東々という場所は、つねに明かりが灯っている。空をみあげれば星、月、見下ろせば空港の滑走路の誘導灯が等間隔にポツポツと続いている。こんなにも明かりがあるけれどもひとびとのこころというものはこんなにも重たく暗がりのなかに仕舞われている。肉体の内側はきっと暗く、しずしずと、粛々と臓器はその役目を果たしている。はたしてこころというものはどこにあるのだろうか? 重たくなったり暗くなったり軽くなったり明るくなったりするこころというものは。
汝みずからの無知を知れ。デルポイ神殿にてアポロン神から神託を得た。「ソクラテスにまさる賢者はいない」と。けれどもソクラテスは「神は何を言おうとしているのか」と疑問を持った。ソクラテスが無知の自覚をしていたからである。専門家というものは専門の知識ではすぐれているが、人として知るべき善悪の重大な問題については、それ以外の彼らと劣らず無知であることをソクラテスは自覚していた。
ここには専門家と呼ばれる人が大勢いるけれども(俺ももちろんその中のひとりだということを知っているが)サイコパスのような良心や共感性がごっそりと欠如しているような人種はいないはずだが、研究対象が人間であるならそれは分からない。人間の好奇心はそのラインをあえなく越えてしまうのだろうか。それとも倫理と秩序をもって苦々犯罪者を人として接していくのだろうか。
暗い窓を人差し指でなぞるとその部分だけ色が濃くなる。濃くなって、明かりがよりいっそう強くなる。暗い空は雨が降っていた。水滴が窓をなでて下へと落ちていく。見慣れた赤いランプが激しく点滅していた。俺はあの場には行けない。むしろ彼らに武器を渡して人間を傷つけろと言い乍ら見送るのだ。これほど残酷な差があるだろうか。
捕らえられた苦々犯罪者と互いの理性をもって、対話しているのだろうか。そもそも苦々に手を出した時点で、〝人間とみとめられていない〟のだろうか。組織は苦々ももとに楽々を開発した。苦々に対抗するために。けれども楽々を摂取したアンチドートや研究員は、まっとうに人間なのだろうか。一歩間違えば、俺たちも苦々側に落ちる。それを自覚していようが、いなかろうが。飛白マルタはアンチドートも研究員もまっとうではないと言っていた。理性をもって楽々を摂取するとはどういうことなのか。そう考えたころ、スマートフォンが手の中でわずかに震えた。
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「えーっ戸叶先生、またお仕事引き受けちゃったんですか?」
「もう少しで終わりますから、先に帰ってもいいんですよ」
彼女の机にこまやかに置かれた資料などを見て、思わず渋い顔をする。知らずに帰ったのならまだしもそのようすを見たのなら手を貸さないわけにはいかない。もっとも彼女は優秀だから本当にもう少しで終わるのだろうけれども。俺の先輩だったひとだから、仕事ぶりは間近でみていた。
キーボードをはしる指を眺めてから、打ち込み終わった資料をまとめておく。とんとんと机を叩く分厚い書類のタイトルを見下ろした。
「ねぇ先生、東々ってどうなっちゃうんでしょうね」
「なるようにしかなりません。きっと」
「やっぱり。ネットですっごい叩かれてますし。アンチドートのひとの住所特定班なんて人も出てきてるし。こんなことして楽しいんですかねぇ。承認欲求と認知能力が歪みまくってますよねぇ」
彼女の許可を得て資料を本棚にもどし、軽薄なネットニュースを眺めた。新興宗教の信者募集なんてものもネット広告に貼りつけられている。メシア降臨、とゴシック体でやすっぽく書かれていた。
「幼稚な知性をもつ人間ほど扱いやすいですし、無知な人間は騙すのにも容易いでしょうから」
彼女は手をとめ、目をこちらにむけた。
「無知の知、というものを忘れないでいたいものですね」
私も、白楽天さんも。彼女はそういった。
「こういったことは白楽天さんのほうが詳しいのでは?」
「うーん。そうでしょうか。俺の場合は趣味の範囲で専攻取ってたというか。あ、もちろんマジメに勉強してましたけど!」
「ソクラテスは死刑に処されたのでしたね」
「死刑になることで、民衆に正義とはなにかを問いかけた……。けれどソクラテスの真意に気付く人もいればいない人もいた。気付かなければ無意義な死だったというわけです」
五〇一人の陪審員は当時、有罪二八一票、無罪二二〇票で有罪判決、刑罰では三六一票の賛成で死刑が宣告された。無意義なものだったのかは当時の彼らの倫理観と今を生きる俺たちとはまるで違うだろうから、良い悪いは言えないけれど少なくとも「無知の知」という言葉をこの時代まで遺ったのは意味があるのだろう。
「いろいろ考えてたらお腹空いちゃいました。なにか食べに行きません?」
「あと5分ほど待ってください」
クルリと椅子を回して、パソコンに向かう彼女の背中を眺める。雨はやんだだろうか。
「寒いし、俺ラーメン食べたいです」
白い背中に伝えると、彼女は「そうですね」といった。
「あとフラペチーノ飲みたいなぁ。戸叶先生はフラペチーノ好きですか?」
「さっき寒いといっていたのに、フラペチーノですか」
「別腹ってやつです」
窓の向こうはきっと、夜景がきれいだろう。地べたにたとえどんな塵があろうとも、きれいに見えてしまうのは今、見たいものだけ見ているからかもしれない。
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