景生
2221文字
Public 花足
 

責任

※出所後 ※花村成人後設定 ※喫煙描写


 乱暴にアパートの扉をノックされる。ドアスコープを覗くと彼がいる。日の沈んだ薄暗い廊下、照明の真下でこちらを覗き返している。「あの子」足立が鍵を開けると、人影が視界を覆った。「花村くん」寒い寒いと言いながら彼が、花村が玄関に押し入ってきた。外気と共に侵入する彼の気配が、足立を部屋の奥へと追いやる。花村は扉を閉めると後ろ手に鍵を掛けて、足立に向かって微笑を浮かべた。寒さのせいだろうか。頬は僅かに赤らんでいたが、その血色とは裏腹に、寄せる視線はどこか現実味が無い。彼は紙袋を持っていた。それを足立に差し出してくる。土産だと彼は言う。感情を置いてけぼりにした抑揚の無い声。心ここに在らずと、微笑む顔と不揃いだ。足立の瞳には、ちぐはぐな男が不規則に変化して映った。糸で釣った操り人形のように、意思と体が意図的に混在している。いつ何度見ても見慣れない。背筋を通り抜けるような、得体の知れない姿だった。
 
「週末は雪だってよ」
 通りで寒いはずだよな、と花村は上着を脱いで部屋の暖かさに一息ついた。彼の言う通り連日の天気予報では、冬型の気圧配置が強まって、日本海側から荒天になると警告していた。外は肌を刺すような風が吹いていて、しきりに窓を叩いている。足立はそうだねと相槌を打ちながら、彼の持ってきた紙袋を抱えていた。そっと中身を見れば菓子らしき箱が入っている。これを冷蔵庫に入れるべきか、今すぐ食べるべきか。足立は静かに迷っていた。なにしろ時間も時間で、これから晩飯時だ。今から間食しては後々困るかもしれない。だからどうしようかと足立が訊ねると、花村は思い出したように「切るよ」と、すぐに食べることを促してきた。
 彼は足立から紙袋を受け取ると台所に立った。棚から包丁を取り出して、開封したものを切り分け始める。二人分の食器類を用意し、それを丁寧に並べていく。ごみを捨て、包丁を洗い、水気を拭いて仕舞う。日常にとって違和感のない、当たり前のような動き。頻繁にこのアパートを訪れていた彼にとって、その一連の動作には迷いがなく、まるで自分の家のように手足を動かしている。
 鼻歌混じりに、足立の身近な空間を支配していた。
「新しく出来た洋菓子店。美味そうでさ」
 だから一緒に食べようと思って買ってきたのだと説明しながら、彼はスライスされた菓子を足立の目の前のテーブルに置いた。視界に映り込むのは、ドライフルーツが密集して彩る、ぎょろぎょろとしたシュトーレン。バターの練り込まれた生地の断面から、空気の溶けるような甘い香りがする。
 それと同時に、花村からまた違った匂いがしてくるのに気が付いた。
 異なるものを嗅ぎ分けるように。足立が香りを追って、花村を見た。
「どうした」
 彼が微笑んで、前髪が揺れる。
 綺麗に染められた髪の毛は、昔よりも伸びている。
「ああ、きみ」足立は思わず呟いた。「美容室の帰りなんだね」 
 普段とは違う彼の匂い。それが頭髪からであると分かって足立は腑に落ちる。笑えば、花村はきょとんとした顔を足立に見せた。足立は、はっとする。
「あ」まさか迂闊な発言だったのだろうかと、珍しい彼の反応に少し動揺した。
「いや」確信は無いがこれを失言と捉えることにした足立は、言い訳するように「いつもと少し、雰囲気が違うような気がして」気のせいだったらごめん、と視線を落として、当たり障りないように言葉を添えた。
 花村は目を瞬かせる。沈黙の後、ようやく「へえ」と口を開いた。
「何。あんた、俺に興味あったの」彼はふうんと鼻を鳴らした。
 ちょっと一服させてよ、と。花村はそう言って、出し抜けに煙草を取り出した。彼は足立の家でいつも煙草を吸う。時代に取り残されたような紙煙草の煙を、換気扇の羽にべたべたとこびり付かせて過ごしていく。足立は煙草を吸わない。台所に置いてある使い捨てのライターは、喫煙者である彼のためだった。用意しておけと言わんばかりに催促されることが度々あったので、仕方無しに置いたライター。足立はそれを見ると思い出す。その煙を嗅ぐと思い出す。
 同じ銘柄で肺を汚していた、あの不器用な刑事の姿を。
 花村は足立の心中を知ってか知らずか、見覚えのある行為をいつも続けている。蘇る度に足立が何を思うか。それをじっと観察している。探るような目付き。舐るような視線が肌に纏わり付いてくる。その湿気に、身震いしそうになる。
 彼の口から煙が溢れる。微かに笑い声が聞こえたような気がした。唇から薄っすらと覗く歯は、真っ白に保たれている。
 彼は部屋に座る足立に向けて、冷たい流し目を送った。
「ねえ。泊まらせてよ、今夜」
 それは訊ねているように聞こえて、実際には強制だった。返事は言わずとも決定されているが、無視をしたところで碌な目に遭わないと足立は知っている。だから了承する。「良いよ」と。はい。分かりました。
 そう答えれば彼の機嫌は保たれた。
「何もない家だけど、お好きに」
 彼が思うよりずっと、足立は花村のことを気にしていた。塀の外に出てから毎日のように繰り返されているこの日常が存在することで、あの頃の記憶は重なり続けている。過去の責任はいつまでも付き纏う。足立はそれが正しいと思っている。
 延々と消えることのない、まざまざとした懐かしい景色。
 明け暮れる今昔の日々を、ただこうして受け入れていく。