもしれんがな。
それだけで、學園長がどれほど江戸川先生を大切に思っているかがわかった。
わかって、酷く胸が苦しかった。
【君のせい】
やってしまった。箕浦くんとキスしてしまった。
さすがに十代でもないのでそれで狼狽えるような僕ではないが、とはいえあれは確実に誤解を招く。
合わせる顔がなくて昨日は休みを取り、今は朝から準備室に篭っている。
僕は、まだ覚悟ができてない。
福沢さんのことは諦めると決めた。でも、心がついてこない。そりゃ、毎日のように顔を合わせて、会話もしていれば忘れるなんてことができるはずもない。
ただ、あの人が僕を特別な場所に置くことはないと、受け入れただけだ。
福沢さんは、相変わらず僕に甘い。學園で僕を見掛けると声を掛けるし、よく差し入れもしてくれる。家にも招いてくれるし、年末年始の宴会も続いている。
要は僕とあの人はそもそも酷く親密な間柄なのだ。
その中で生まれた心がすぐに変わるわけがなかった。
箕浦くんはいい青年だ。もう大人だし、率直に言っていい男だと思う。僕自身も好意を持ってる。いや、たぶん、それ以上だ。
濡れた髪から塩素臭い水の匂いがした。
授業の後で、シャワーも浴びずに来たのだろう。
触れた肌はひやりとしていた。それなのに入り込んできた舌は熱くて、身体の芯まで燃やしそうだった。
あの熱に当てられなかったとは言えない。
事実、僕も彼を求めてしまった。箕浦くんは拒まなかった。僕の中に潜り込んで、大きな舌で中を舐めまわして、それから。
「先生?」
「!!??」
目の前に箕浦くんがいた。
僕は思わず顔を覆って椅子ごと数メートル後ずさる。
「な、の、ノックくらいしろ!」
「しましたよ。返事がないんで勝手に入りました。寝てるのかと思って」
そう言うと箕浦くんは僕の前までやってきて顔を寄せる。
「なぁにぼっとしてるんです?やらしいことでも考えてました?」
「かっ、考えてないっ」
「俺は考えてましたよ、あれからずっと、先生のこと」
「ばっ、なっ」
「はは、珍しいすね、先生が慌てるの」
僕は箕浦くんを押し退けると理科室へ逃げ込む。
そうだ。箕浦くんが実習にきてから、僕は少しおかしい。僕の明晰な頭脳が、箕浦くんのことに関してはてんでポンコツになってしまう。
「ヰ界の件、調査進んでますか?動きがあれば教えてくださいよ。俺も関係がありそうだし」
僕の態度はものともせず、手際よく準備室と行き来しながら実験器具を出していく。
「いや、もう週末だし今はこれ以上何か起きることもないだろ」
「赤羽さん、今日も普通に来てましたね。大人しく授業受けてました」
相変わらず視線は熱いですが。平然とそう言いながら理科室へ道具を運んでくる。今日は3年の化学だ。
「あれ、プロジェクターって使いましたっけ」
「嗚呼、うん」
小気味よく動き回る様子を感心して見ていると、はい、先生はこれお願いします、と大量のプリントを渡される。
受け取りながら、ぼんやりと背中を眺める。シャツを着ていると細身に見えるが先日見た限りではしっかり筋肉のついた身体をしているはずだ。その身体があの時僕をきつく抱いた。抱いて、そして。
「っあーっ、先生!プリント!」
小川のようなさらさらいう音を立てながら足下にプリントが散らばっていく。僕は手を見る。最後に残った二枚ほどが所在無げに揺れていた。
「
……
先生、大丈夫ですか?まだ、具合悪いんじゃ」
「いや、
……
大丈夫」
本当にどうかしている。
僕が好きなのは學園長で、忘れられなかったはずなのに、なんだか箕浦くんといると、今度は彼から目が離せない。
ぼんやりしたままプリントを配り始めると、今度は「先生!プリント逆さまです!」と声が飛んでくる。
僕はいよいよ大きく溜息を吐いた。
【ずっと前から】
せっかく同じ学校で実習してるからというので、土曜は学生だけで飯を食いに行く事になった。
全員違う大学に進学してはいたが、もともと同じ学校出身ということもあって何となく互いに知ってはいた。
声をかけてくれたのは木庭。元気のいい子で社交的。俺ともう一人の井関はまぁ断る理由もないか、というので頷いた感じだ。
木庭は教育大、井関は関西の国立大だというから、二人とも随分と勉強ができそうだ。
「でも、箕浦くん当時結構有名だったよ。いきなり推薦取ってきたって」
「ですよね。僕も名前は知ってたし」
「そうなのか?」
「運動部の助っ人に行ってたでしょ。顧問の先生がよく正式に入部してくれれば
…
ってぼやいてましたよ」
「さすがにそんな暇はなかったな」
俺はオムライスを口に放り込みながら答える。
木庭の選んだ店は女性らしく小洒落た内装が今どきのカフェだ。飯といえばラーメンという俺やガリ勉風の井関なんかは間違っても選べそうにない。
「けっこう美味いな」
「でしょ。見た目だけじゃなくてボリュームもあるしさ」
「僕知ってますよ。この店、アニメとかのコラボも結構やってて有名なんです。とにかくコラボ商品の完成度が高いっていうので」
「へぇ、井関詳しいな。アニメ好きなの」
「まぁ嗜む程度ですが」
「え、私も好きだよ!とう◯ぶとか」
「僕はメカが好きな硬派のオタクなんで、そういうアイドルめいたものはちょっと
…
」
「なんでだよ、悪くないだろ。アニメとは違うけど妹があ◯ますハマってて少しわかる」
「えぇ、箕浦くんわかるの?意外だわ」
「君は運動にしか関心のない人かと思ってましたが」
「なんでそうなる。それなら理科なんかとらねぇよ」
「確かに〜。てかなんで理科なの?体育だけでいいじゃん」
「つぶしがきかねぇんだ。理科あれば割と需要あるって聞いたから」
「ふふ、まぁ数学ほどではないですがね」
「井関は数学と社会?英語もだっけ」
「はい。数学専攻なのでそれ以外に取れそうなものを」
「私は国語だからなぁ。それこそ潰し効かなそう」
「お前は一般決まってんだろ?じゃあ記念みたいなもんじゃねぇの」
「一応教職も受けるよ〜。まわりでも内定取り消し結構聞くし」
「穏やかじゃないですねぇ」
「井関は院行くんだろ」
「勿論。ただ取れるものは取っておこうとね」
「へぇ、真面目だねぇ」
「君も大概ですよ」
「俺さ、大学行けるなんて思ってなかったからできること何でもやってやろって思ってんの。本当は高卒で警察か自衛官だなって思ってたし」
「みんなちゃんと考えてるなぁ。私は行けるとこに行こうってくらい」
「ちゃんと就活して内定もらってんだからお前こそ偉いだろ」
「そうですよ。僕らみたいな勉強や運動しかできない奴と違います」
俺を巻き込んで井関がそんなふうに言うから、俺が怒ってみせると木庭は明るく笑った。
散々喋ってデザートまで食べ、もう食えないなとなって店を後にする。
「楽しかった〜。じゃまた月曜日に!」
「はい。僕はこっちなので、ではまた」
「おう、俺はこっち。じゃあな」
歩き出すと、横に木庭が走ってきた。
「ごめん、箕浦くんこの辺詳しい?このお店行きたいんだけど」
木庭の差し出したメモにはアニメグッズを売る店の名前が書いてある。この店なら妹と行ったことがあった。
「嗚呼、わかる。一緒に行こうか?結構わかりづらいとこにあるし」
「ほんと?わぁ、助かる!」
「どうせ駅まで歩くしな」
木庭と話していて驚いたのは、随分俺のことを知っていたってことだ。江戸川先生の助手をやってたことまで知っていた。
「いやいや、そこは有名だったからねぇ。箕浦くんと江戸川先生の間に何かあるんじゃないかって噂にもなったくらいで」
「はは、まぁ実際なんもなかったがな」
あの時は。今は、なにもないと言うとさすがに語弊がある、くらいにはなにかある。
「そっかぁ。それならよかった」
「?」
「あのね、私ずっと気になってたんだ、箕浦くんのこと。実習で一緒になるなんて思ってなかったから嬉しくて。それでさ、良かったらまた会わない?」
二人きりになったあたりから予感はしていたが、やっぱりだ。どうも俺は知らない間に人に好かれるらしい。大学に進学してからそういう感じで告白されることがけっこうあった。割と、男女問わず。
これまではなんとなく付き合ったりしてきたが、もうそんな段階ではない。なんせ、江戸川先生との関係がもう少しでうまくいきそうなのだから。
「ええと、そうだな。あー、そのキーホルダーかわいいな」
我ながら苦しい。だが木庭はいい奴だし、あまり悲しい思いもさせたくない。
「えっ、これ?あ、これね」
木庭は芝犬のマスコットみたいなキーホルダーを握ると、ケノンスキーって言うの、と笑った。
「やっぱりだめ?」
「いや、なんだ。別に飯食いに行くくらいなら全然いいけど」
「ほんと?じゃあ来週は?」
「空いてる、けど」
「じゃあ、私ここ行きたい」
スマホの画面を差し出される。
流石に、引き伸ばすのは悪いな。
「井関も誘おうぜ」
「えー、箕浦くんと二人が良いんだけど」
「俺さ、好きな人がいるんだ」
大きな瞳がもっと大きく見開かれた。時間が止まったみたいにぴたりと俺を見上げた顔が、すぐに下を向いて「なぁんだぁ」と言った。
「もう、それなら早く言ってよね。勘違いしちゃうじゃん」
「嗚呼、すまん」
「えー、告白して二分でフラれたぁ。悲しい〜なんか奢って〜」
「なんでだよ」
「だって、私、ずっと好きだったから」
そう言って俺を見た顔は、真っ赤になって涙をぼろぼろ溢した。
「うえーん」
「えっ、うわ、こらちょっと」
通行人が俺をジロジロと見ている。完全に俺が泣かせた図式だ。いや間違ってはいないのだが。
仕方なく、俺は木庭を抱き寄せた。
「こんなとこで泣くなよ、ガキじゃあるまいし」
「ふぇ、だってぇ」
胸の中でしゃくりあげる木庭の頭を撫でる。
背丈がちょうど江戸川先生と同じくらいだな、と思う。
「俺が好きなの、江戸川先生なんだ」
木庭の肩がぴくりと跳ねた。
「難しい関係だってのはわかってる。でも、俺ももう、ずっと好きなんだ」
木庭が静かになった。
「
……
木庭?」
「ずるいよ」
「へ?」
「だから、ずるいよ。そんな声で言われたら、わかっちゃうじゃん。先生のことしか、考えてないって。そんなの、諦めるしかないじゃん」
ばがぁ、と言って木庭はまた泣き出した。
仕方なくなんとか宥めながら近くの公園まで歩き、そこでようやく木庭は泣き止んだ。
ハンカチを差し出すともぎ取るように掴んで鼻をかむ。
「箕浦くんがもっと酷い奴なら良かった」
「はぁ」
「私をヤリ捨てするくらい酷い奴なら普通に恨んでぼこぼこに殴ってやるのに」
「それは勘弁だな
……
」
「優しくしないでよ。諦めつかないじゃん」
「そう言われてもなぁ」
そういえば、これまで付き合った奴らにも似たようなことを言われた気がする。曰く、自分のことを見てくれてない。好きでもないのに優しくするな。君の理想にはなれない。等々。
木庭は鼻水でぐしゃぐしゃになったハンカチを自分の鞄に突っ込む。
「さすがに洗って返す」
「あ、嗚呼」
「箕浦くんさぁ」
「はい」
なんとなく凄みを感じて敬語が出た。
「キスしてよ」
「は?」
「思い出ってやつ。こんなに何年も好きだったのにキスの一つもしないで諦められるかっての」
「いや、お前そりゃなんか違わねぇか」
「江戸川先生だと思っていいから」
「いやいや」
「お願い」
いま思えば、その時断ることもできたはずだ。でも俺もすこし頭が回ってなかった。これまで付き合った人間のことも思い出していた。
でもそいつらと、木庭の位置は全然違うってことに、少し考えたら気づいたはずだ。なんせ、俺は、もう江戸川先生と。
「だめ?」
いやこれで諦めてくれるんならまぁ、キスくらいなら。
そう考えたあの時の軽薄な自分を本気で殴りたい。
俺は木庭にキスした。
そして、それを見ていた人間がいたことを、後から知る。
【眠れなかった】
「どうしたんだい乱歩さん。酷い顔だ」
週明けの月曜日はたいてい酷い顔だろうが、今日は確かに殊更酷い自覚がある。
「
……
与謝野さん、ヘパ◯ーゼある?」
土曜の午後、たまたま出かけた先で実習生たちを見かけた。楽しそうな様子が微笑ましいと思って見ていたら、どうも雲行きがおかしい。そのまま後を着いて行ったら、箕浦くんが木庭さんとキスをした。
僕は茶色い小瓶の中の妙に甘い液体を飲み干すと、空き瓶を勢いよくデスクに置く。
「ねぇ、キスって誰とでもできるものなの?」
「はぁ?」
正直今日は箕浦くんと顔を合わせたくない。怒りで胸がムカムカする。
そりゃ、女性とお付き合いしていたこともあるようだし、全身清い身だとも思ってない。めちゃくちゃモテるわけじゃないだろうが、そこそこ本気の子が出てくるだろうなってのもわかる。
でも。
僕は机に突っ伏す。
僕とのキスはそんな軽いものだったのか。
誰とでもできるから、僕ともしたの?
頭の中をそんな言葉がぐるぐると循環して出ていかない。考えたくなくてお酒をたくさん飲んでみたけど思考は冴え渡り気持ちが悪くなっただけだった。
本当に彼のことになると駄目だ。ここ最近、ずっと箕浦くんの挙動に振り回されてる。
与謝野さんが隣でため息を吐いた。
「乱歩さん、具合良くなるまですこし保健室に行っておいで。あの子にも話つけとくから」
「へ?」
「そんな状態で授業も指導もないだろう。話せば誤解は解けるだろうさ」
嗚呼、なんでわかっちゃうんだろう。与謝野さんには何も言ってないはずなのに。
僕は力なくうん、と答える。
「乱歩さんのことはずっと見てきてるからね。任せときな」
与謝野さんはそう言って、打ち合わせ中の実習生たちのところへ歩いて行った。僕はそれを見送って、席を立つ。
二日酔いの頭がガンガン鳴るように痛んだ。
【僕だけに】
打ち合わせをしていると、与謝野先生に呼び出された。
「なんですか?」
「あんた、週末なんかあっただろう」
「へ?」
「自覚なしかい?乱歩さんが酷い有様でね。このままだと授業に響くから、さっさと片付けてもらいたくってねぇ。ちょいと一限の間に保健室に行ってきておくれよ。今日は三限だから間に合うだろう?」
「まぁ、間に合いますが」
心臓がどくりと波打つ。
まさか。土曜のことが、先生に?
「乱歩さん、どうも最近おかしいんだ。きっとあんたのせいさ。どうだい、頼めるかい」
「
……
そういうことなら、わかりました」
眩暈がする。
背中に木庭の視線も感じる。
莫迦なことをした。
自分の中途半端な態度がきっと、先生を傷つけた。
江戸川先生のデスクをちらと盗み見るが誰もいない。きっと保健室に行ったのだ。
「すいません、俺ちょっと急用が。資料デスクに置いといてください」
国木田先生に断りを入れて、職員室を出る。
早く話がしたいのに、保健室がどんどん遠ざかっていくような気がした。
扉を開けて、一番奥のベッドを覗く。
江戸川先生らしき物体が白いシーツに包まっている。
「先生、俺です」
返事がない。
呼び出された理由は定かではない。
でも、心当たりは一つしかない。
きっと、見られていた。
「言い訳、させてください」
本当に過去の自分を殴りたい。だが今はそんな事言ってる場合じゃない。
「木庭とは、何もないです。告白されて断ったら、思い出にしたいからって、キスしてくれって頼まれました。それで」
「それで、キスした」
硬く強張った声がした。
「見てましたよね、たぶん」
「
……
悪いと思ったけど、気になって後を追った。木庭さん、泣いてるみたいだった」
「俺が振ったから」
「
……
そう」
先生の身体がもぞもぞと動く。ようやく頭が見えた。
「君は、キスが好きなんだね」
声が震えていた。
堪えきれなくなってシーツの上から手を掛ける。こちらへ身体を引っ張ろうとすると強く抵抗される。
「君は、誰とでもできるんだ」
「違う、俺は」
「違わないだろ!」
ばさ、とシーツごと腕を振り払われた。
先生は壁際まで後退して、俺から距離を取る。
その顔が、真っ青だった。
「僕が莫迦だった。君にとって僕は、すこし特別なんだって勝手に思い込んだ。僕はいつもそうだ。僕の明晰なはずの頭脳はこういうときいつも間違える。あの人の時も、君の時も。僕は、僕は
……
っ」
綺麗な色の瞳がぼろぼろと涙を溢した。
君なんか、好きにならなければよかった。
嗚呼、先生。俺は莫迦だ。
許さなくていいから俺を殴ってください。
じゃないと、俺。
「先生」
伸ばした腕は叩き落とされた。構わず伸ばしたら今度は蹴られた。
「先生」
「煩いっ、こっちにくるな」
「先生、俺が好きなの、先生だけです」
「嘘だ」
「嘘じゃねぇ」
先生の肩がびくりと跳ねた。
「キスのことは、謝ります。俺が莫迦だった。軽率でした。真逆、先生が見てたなんて思わなくて」
「見てなければ、いいと思ったのか」
「少なくとも、もう少しうまくやりました」
「最低だ」
「先生」
俺はベッドにあがって、両腕を伸ばす。先生はますます身体を縮こまらせて身を固くする。
「先生、本当ですか。俺のこと、好きなんですか」
壁に腕を着いて先生を囲い込む。
「教えてください。俺のこと、そんなに好きでいてくれたんですか」
逃げ場を全部奪って追い込む。
確信と罪悪感で眩暈がする。この勝負は。
「前も言ったじゃないか」
もう抵抗はない。
「僕だけにしてくれないと、厭だ」
腕の中に抱きしめた先生は、細くて、折れそうで、温かかった。
「はい、もう、二度としません。だから」
俺のものになってください。
そう囁いた。
先生の腕が俺をぎゅう、と抱き締めた。
【ぼんやりしている暇はない】
腹の奥から溜息が出る。
「えらく凄みの効いた溜息じゃないか」
与謝野さんが昼ご飯を食べながら呆れたように言う。
「その様子じゃ、うまくいったみたいだね」
僕は購買で買った菓子パンを開ける。
ふわりと甘い匂いがする。
「うん、まぁ。助かったよ」
「あの子のことになるとほんっと歯切れが悪いねぇ。なんだい、まだ迷ってんのかい」
「
……
うん」
箕浦くんの気持ちが真っ直ぐ伝わって来たから、かえって躊躇う気持ちが強くなってしまった。
「あんなに乱歩さんのこと慕ってるのに、何を迷うことがあるんだい」
「そりゃ、嬉しいよ。僕だって応えたいと思ってるし。でも、やっぱり駄目なんだ」
「
……
學園長かい」
答えられなかった。
僕を抱き締めてくれた腕の中で、箕浦くんを恋人にするって答えをどうしても出せなかった。
俺のものになってという箕浦くんに、僕は答えられなかった。
嬉しいのに、前に進むのが怖くなってしまった。
學園長のことは、少しずつ乗り越えられる。
でももし、この先、箕浦くんまで僕から離れてしまったら。彼はまだ若い。こんな熱に浮かされたような想いはすぐに消える。そうなったら、きっと違う人のところに行ってしまう。そんなの、僕には耐えられそうにない。また呪詛を吐いておかしなヰ界を生み出してしまいかねない。
「怖いんだ、僕。先に進んだことがないから」
与謝野さんが目をまんまるく見開いて、直後に吹き出した。
「あっはっははは!そんなことで!」
「そんなことってことはないだろ、僕に取っては一大事なの」
「誰にもわからないよ。たとえ乱歩さんでもね」
「僕でも?」
「そう、その計り知れないほどよく働く頭があったって、あの子の気持ちひとつ推し量れないじゃァないか。人とのことは考えるだけ無駄さ。なるようにしかならない。それでも妾は、あの子がそう簡単に心変わりするようには見えないけどねぇ」
昼一の授業があるから、実習生たちは職員室にはいない。僕は何となく、彼らのデスクを眺める。
「大学で離れてる間もきっと乱歩さんのことを考えてたんだろ」
あの子の熱量は変わってないから、すぐにわかったよ。
そう言ってお弁当の唐揚げを僕の口に突っ込む。
「分かったらちゃんと仕事しな。乱歩さんがしゃんとしてないとこの學園は成り立たないンだから」
そう言って自分も残していた卵焼きを口に放り込む。
まぁ、それもそうだ。
そこへ失礼しまーす、と幸田さんが入ってくる。
あの様子だと、ヰ界に動きがあったんだろう。
「仕方ないなぁ。そんなに言うならひとつ愚かな幼児たちを導いてやらなくちゃ」
僕は唐揚げを飲み込みながら懐から眼鏡を取り出す。
「さぁ、早速終わらせよう!」
【俺に気があると思いますか】
「
…
あ、織田先生」
旧校舎の裏手に見回りに行ったら、織田先生が一服していた。
「おう。お前も吸うか?」
「
……
えっと」
煙草を吸う、と言ったことはないはずだが何故かバレた。
まぁここなら生徒の目にもつきにくいだろう、と織田先生が差し出した煙草を一本もらう。ライターを借りて火をつける。乾いたタールが鼻をつく。
「どうした、浮かない顔だな」
「ええ、まぁ」
与謝野先生ほどではないにしろ、織田先生は江戸川先生と仲がいい。というか江戸川先生はたいてい誰とでも仲が良いのだが。
「江戸川先生って、俺に気があると思います?」
何となく口に出してしまった。
織田先生は少しだけ間を置いて、嗚呼、と言う。
「あるだろうな。お前のことを話すときは酷く楽しそうだ」
「キスしました」
「ほう」
「絶対俺のこと好きだと思うんです」
「なるほど」
「けど、どうもわからなくなっちまって」
同性だとか、学生と教師だとか、色々不味いことはあるはずだったが、織田先生は特に何も言わなかった。
「お前、相手に苦労したことないだろ」
「今回くらいすね」
「羨ましい話だな。彼奴のことだ、柄にもなく教師としての役目とか立場を考えてんだろう。或いは、まぁ彼奴も人間だってことか。あまり気にするな」
「押し切れってことですか」
「江戸川先生は押しに弱いぞ」
「それ経験論ですか」
「簡単な推論だ」
じり、と煙草の灰が落ちた。
「學園長のことが気になるか」
「ええ、まぁ」
「確かに學園長と江戸川先生は親密だが、家族に近いものだと俺は思う。たとえ彼奴が恋情を抱いていたんだとしても、叶う事はないだろうな」
「よくご存知で」
少し妬けるくらいに、先生のことをよく知っている。もしかして、以前先生と何かあったのか。
「だから、押してみろ」
「織田先生のそれ、なんなんですか。面白がってます?」
「彼奴にも拠り所がいるだろう。お前は何かと丁度良いんだ」
「丁度良い
……
」
「庇護欲を唆るというかな、自分が何とかしてやらなけりゃ、という気になる」
「俺、そんな頼りないすか」
「頼りないというのとも少し、違うが」
そう言って、織田先生は俺のことをまじまじと見る。
「世話を焼きたくなる、が近いか」
「それを言うなら江戸川先生だ。あの人本当に何も出来ないですよ。一体どうやって生きてきたんだか」
「學園長や両親が支えてきたんだろ。だがそろそろ自立してもいい頃だ」
「三十路を過ぎて?」
「お前が自立しすぎなんだよ」
織田先生はポケットから携帯灰皿を出して煙草を揉み消した。差し出されたので俺も吸っていた煙草を突っ込む。
「まぁ、お似合いということだ」
「全然わかりませんが」
「そう膨れるな。大丈夫、彼奴はお前に気があるよ。それは保証する」
口すすいでから戻れよ。織田先生はそう言い残して立ち去った。
俺は江戸川先生の態度をどう考えたらいいのかわからないまま、また見回りに戻った。
【言葉遊び】
幸田さんの話は凡そ予想通りだった。
ヰ界は大きくなっても小さくなってもいない。
ただ、数だけが少しずつ増えている。
立ち入り禁止の看板も、数が増えたせいで目立つようになって来た。生徒会の中でもヰ界に這入って怪ヰを消した方がいいという強硬論が勢いづいているという。
僕はそれには反対だ。小さなヰ界を消してもイタチごっこになるだけだから。
根本にある問題を解決しないと、今回の騒動は終わらない。
幸田さんにはもう少し生徒会を抑えておいて貰うことにして、僕は職員にも話を聞くことに決めた。
「アナグラム?」
「最近生徒の間で流行ってるらしくてな。好きな相手の名前をアナグラムで別の名前にする。で、その名前をぬいぐるみにつける。それが相手にばれなけりゃ恋が上手くいくらしい」
他愛もない言葉遊びだろう。織田くんはそんなふうに言った。ヰ界が増えてる件で生徒の噂話を耳にしてないか、と尋ねたらそんな話がでてきたのだが、どこか引っかかる。
「赤羽」
「赤羽?」
「いや、
赤羽梨子
あかばりこ
って名前、どこかで聞いたことある」
「嗚呼、それなら一人思いつく。
木庭朱莉
こばあかり
だ」
怪異と同じアナグラムをもつ実習生。
僕はこっそり国木田のところで話をしている木庭さんを見る。赤羽さんの面影は全くない。
その首に掛かったストラップに、小さなマスコットがついている。芝犬だ。まさか彼奴についてる名前が箕浦くんの名前のアナグラムだったりするのか。
「江戸川先生
……
?」
「ありがとう、助かった」
「嗚呼、役にたったなら何よりだ」
そういえば、と織田くんが振り返る。
「木庭で思い出したが、あいつ確か妙な趣味があったな」
「死体愛好とかじゃないだろうね」
「いや、もう少し穏便だ。生徒の頃から怪談話が好きで、いろんなやつに聞いて回ってるらしい。将来小説を書きたいからネタに使いたいとかで。確かペンネームも決まってたな」
「それ、もしかして」
「「赤羽梨子」」
かちり、と歯車のはまる音がした。
【君にしかできない】
「木庭が?」
放課後、江戸川先生に準備室へ呼び出された。赤羽莉子とアナグラムの件を話す先生に、俺は思わず聞き返した。
「じゃあ全部木庭が悪いってことですか」
「木庭さんに學園や生徒を害する意図はないだろ。怪ヰの特性が問題なんだ」
先生の話では、赤羽は怪談話の好きな小説家という体を成している。その存在自体が、怪ヰを生み出す装置になってしまっている、らしい。
「彼女は木庭さんの理想を抽出したような存在なんだ。怪談を経験し、怪談を書き留め、定着させていく。この循環を止めないと」
「自走式のヰ界生成装置みたいな感じですかね」
「そういうこと。放っておけば學園全体が赤羽さんの書き留めたヰ界だらけになってしまう。そこで今回の件は君に協力を頼みたい」
「俺、ヰ能ないですけど」
「問題ない。お前に赤羽が惚れてるってことが重要だ」
隣から織田先生が首を突っ込んできた。ぎょっとする俺に先生は何も言わずに頷く。
「今回は規模が大きいし、かなり特殊なヰ界だからね。生徒会には頼めなかったから、織田くんに手伝って貰うことにした。ヰ能もあるし、まぁ、君ら仲が良いみたいだしね」
「なんすかそれ」
内心の動揺を悟られそうで変な汗が出た。江戸川先生は俺に構わず、準備室の入り口を見る。すると先生の視線の先でするすると扉が開く。
扉の向こうに、木庭が立っていた。
「あの、失礼します」
「やぁ、よく来てくれた。入ってくれ」
木庭を直視することができず、さりとて先生とも目を合わせられず、行き場を失った俺の視線は織田先生の肩の辺りに落ち着いた。
「怪ヰが木庭さんのペンネームを名乗り、ヰ界を纏って歩き回ってる以上、木庭さんに協力してもらう方が早いと思ってね」
俺のことはお構いなしに先生は話を進める。怪談が好きってだけあって木庭は平然としているが、それにしてもヰ界には馴染みがないはずだ。
「木庭は大丈夫なのか?ヰ界って結構ヤバいぞ」
「うん。でも私が原因って聞かされて責任感じてるの。箕浦くんにも悪いことしたし、私にも協力させてほしくて」
「そういうわけだ、観念したまえ箕浦くん。今回の事件解決は君が主役だ。君にしかできない。題して『學園探偵のヰ界事件簿』!わくわくするだろ?」
満面の笑みで問いかけてくる先生に、嗚呼この人はこういう人だった、と久々に思い出した。
「
……
で、どうしてそれが、こうなるんです!?」
気がつくと台本を握らされていた。そこには「學園探偵のヰ界事件簿」と印字され、俺と赤羽がキャスティングされている。
「赤羽さんの本質は木庭さんの願望だ。君と結ばれたいという想いと、怪談への好奇心、さらに自分の夢の職業との合わせ技なんだよ。だから、彼女の願望を叶えてやることが、赤羽さんを消失させる唯一の道だ」
「しかし、先生なら無理矢理消すことだって」
「赤羽さんがこの世界と関わってる方法を思い出せ。彼女は彼女を包むヰ界とぴったり同化している。だとしたら彼女のヰ界に入るには、どうしたって彼女と同化するしかない」
「ちょっと、生徒に手ェ出せっつってます!?」
「原理的にはそれでもヰ界の膜を突破することはできない。だから、まぁ俗な言い方をすれば成仏してもらうのさ」
「で?この台本がそうなんですか?」
「それは木庭さんが赤羽莉子として書いてる脚本だ」
「は、え?」
「ヰ界を生んだ本人自らが筋書きを決めた台本、ということだ。そこには彼女の願望が結実している」
木庭を見ると目が爛々と光っている。
「
……
で、俺ですか」
「君には探偵役として赤羽さんと校内ヰ界探索に行って貰う。そこで数々のヰ界や怪ヰと対面し謎を解決。最終的に學園すべての謎を解いて原典怪ヰを消滅せしむる、という筋だ」
「基本的に探偵と相棒の間には異質とも言えるほどの濃い関係が成り立つのが普通です。わたしの書いた二人も例外ではありません」
てことは、役柄上俺と赤羽は何らかの意味でかなり親密な仲ではあるわけだ。
「木庭、お前はそれでいいのか?」
「いやぁ、自分の書いたものが三次元で見られるなんて夢みたいでむしろわくわくしてる!」
「お前
……
メンタル強いな」
そういうわけで俺は赤羽を助手として學園のヰ界めぐりをやらされることになった。基本的に俺の事情は一切関係なしだ。
「君ならできる。大丈夫さ、この僕が言うんだから間違いない!」
江戸川先生に満面の笑みでそう言われちゃ、仕方ない。
俺は台本を握りしめる。
「やってやろうじゃないですか」
「ふふ、そうこなくっちゃ!」
【信頼と信用】
「先生はいいんですか?私が言うことじゃ、ないかもしれませんけど」
翌日の放課後、ヰ界探索に出た箕浦くんと赤羽さんを遠くで見守りながら、木庭さんはそんな風に言った。
「何が?」
「知ってます、私。先生と箕浦くんがいい感じの関係だって」
「そ、え?」
「というか、見てればわかります。距離感とか、話し方とか、表情とかで。伊達に何年も箕浦くん推してないです」
だから、どうして平気なのかなって。
木庭さんは少し不貞腐れたように言う。
「なぁんだ、そんなことか」
「でも
……
」
「平気なわけじゃないよ」
あの時の動揺は本物だ。二日酔いでぐだぐだになってる姿は木庭さんにも見られている。
「君とキスしてるのを見た時は辛かった」
「げ、見てたんですか!?あれはあの、その、忘れ形見っていうか思い出っていうか腹いせっていうか」
「うん、聞いた。確かに厭だなと思ったけど、僕、嫌いになれなかったんだ、箕浦くんのこと」
真っ直ぐに好意を向けてくれる彼が僕を蔑ろにするつもりであんなことするわけがない、そう思ってしまった。本当のところはどうか知らない。
「彼の、反射的に人を助けようとするところを、僕は信頼してるんだ。それが箕浦くんの本質だから」
保身をかなぐり捨てて駆けつけるような、真っ直ぐな魂の有り様が僕は好きなのだ。
それはどの場所でも、誰が相手でも、きっと発揮される。
「だからまぁ、浮気とか、そういう方面での信用はあまりしてないが、信頼はしている。たとえ僕を裏切ったとしても、彼は人を救うために走るだろうから」
隣でしゃがみ込んでいる木庭さんが、惚けたように僕を見た。
「先生、人はそれを愛と呼びます」
「国語が専門の君が言うならそうなんだろうね」
「いやもう、なんなんですかそれ!?自分に戻ってこなくてもいいってことですか?そんな利他的な愛があるんですか!?台本に書き加えていいですか!?」
「ややこしくなるから止めてくれ」
「じゃあこの件が片付いたら本にします」
「勘弁してよ
……
あ、動くよ」
トイレの怪談は片付いたのか、箕浦くんと赤羽さんは次のポイントへ移動していく。僕らも赤羽さんに見つからないように後をつける。箕浦くんはさりげなく赤羽さんをサポートしながら、一応台本通りに進めているようだ。
「それにしても、君こそもっと願望を反映させてもよかったんじゃないの」
「だって赤羽莉子は私であって私じゃないんですよ?私以外の女の子といちゃいちゃしてる箕浦くんなんかみたくないです」
「よくわかんないなぁ。じゃあ犯人についても?」
「勿論です。むしろ如何に赤羽莉子を綺麗に消滅せしむるか念入りに練りましたから」
にやり、という形容が似合う顔で笑う。
「なかなか渾身の作品になったと思いますよ」
「自己言及的な物語、というやつか?」
「少しトリッキーですけど、赤羽ならありかなと思ったんですよね。とにかく探偵小説には探偵と助手、そして犯人が絶対必要です。そして犯人は必ず登場人物の中から現れなくてはいけない。だとするとこの際、赤羽自身を犯人にしてしまうのが、まぁ実態にも則しているかなって思ったんですよね。味方が実は犯人でした〜っていうのはありふれた手ではあるんですけど、彼女自身がそれに気づき、自らを消すという判断をする。そこが一番重要です」
「君、意外と賢いよね」
「お褒めに預かり恐縮ですけど、先生ほどじゃないですよ」
「そりゃあ君、僕を誰だと思ってるの」
「勿論、江戸川乱歩大先生です♡」
私が作家デビューしたら、絶対サイン会来てくださいね!木庭さんはそう言って笑った。女の人は、という話は好きではないが、与謝野さんも、木庭さんも、僕からみるととても強かな人たちだ。
「怪談をすべて回る必要はないんです。赤羽莉子がその不自然さと、自分のノートとの符合に気がつく程度で」
台本を書き上げたとき、木庭さんはそう言った。そして、この次のヰ界を調べているときに、それに気づくはずだ。
「いよいよだね」
「はい」
流石に少し緊張しているように見える。
「大丈夫。みんな君のことを信じている。だから君も、箕浦くんや僕らを信じて」
「はい」
「さて、お手並み拝見といこうか」
僕らの視線の先で、箕浦くんと赤羽莉子は七つ目のヰ界へ踏み込もうとしている。日は既に暮れていた。
【學園探偵のヰ界事件簿】
赤羽は学園の庭に毎年咲く牡丹に関する怪談を調べている。こうして間近にみてみても、生き生きとしていて彼女が怪ヰだってことがまだ信じられない。
「やっぱり、この牡丹を最初に植えたのは學園長、てことで間違いなさそうですね。でも、言うほど怪しいところがあるようにも見えないです」
七つ目にあたるこの怪談について、彼女はかなり詳細に調べている、ことになっている。
「もしかすると、いまの噂とは違う形だったのかも」
「
……
というと?」
「箕浦先生が生徒だった頃、牡丹に関する噂が一度盛り上がったことがあるはずなんです。このノートによると、時期はずれに咲く牡丹に願いを告げれば願いが叶う、でも自分はそれに呑まれてしまう」
「
……
たしかにそういう噂はあったな。けど、赤羽はどうやってそれを調べたんだ?当時を知る人に聞いたのか?」
勿論、これは木庭の仕込みだ。赤羽が知り得たはずのない話をノートに書いておく。その違和感から、これまでの怪談がノートの記述と符合していることに気づく、という筋だ。
「え?だって先生だって知ってますよね。前に私に話してくれて
……
」
「俺は話してないぞ」
「嘘です!私、知ってるんです、先生が牡丹の花壇を世話していたことも、その時に江戸川先生と仲良くなったことも」
「まるで見てきたように言うな」
「見た?そんなわけないです、だって私は」
からくり人形のネジが緩み切ったかのように赤羽はゆっくりと動きを止めた。
おかしい。台本にはなかった動きだ。
「
……
赤羽?」
「ノートが変です」
「ノート?」
「私が調べた訳じゃないことが、たくさん書いてある。でも、私はそれが自分の記憶だと思い込んでるみたい、どうしよう、先生、私変になっちゃったんですか?」
「大丈夫、落ち着こう。お前の記憶と、ノートの記述を比べていくんだ」
「おかしいと思ったんです、私が先生に送ってもらった日から、ノートに書いたことがどんどん怪談になってて、最初は噂話をネタにしたいから面白くって集めてたけど、やっぱり変なんです。私が経験してもいないし、聞いてもないことが、びっしり、書いてあって」
不味い、こんな台詞は木庭の筋書きにはない。赤羽はもっと理性的に自己言及に気づくはずだ。
「先生、私、わたし、わたし、わた、わ、私は、私は赤羽莉子、先生、たすけて」
「落ち着けよ、大丈夫だ。お前は赤羽だ」
「先生、私いつも学校からはじまるの、私、学校以外にいないの、先生のことが好きなの、でもずっと前からな気がする、でも私先生のこと、どうして知ってるの?」
自分自身の異常さを飲み込めていない。視点がバグってるらしい。俺は念のため先生が居るはずの木の辺りを確認する。恐らく異常は伝わっている。大丈夫だ。
「赤羽、お前は俺の生徒だ。だから俺のことを知っている。お前のノートはお前が書いた。誰かに聞いた話を」
「でも、でも、じゃあ、じゃあどうして」
赤羽の両腕を掴む。焦点を結ばない瞳が不意に俺のことを真正面から覗き込んだ。
しまった。
気づいた瞬間、全身が動かなくなった。金縛りだ。
「先生、先生は知ってたの?このノートのこと、このノートがなんなのか、どうして教えてくれなかったの?どうして、ど、ど、」
「赤羽、違うだろ、お前は學園の怪談を調べて、解決して、學園を平和にしたかったんだろ?ノートはそのために必要だったんだ」
声が掠れてうまく出てこない。
赤羽は片手に握りしめていたノートを俺の方へ差し出した。
「ねぇ、それじゃこのノート、見てみてください」
赤羽の手が本を開く。
そこに毒々しい紫色がトグロを巻いている。
ヰ界だ。
「先生、よく見て、ここになんて書いてあるか」
距離が近すぎる。このままだと呑まれる。
「赤羽、違うだろ、お前は」
動かない身体にノートが迫ってくる。鼻先にくっつくのではないかというほど近づいて、だがそれは止まった。
「いやぁ、よくやった箕浦くん。あとは任せろ」
その時確かに先生の声がした。
声と共にノートがはたき落とされ、その渦の中に赤羽もろとも先生が突っ込んでいく。
俺は動かせない腕に必死で力を込めた。動かない。くそくそくそ。なんのための身体だ。結局また先生を守れない。
「先生、先生!」
届かないはずの声を張り上げて、俺は先生の名を呼んだ。
【事件は解決されるもの】
「まぁだ落ち込んでるの?」
赤羽莉子という怪ヰを消滅せしめた翌日、準備室にやってきた箕浦くんの顔色はどす黒かった。
「俺のせいです、結局先生に頼ることになっちまって」
「もっと大規模なヰ界の発生もあり得たから、上出来だろ」
「全部、お見通しですか」
「当たり前じゃないか。真逆、わかってなかった?」
赤羽莉子の暴走は台本にはない。だが充分予想はできたし、赤羽の力の強さから言って學園全体を飲み込むヰ界となっていてもおかしくはなかった。
「赤羽莉子が自身の存在に懐疑的になる段階で、彼女を包むヰ界は肥大するはずだと読んだ。彼女は彼女の世界にすべて取り込もうとするだろうからさ。そこでようやく僕らのヰ能が役に立つというわけだ」
「どうして先に言ってくれなかったんですか」
「どうしてってそりゃ、木庭さんに悪いし」
「俺には悪いとか思ってくれないわけですか」
「どうして?だってそうなったら君は必ず赤羽さんを救おうとするだろう。僕は君のそういうところを信頼してるんだ」
「それ莫迦にしてませんか」
「違うよ、信頼だ」
まぁ、結果的に織田くんや国木田、与謝野さんに頼んだ応援は無駄になってしまった訳だが。
「俺は本当に情けないです」
「もう、いい加減元気だしなよ。元気が出るおまじないをしてあげようか」
箕浦くんは身体をぴくりと強張らせる。こういうところがわかりやすいっていうんだ。まったく。
僕はソファに腰掛けた箕浦くんのそばにいくと、ぽん、と頭に手を置いた。
箕浦くんは拍子抜けしたような「はぇ?」という声を上げて立っている僕を見上げた。
「なぁに、キスでもしてもらえると思った?」
にやりと笑って見せると、今度は不貞腐れた箕浦くんに腕を掴まれた。無理矢理抱き寄せられてあっという間にソファに組み敷かれてしまった。
「思ったんで、してもらっていいすか」
確かに、話していなかったのは僕が悪かった、ような気がしないでもない。
でもまぁ、いいか。
僕は彼の頬を撫でると首に腕をかけて抱き寄せ、乾いた唇にキスをした。
【そして、それから】
細い指が布を使ってビーカーを磨き上げる。水滴の消えた硝子の器は一瞬光を反射した後で作業台のトレーの上に置かれた。
数分前から続く作業を俺は隣で手伝っている。饒舌な先生もこの作業のときは無言だ。布が擦れる甲高い音だけが理科室に響く。
「夢を見ました」
空いた窓から生徒たちの声が微かに聞こえる。
「先生がいなくなってしまう夢」
「へぇ、面白いじゃないか」
明日で、実習が終わる。終わってしまう。
「先生はいつも、誰かのために動きますよね」
「そう?僕は思ったようにしか動いてないけど」
「我儘に見えるが、そうじゃない」
離れたくない。
「でも」
俺は手元のビーカーを置いて、すぐそばにある先生の頬に触れる。それは懐かしい感触だった。いつか、この頬に触れたのだ、きっと。この生ではないときに、たとえば、あの夢の中で。
「あなたはもう、誰かのために苦しむ必要はないんです。今度こそ、あなたの人生を生きるべきだ」
閉じられがちな瞳が光を映して輝く。
とても綺麗だった。
ああ、やっぱり俺は、いつかこの瞳を見たことがある。
「君はときどき、とても懐かしい気がする」
優しい声だった。
「どうしてそんなことを言うのかな。僕はいつだって、僕のために生きてるよ」
「どうしてすかね。でも、そう思った」
腕を伸ばして跳ねっぱなしの髪を撫でる。
「ちょ、ちょっと、やめてよ」
「なんか、こうしたことがある気がするんです。いや、夢の中できっと、俺はこうした。あなたを助けたくて、走って、走って」
先生の細い体が胸の中に飛び込んできた。懐かしい。どうしてかわからない。でも。
「先生、いまここで返事をください。駄目なら俺、もう先生のことは諦めます」
俺は先生をしっかり抱き締める。
「好きです。三年前からずっと。俺、少しは大人になったと思います。だから、だから」
言葉がでない。
また拒まれたら。答えをもらえなかったら。駄目だったら、本当に諦めるつもりなのか、俺は。
「君にはほんと、敵わないなぁ」
くぐもった声がした。腕を緩めるとその間から先生が見上げている。綺麗な翠色が日光を反射した。
「君のそういうとこ、大好きだよ。昔から」
息が止まる。
ずっと前から知っている。この人を。この瞳を。俺は。
「仕方ない。君の恋人ってやつになってあげる」
嗚呼そうだ。俺がずっと見たかったのは。
先生は俺を見上げたまま、笑った。大きな牡丹が花開くように、鮮やかに。
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