ロボトミー社のベテラン社員は、滅多なことでは驚かない。警報が鳴ったと同時に自分のいる廊下にアブノーマリティとその眷属が湧いてきた時でさえ、驚きよりも諦めが先に来るくらいである。
だからその時ライアンは、滅多なことでは声すら上げなくなった自分自身に感謝した。彼女は勤続五年目である。五年も働けているのなら、この会社では充分にベテランと言えた。
「今、仮眠室って空いてますか?」
咄嗟に振り返ってしまった自分を呪いながら、ライアンは声を掛けてきた後輩を見上げた。ヨハンは眉を下げ、困ったような顔をしている。
「ホーエンハイムさん、研究室で椅子に座ったまま寝ちゃってて……。寝るなら仮眠室に行ってくださいっていつも言ってるんですけど」
「空いてるけど……」
ライアンは適当に頷いた。本当は今しがた名前の上がった、この場にいる第三の人間を視界に入れないようにしたかったが、できなかった。ライアンの背丈はヨハンの胸辺りまでしかない。そして第三の人間ことホーエンハイムは、ヨハンの胸元にしっかりと抱えられていた。ぐったりした上半身をヨハンの胸に預け、両膝の下にヨハンの腕を入れられて、大きく開脚した状態で。
「あられもない」とかいう、この上司に使いたくもない形容詞が脳裏に浮かびかけ、ライアンは慌ててそれを打ち消した。ホーエンハイムと言えば、偏屈極まりない我らが上司であり、コントロールチームの誇る優秀な研究員である。彼が優秀なのは疑いようのない事実だが、その高慢ちきな性格と話し方のせいで、口を開くたび部署どころか支部の内外にまで敵を作り、ライアンたちエージェントがとばっちりを食らうこともしばしばあった。そのホーエンハイムは今、完全に力の抜けた体をヨハンに任せ、とんでもない姿勢を取らされたまま眠り込んでいる。
不意に、ホーエンハイムの背がずり落ちた。ヨハンはすぐに気付いて「おっと」と言いながら弾みをつけてホーエンハイムを抱え直した。白衣の肩が大きく一度、がくんと揺れる。かけたままだった眼鏡がずれて、そこから閉じた瞼と濃い隈の入った目元が覗いた。なんだか見てはいけないものを見た気分になり、とうとうライアンは目を逸らした。
「……右腕だかなんだか知らないけど、その持ち方はやめてやった方がいいって」
くるりと振り返って歩き出す。職員なら誰でも知っているはずの、仮眠室への道を先導する。案の定ヨハンはあとをついてきた。
「あ、それはそう思ったんですけど……でもホーエンハイムさん、椅子に座ったまま机に突っ伏して寝ちゃってたんですよね。その状態で後ろから抱えようとしたらこうなっちゃって」
やはり困ったような声でヨハンは言う。手が空いていたなら、彼は頭を掻いているだろう。恐らくは表情も、いつもの苦笑いだ。ホーエンハイムの発言を隣で聞いている時と同じように。
「ほら」
仮眠室の扉を開けてやると、ヨハンは「ありがとうございます」と会釈してから扉を潜った。扉を閉め、ライアンはすぐにその場を去った。どっと疲労が押し寄せてきて、大きな溜息を吐き出す。残業はもうやめにして、今日は早く寝よう。退勤だ、誰に何と言われようと。そんな決意を胸に、彼女は足早に宿舎を目指した。
後日。
「あーあの、激しめのそういうビデオでたまに見る体位みたいな運び方」
何の躊躇いもなくジュードが言い放ち、ライアンは同期の頭を思い切り叩いた。ランチの最中に持ち出すような話ではなかったかもしれない。ランチボックスに入っていた大好物の油淋鶏を丸のまま呑み込んでしまったこともあり、ライアンは非常に後悔していた。
忘れるまで自分だけで仕舞い込んでおくにはあの光景は衝撃的に過ぎ、結局誰かに吐き出してしまいたくなったのだ。しかしライアンは人選を間違えてしまった。同期のジュードはなんと、ライアンと同じ状況に遭遇したことがあるという。その上彼は、ライアンがあれだけ言葉を選んで説明したにもかかわらず、例の運び方を露骨過ぎる言葉で表現した。
「じゃあアイツ、日常的にあの運び方してるってこと?上司を?」
「ホーエンハイムさんってよく研究室で寝落ちしてるらしいからなあ」
「……それもヨハンが言ってたんでしょ」
「正解。どうして分かったんだ?」
ライアンはそれには答えず、大きく溜息を吐いた。ここのところ溜息ばかり吐いている気がする。
「これからあの二人と、どういう顔して話せばいいんだ……」
「今まで通りでいいと思うけど」
お気楽な同期が羨ましくなってきた。これからもあの光景に遭遇する可能性があるってことを、コイツは理解しているのだろうか?
「今度部署で飲み会する時はホーエンハイムさんに高い酒奢ってもらう。今決めた」
「どうしてそうなったのかはさっぱり分からんが、反対する理由は無いな」
コイツに酒は一滴たりともやらん。今決めた。ライアンは固い決意を胸に、午後の業務に励むことにした。
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