詰所の庭に植えられた桜の木がすっかり新緑に染まり切ったころ。雑渡の元に一通の手紙が届いた。持ってきた部下によると、木の枝にこっそりと結び付けられていたという。宛名も差出人の名前も書いてない一枚の上質な和紙には、微かに馴染んだ薬草の匂いがついていて、その香りを嗅いだ雑渡は脳内にある一人の人物を思い浮かべた。まさかと思いながら手紙を開くと、思った通り、幾度となく見た善法寺伊作の筆跡で文書が綴られていた。
その内容はタソガレドキへ誘ってくれたことへの礼と、とある事情からそれには答えられなかったことの詫び。そして、最後は「ずっと貴方のことをお慕いしておりました。また縁が結ばれた折に、お会いしましょう」という一言で文書が締められていた。
雑渡は「恥ずかしいので読んだら燃やしてください」と書かれていたのを無視して、その手紙を綺麗に折り、御守りのように懐に入れて持ち歩くようになった。この戦乱の世の中において、互いに居場所も分からないもの同士が次いつ会えるかなんて分からないのに、"お会いしましょう"という半ば断定的な言い方が少しだけ引っかかった。さりげなく各国の忍軍に探りをいれても、伊作らしき人物がいるという情報は得られなかったし、ならば医者かと思っても同様に彼の消息は得られない。
雑渡が仕えるタソガレドキはまさに領土拡大の真っ最中で、朝から半まで敵国の情報収集と戦の作戦立てに奔走しているうちにそれどころの話ではなくなってしまった。次に戦火を交えようとしている城はタソガレドキに負けず劣らずの戦力を誇っていた。南蛮との貿易が盛んで物資も潤沢。そしてどうやらとても優秀な典医がいるらしく、万全の体制を整えて戦に臨まなければならなかった。
とある夜、殿の寝所へと呼び出された雑渡。
「おまえに一つ頼みたいことがある」
殿は普段よりやや重苦しい口調で切り出した。先程まで謀議をしていたのに、その場では無く態々二人きりの空間で話を切り出したということは他には漏らしてはいけない秘密の命令なのだろう。
「いかがしましたか」
「城主の一人息子の暗殺を頼みたい」
「それは、例の……」
「そうだ。今はまだ戦には出ていないようだが、家臣から慕われており、さらに医学に秀でているときた。城主よりもよっぽど息子の方が厄介だ」
出来るな?と目線だけで問われ、雑渡は深く頭を下げた。
「この雑渡昆奈門にお任せを」
「頼りにしているぞ」
手に持った扇で軽く肩を叩かれ、雑渡は静かに退出した。詰所までの短い距離を飛び帰りながら、脳裏には一人の少年の笑顔が思い浮かんだ。
不運がなければ戦力は一流。医学や薬学に傾倒し、怪我人を放っておけない優しい子。
そこまで考えてまさかな、と首を振った。黒鷲隊に調べさせた情報では、彼とその城主の息子とは年齢が二つほど違った。中々子に恵まれなかった城主は40を超えてからようやく授かったその一人息子をたいそう可愛がっているらしい。元服するまでは家族と古くから仕える家老などごく一部にしか顔は見せておらず、それは元服してからも暫くは続いていたようだった。ようやく人前に出るようになったのがこの春からのことだという。しかしその短い間で彼は見事に家臣たちの心を掌握し、若様と慕われているという話だった。次の春には許嫁との式も控えている。
いくら任務だといってもまだ若い芽を摘み取るのはあまり気が進むものではなかった。寄りによって想い人を彷彿とさせる青年を始末しろなんて、殿も意地が悪い。実際に僧兵として忍び込ませた部下たちからの報告では、
「いつも笑顔で優しい。まるで戦場における一輪の花のようだ」
「末端の兵にも心を砕いて話しかけてくれる」
「小さな怪我でも見逃さずに手ずから手当をしてくれる」
などなど、みな一様にその"若様"に虜にされているようだった。そんなに慕う若様が殺されたとあっては寧ろ相手の結束を強めてしまうのではないか。そんな懸念もあったが、一方で戦場において部下の人心掌握に長けた指導者ほど厄介な存在もない。命を懸けてでも護りたいものの存在というのは、時に純粋な戦力よりも凶器になりうることも経験上わかっていた。
どうしたものかと頭を悩ませていた雑渡は、ふと伊作とのやり取りを思い出した。
去年の夏、薬草を採るために、忍術学園の裏山に入っていた伊作とその後輩たちに出会った時のこと。既に三回落とし穴に落ち、更には猪に追いかけられたという彼らを放っておけなくて、一緒に着いていくことにした雑渡は、珍しく伊作が声を荒らげるのを目にした。
道端に咲く小さな花に手を伸ばしかけた伏木蔵に対して、伊作は「触るな!」と強い声を出した。すぐに我に返った伊作は、ビクリと肩を震わせ雑渡の足にしがみついた伏木蔵に謝りながら「その花はかわいいけれど猛毒があるから、触れてはいけないよ」といつもと同じ、穏やかな声で言った。
「どんな毒なの?」雑渡がそう尋ねると、彼は少し逡巡したあとで心臓麻痺を起こさせるのだと説明してくれた。そして、致死量が極めて少なく、病死と見分けがつかないため、暗殺によく使われる花だということも。
「それだ」
雑渡は誰もいない部屋で小さく声を出した。病死に見せかけて毒殺する。それが一番良い手段だろう。彼から得た知識を人を殺めるために使うのは少々心が痛んだが、こちらは忍びだ。今更汚い手を使うことを躊躇うほど、優しき心は持ち合わせていなかった。
そうとなれば、と雑渡は早速数人の部下を連れて彼らと訪れた山を歩き回り、目的の小さな花を手に入れた。摘み取ったその細い茎をクルクルと回していると、本当にこの可憐な花が一瞬で人の命を奪ってしまうのだろうかと、半信半疑な気持ちになった。部下が詰所の庭に現れた鼠に食べさせたところ、ものの数秒で仰向けに倒れ、痙攣して動かなくなったらしい。その効果は本物だ。
今宵は新月。暗殺にはもってこいの闇夜だった。警備の手薄な場所を狙ってそっと城内に忍び込む。跡取り息子の寝所は城主の眠る本丸ではなく、そこから少し離れた北の離れにあった。広い庭には青々とした草が茂っていた。一見手入れが行き届いていないように見えるが、よく観察すると区画ごとに植えられている植物は異なっているようだ。せっかくならば美しい花でも植えてやればいいものの、この庭の主は物好きだなと思いながら、一番端に背丈の高い草に隠れるようにして咲いている小さな花を目に止めて、雑渡は思わず息を飲んだ。雑渡が胸元に潜ませている毒薬。それを作ったのと同じ花がひっそりと咲いていた。よく目を凝らしてみれば、他にもいくつか見覚えのある草があった。どれもこれも、かつて伊作がよく学園の裏山で摘んでいたものだった。
嫌な予感に背中を冷や汗が伝った。ただの偶然、そう片付けてしまうこともできるが、それにしては偶然が重なりすぎていた。駆け足になる脈を落ち着けながら、そっと屋敷の天井裏に潜り込み、目的の部屋の上で音を立てぬまま一つ大きな深呼吸をした。寝ている若君の体を押さえつけ、口元に薬を流し込む。頭の中で何度も繰り返し試行してきた。大丈夫、上手くやれる。そう言い聞かせながら部屋の中に音もなく降り立った。布団の上で眠るまだ成長途中の細い体に手をかけようとしたその時、闇の中に小さな声が響いた。
「雑渡さん、ですか?」
その声を聞いて雑渡はピタリと動きを止めた。「信じられない」という思いと「やっぱりか」という納得。相反する感情が同時に襲い掛かり、体が咄嗟に動かなくなってしまった。
「なぜ」
かろうじて口にした言葉は震え、少し掠れていた。
「ふふ、きっと会いに来てくださると思っていました」
久しぶりに会った伊作は、学園にいたころと何ら変わらぬ穏やかな顔で微笑んだ。
「驚いているようですね。雑渡さんならとっくにお気づきになってるかと思ったのに」
この子は自分が今から暗殺されようとしていることに気づいているのだろうか。そう思ってしまうほど穏やかな声をして、伊作はくすくすと笑い声を漏らした。
「だって、歳も違うじゃない」
「学園には歳を偽って入学していたんです」
「学友たちはお前の本当の身分を知っているの?」
「知りません。みんな、僕は畿内の優秀な医師の元に修行に行ったと思っているはずです」
だから、雑渡さんだけですよ。伊作は内緒話をする子どものような声でそう囁いた。
「僕の文は届きましたか?」
「あぁ。ちゃんとここに」
そういいながら懐から一枚の紙を取り出すと、「燃やしてくださいと言ったのに」と拗ねたような声が聞こえた。
「調子に乗って恥ずかしいことを書いてしまいました」
「私は嬉しかったよ」
「こうして肌身離さず持ち歩くぐらい?」
「まぁね」
「それは少し嬉しいかもなぁ」
月明かりの入らぬ真っ暗な部屋には似つかわしくない穏やかな会話だった。それは自分がこの部屋にやってきた目的すらも忘れてしまうほどに。このまま伊作に口付けてその身体を抱いて、二人遠くへ逃げ出してしまえたら。そんな忍びらしからぬことまで考えてしまう。殿からの勅命に背くことなどできやしないのに。
「雑渡さん」
「なぁに」
「僕、貴方になら殺されてもいいですよ」
その一言で雑渡の体が凍りついた。まるで首元に刃物を突きつけられたような気分だった。
「どうして、そんなことを言うの」
「だってそのつもりで来たのでしょう?僕、昔から不運でよく怪我をしていたので、痛みには少し強いんです」
伊作は唐突に話し始めた。
「でもやっぱり死ぬときに痛い思いや苦しい思いをするのは嫌じゃないですか」
「そうだね」
何が言いたいのか分からない。伊作の声だけが鼓膜を甘く揺らし、言葉の意味が上滑りしているようだ。
「雑渡さんなら僕のことを苦しませずに殺してくれるでしょう?」
まるで逢い引きに誘うような甘い声で伊作が囁いた。引き寄せられるように雑渡の手が伊作の細い首にかけられる。その手を上から押さえつけるように、伊作は一回り小さな手を重ねた。
「ねぇ、最後に口吸いをしてくださいませんか」
伊作の指先が雑渡の口布をそっと下げる。
「君のことを好いていたよ」
思わず口から零れた言葉に伊作がくすくすと笑い声を洩らす。
「悪い人ですね。こんな時になってそんなことを言うなんて」
それ以上伊作の言葉を聞いていられなくて、雑渡は噛み付くようにその唇に吸い付いた。「ん、ふぁ……あっ」
伊作の鼻にかかった声が雑渡の脳内を甘く揺らす。薄く開いた唇の隙間をこじ開けて口内に舌をねじ込み、伊作の小さな舌を絡めとる。色を覚えたての子どもみたいに、夢中でその口内を貪った。唾液の一滴まであまさず全部飲み込むように。
ようやく唇を話そうとしたその時、雑渡の胸に衝撃が走った。心の臓をぎゅうと縄で締め付けられているような痛みと、息のできない苦しさ。
「カッ、はぁッ」
思わず胸を押さえて蹲ると、伊作がゆっくりと身を起こす。
「お前、何をっ……」
「貴方が用意していたのと同じものですよ」
伊作が雑渡の懐から小さな瓶を取り出す。
「予めコレと同じ毒を口の中に仕込んで起きました。僕は耐性があるので」
伊作はそう言いながら、床に蹲り額から脂汗を流す雑渡の顔に手を伸ばす。
「雑渡さんじゃなかったらどうやって色仕掛けをしようかと思ってたけど、貴方で良かった」
宵闇の中でも伊作が口の端をあげて笑ったのが見えた。痛みと吐き気と苦しさとが入り交じって朦朧とする意識の中で、伊作がふと悲しそうな顔をしたのが見えたような気がした。
「ごめんなさい。僕はまだ貴方に殺されるわけにはいかないんです」
先程までとは打って変わって悲痛な声が耳に届いた直後、雑渡の意識は途切れ、闇の中に呑み込まれた。
意識を失い動かなくなった巨体を前にして、伊作は大きく息を吐き出した。鼻の前に手を当てると、弱いもののまだ息がある。常人よりも毒に強い雑渡を相手に殺さず意識を奪えるギリギリの量の薬を調合するのにはとても時間と手間がかかった。
口の中に毒を仕込んでいたのはちょっとした下心だ。一度くらい、好いた人と口付けをしてみたかった。どうせこの先誰かと恋愛をすることなんて叶わぬ身なのだから。
伊作は外廊下に出ると、水瓶に入れておいた水で口をゆすぎ、地面に吐き出した。そうして小さく口笛を吹くと、どこからともなく一人の男が現れ、伊作の前に跪いた。
「若様、上手く行きましたか?」
「だから若様って呼ぶのをやめてと言っているのに」
「そういう訳にも参りません」
「僕がいいと言ってるから良いんだよ」
「はぁ……お前はどこまでも頑固だな。それで曲者はどうなった?」
伊作は部屋の中心で蹲るようにして意識を失っている雑渡を指さした。
「あそこで倒れているよ。かろうじてまだ息はあるはず」
「それで、どうしたらいい?」
「適当にタソガレドキとの国境付近に置いてきてくれたら」
「俺一人であの曲者を運ぶのか」
「ごめんね。でもお前しか頼れないんだ」
「仕方ない。俺はお前の親友だからな」
彼はそう言って意識のない雑渡を何とか担ぎあげた。
「よろしく頼んだよ、留三郎」
「任せろ」
音を立てず静かに部屋を出ていった相棒の背中を見送り、そっと部屋の戸を閉めた。
伊作が雑渡についた嘘は一つだけ。同級生は誰も伊作の本当の身分を知らないと言ったが、唯一親友の留三郎だけは伊作が一国の城主の嫡男であることを知っていた。そして今も、こうして側近として仕えてくれている。それが唯一の嘘だった。
彼のことを慕っているのも、彼になら殺されてもいいと思っているのも全て本心からの言葉だった。でもそれにはまだちょっとだけ時期が早い。伊作にはまだ成し遂げなければならない事があるのだ。
目を覚ました雑渡は、すぐ近くにいた尊奈門の「組頭!!」という大声に思わず顔を顰めた。全身が気だるく、酷く頭が痛い。頭に靄がかかったようにぼんやりとして、自分が今どのような状況に置かれているのか、理解ができなかった。
「組頭、良かった……このまま目を覚まさないかと」
雑渡は痛む頭で記憶を辿った。殿に敵国の嫡男を暗殺しろと命じられ、そして忍び込んだ場所にいたのは雑渡がかつて恋焦がれた善法寺伊作だった。おそらくその名前も偽名なのだろうが。彼の甘い言葉に乗せられて口付けをし、そして毒を飲まされた。その後の記憶は何も無い。
「なかなか帰らないから心配で見に行ったら詰所の外で倒れていたから驚きましたよ」
そう言ったのは尊奈門に呼ばれて部屋にやってきた山本だ。彼も雑渡が目を覚ましたのを確認すると、「良かった……」と心からの安堵を漏らしていた。
雑渡をここまで運んできたのは伊作だろうか。最初から雑渡を殺すつもりなどなかったのかもしれない。それならば、まんまと伊作の作戦に乗せられてしまったことになる。殿からの命を遂行出来なかった。あの時少しでも躊躇った自分が悪いのだ。本当であれば、相手が誰であろうと、迷わずあの薬を飲ませなければなかったのに。
「殿は……」
掠れた声で雑渡が問うと、山本が少しだけ顔を強ばらせた。
「動けるようになったらすぐに城に来いとのことでした」
「今回ばかりは見逃してくれないかな」
「組頭が失敗するなんて珍しい。何があったんです」
まさか思いを寄せる相手の色仕掛けに引っかかったなど、そんな情けないことを言う訳にはいかない。それに、敵国の嫡男の正体を無闇に明かすのも得策ではないと思い、雑渡は山本の質問には口を噤んだ。
「土下座ぐらいで許してもらえるかなぁ」
「さあ。殿の気分次第では」
山本のつれない返事に胃を痛めながら、翌日何とか起き上がれるようになった雑渡は、殿の寝所を訪ねた。
「此度の失敗、誠に申し訳ございません」
床に額を擦り付ける雑渡を前に、殿はふんと鼻を鳴らす。
「たかが十七の餓鬼相手に何を手こずっておる」
「申開き用もなく……」
案の定殿は大変ご立腹だった。それもそうだろう。わざわざ雑渡指名したということは、それほど急を要し、なおかつ重要な任務だったのだ。
「お前ほどの男が返り討ちにされるとは、ますますその若君を野放しにしておく訳にはいくまい。しかし雑渡よ、なぜ負けた」
「……相手は毒薬に詳しいようで、こちらの知らぬ薬を持っておりました」
「成程。優秀な典医がいるというが、薬だけではなく毒にも手を出しておるのか」
そこまで言うと、殿は何かを考え込むような素振りをした。
「では作戦を変えるぞ」
「は、」
今度は何を言われるのかと身構える。当たり前のことだ。その命次第では今度こそ自らの手で伊作に手をかけなければならないのだから。
「その若君を監視して相手の持っている薬の実態を探るのだ」
「監視、ですか」
「別に始末したいならそうしても構わんぞ。ただ、場合によっては生け捕りにして利用する手もあるだろうからな」
そう言いながら、殿は雑渡の心中を探るようにこちらを見つめてくる。この城主は決して愚鈍ではない。むしろ、時々こちらがドキリとするほど確信をついたことを言ってくるのだ。そこは流石大国の殿と言うべきか。
雑渡はボロが出てしまわぬよう深々と頭を下げ、御前を去った。一先ず伊作を始末する必要は無くなった。その事実にホッと胸を撫で下ろした。遠くから監視して、どうにか伊作を生かしたままこちらへ引き入れる手立てを考えるしかない。
一方その頃、伊作は城の離れにある自室で一人頭を抱えていた。
「伊作、まだ起きていたのか。そろそろ寝ないと明日も朝から謀議に出るんだろう?」
「分かってるよ」
「分かっているなら薬草を前に睨めっこしていないで布団に入れ」
「でも、あと少しなんだ。もう少しで完成するのに」
「伊作」
留三郎が伊作の肩を掴み、その顔を覗き込む。
「根を詰めすぎだ。昨夜も殆ど寝ていないだろう?」
学園にいた頃と変わらない、心の底から伊作のことを心配しているその瞳を見て、伊作はそっと目を伏せた。ここでは誰もが伊作に優しくしてくれるが、誰も伊作自身のことを見ていない。優秀で人当たりのいい次期当主。そんな肩書きだけを見て伊作に擦り寄って来るのだ。しかし、それを利用しているのだからこちらも同罪と言うべきか。
正直どこに居ても息が詰まる。だから父親と叔父に我儘を言ってこの小さな離れに部屋を移してもらった。
「雑渡さんが来た。本格的に戦に向けて動き出しているんだ。早くしないとまたあの薬のせいで大勢の人が死んでしまう」
「伊作!」
留三郎の大きな声に伊作は肩を震わせた。
「とにかく今日は寝ろ。働かない頭で考えたって仕方ないだろう?」
な?と目線を合わせながら言う留三郎に、伊作は小さく頷いた。
「分かったなら早く布団に入れ」
急かされるようにして布団に入り込むと、留三郎が燭台の火を消した。
「留三郎」
「なんだ?」
「ごめんね。お前もここ最近あまり眠れていないだろう?」
謝る伊作の額が軽く叩かれる。
「気にするな。お前が安心して眠るために俺がいるんだ」
ちゃんと眠れよ、そう言いながら留が部屋を出ていった。
自分を取り巻く全てのものが一変してしまった中で、留三郎だけがあの頃と同じようにそばにいてくれる。
「みんなに会いたいなぁ」
仙蔵と文次郎、小平太に長次、それから後輩たちと先生方。彼らの顔が次々と浮かんでは消えていく。もう二度と会うことは出来ないと分かっていても、そう願うことくらいは許されるだろうか。
次の日、伊作は朝から城の天守に呼ばれ、来たるタソガレドキとの戦の作戦会議に参加していた。タソガレドキはこれまでの相手とは違い、圧倒的な力を誇る強敵だ。こちらも戦力は劣らないとはいえ、向こうには百人の隊員を持つ隊もある。真っ向から戦って勝つのは難しいだろう。
「薬の用意は?」
「十分整っております。これがあれば一撃で数百の兵を無力化することもできましょう」
父である城主の問いかけに、その弟であり伊作の叔父、そして我が国の誇る典医が得意げな顔で答えた。その答えを聞いて、伊作は密かに顔を曇らせ、拳を握りしめた。
「お前も今回は後衛じゃなくて先陣に出るんだぞ。初陣だ!」
父が伊作を見て嬉しそうに微笑む。伊作は何とか顔に笑みを貼り付けて「緊張しますね」とはにかんでみせた。
「戦の開始はいつ頃になるので?」
家老の一人が声を上げる。
「十日後だ。時間をかけるほど向こうに戦力を蓄えさせてしまう」
あと十日……それまでに間に合うだろうか。いや、何としてでもそれまでに完成させなければならない。伊作は自室に戻るやいなや、昨晩広げたままにしていた薬草を前に座り込んだ。
「伊作、大丈夫か」
「あと十日だって」
伊作の返事に留三郎も顔を曇らせる。
「時間が無いな」
「うん」
「そういえば、曲者に監視されているぞ」
留三郎が声を潜めて言った。
「昨夜聞こえた梟の鳴き声はそれかな」
「おそらくな」
"君のことを好いていたよ"
甘く掠れた声が脳内に蘇った。あのまま雑渡の手で息の根を止められていたら、どれだけ楽だったろうか。
「作戦に変わりはないのか」
そう尋ねる留三郎の顔が悲痛そうに歪んだ。
「変わりないよ。嫌な役回りをさせてごめんね」
「お前がいいならそれで良いんだ」
留三郎は何かを諦めたかのように、きつく目を瞑った。
「とにかくそれを完成させないと何も始まらないんだろ?」
「うん。あと少しだと思うんだけどなぁ」
雑渡は小さな部屋の中で顔をつき合せるふたりのことを少し離れていたところから監視していた。ここ数日伊作を監視していて分かったことは、彼が今何らかの薬を作ろうとしているということだった。毎晩遅くまで色んな調合を試してはこれじゃないと頭を捻っていた。その様子は学園にいた時のような生き生きとしたものではなく、なにかに取り憑かれたような、切羽詰まった様子だった。
彼は何をそんなに生き急いでいるのだろうか。雑渡にはそれが分からない。しかし、どうやら伊作は城主である父親とそれほど仲が良いわけでは無さそうだということが分かったのは、雑渡としては大きな収穫だった。 どのようにしてこちらに引き込もうか。夜中にこっそり接触しようとしても、番犬のようにあの同室の彼が目を光らせている。おそらく向こうもこちらの存在に気づいているだろう。
“雑渡さんだけですよ”だなんて言ったくせに、所詮は雑渡を喜ばすだけの戯言だったのか。仲睦まじそうな二人の様子を見て年甲斐もなく嫉妬した。
早くあの子を攫ってこの腕の中に閉じ込めてしまいたい。あの大きな瞳に雑渡のことだけを写して欲しい。そんなことを考えて、慌てて頭を振って邪念を払い落とした。こんなことを考えている場合では無い。間もなく大きな戦が始まろうとしているのだ。
「留三郎!出来た!!」
部屋の外でうつらうつらと船を漕いでいた留三郎は伊作の声で意識を引き戻される。寝ぼけ眼で辺りを見渡すと、まだ空は暗く、夜明け前の時間だった。
「伊作どうした?」
ここのところ沈んだ顔ばかりしていた伊作が、珍しく顔に喜色を浮かべていた。
「ついにあの薬が出来たんだ」
その一言で一気に眠気が吹き飛んだ。
「本当か!?」
「うん。さっき鼠で試してみたけど、ピンピンしているよ」
「良かった。良かったな、伊作」
思わず目の前の体をぎゅっと抱きしめる。
「本当に良かった」
伊作も同じように、留三郎の背中に手を回し、強く抱き締めてきた。 安堵と喜びと、絶望感。遂にこの日が来てしまった。今日が自分たちにとって最後の日になるのだろう。
「留三郎にだけ秘密の話があるんだ」
伊作にそう打ち明けられたのは、四年生に上がってすぐの頃だった。休みを控えた日の夜。留三郎は故郷に戻る準備をしてソワソワしながら眠りにつこうとしていた。
「どうした?明日は朝早くに出立するんだろう。早く寝ないと起きれないぞ」
二つ横並びにした布団に寝転びながら、蝋燭の灯りを消そうとする留三郎を伊作が制した。
「大事な話なんだ。聞いてくれるかい?」
その時の伊作の声はいつになく真剣で、直感的にこの話はきちんと聞かねばならないと悟った。
「他の奴らには話せないことか?」
「うん。話すのはお前にだけだ」
「分かった。聞くよ」
そう言って寝ていた体を起こし、伊作と向かい合った。伊作は膝の上で拳を強く握りしめていた。いつの間にか自分よりも小さくなっていたその手をそっと包み込んだ。
「あのね、実は僕——」
その後に続いた言葉を理解するまでに暫く時間がかかったのを覚えている。だって、いつも不運に見舞われている同室が、「僕は瘡蓋になりたい!」だなんて突拍子もないことを言っていた親友が、一国の城主の跡取り息子だなんて、急に言われて信じることが出来るわけがない。それに加えて歳も違うだなんて。 言われてみれば、一年生の頃の伊作は学年で一番背が高かった。不運のおかげで目立たなかったが、実技の授業もいつも誰より早く技を習得していたし、体力もあった。
「お前は学園を卒業したら国に戻るのか?」
「うん」
伊作は少し寂しそうに頷いた。
「卒業したらもう皆には会えないかもしれない。でも、留三郎にだけは伝えておこうと思って」
明日からの休暇の間に国に戻って元服の儀を行うらしい。
「伊作は俺たちより一足先に大人になるんだな」
不思議な気持ちだ。握りしめた手は留三郎のものより一回り小さいのに、この手で伊作は一つの国の未来というとても大きなものを抱えている。多分それに耐えられなくなったのだろう。伊作の瞳にはゆらゆらと揺れる涙の膜が張っていた。
「伊作」
「うん」
自分よりも少しだけ小さい身体をめいっぱい腕を広げて抱きしめた。
「大丈夫だ」
「うん」
「俺がついているから」
「うんっ」
ぐずっ、と伊作が鼻をすする音が聞こえた。伊作が顔を埋めた右の肩がじんわりと暖かくなっていた。震える背中を優しく撫でてやる。
「俺がずっとお前の味方でいるからな」
「ありがとう、留三郎」
あの日から、留三郎の命は伊作のためにある。卒業したら伊作に付き従うと言い出したのは留三郎のほうだった。伊作は長らく渋っていたが、六年の春、ついに根負けした。長期休みの度に城に戻っては、疲れきった顔で帰ってくる伊作を放っておけなかった。あんまり信頼できる人が いないんだ、と力なく笑う伊作の安心出来る場所になりたかった。
でも、それも今日で終わりだ。伊作はこの後自らの命を終わらせに行く。それを見届けるのが、留三郎の最後の仕事だった。
「留、いままでありがとう」
穏やかな声で伊作が言った。留三郎は伊作の体を抱き締める力を強めた。
「最後に聞くが、ほんとうにそれしか方法はないんだな?」
留三郎の言葉に伊作が頷いた。
「ごめんね」
この話をする度に、何度伊作の謝罪を聞いただろうか。
「お前がいいならそれでいいんだ」
これも何度言ったか分からない台詞だ。
「それで、どうやって曲者と接触するんだ?」
「それは簡単だよ」
伊作のことを抱きしめる力を緩めると、伊作はするりと腕の中をぬけ、部屋の外に出た。 「伊作、何を……」
そう尋ねるより早く、伊作は口を開いて小さな声で囁いた。
「雑渡さん。そこにいるんでしょう?」
闇夜の中に伊作の小さな声が木霊する。少し離れたところにある木が不自然に揺れ、次の瞬間曲者が伊作の前に姿を現した。
「伊作っ!」
思わず伊作を守るようにして 前に出た留の腕を伊作が掴んだ。
「大丈夫だよ」
「こいつはこの間伊作を始末しようとしたんだぞ!」
声を荒らげる留に伊作がちいさく笑いかけた。
「大丈夫だから。ね」
渋々伊作の後ろに下がると、曲者が1歩伊作に近づいた。
「伊作くん」
「はい」
「君が何を考えているのか、教えて」
「どうぞ」
伊作に招かれるまま、雑渡は彼の部屋に足を踏み入れた。部屋の中には大量の薬草と、薬を作るための道具が無造作に散らばっていた。
部屋の中央に向かい合って座る。伊作の斜め後ろには、側近の彼が控えていた。
「こちらを」
伊作は小瓶と一枚の紙を差し出してきた。
「これは?」
瓶の中身はおそらく何かの薬だろう。そして一緒に渡された一枚の紙切れは、どうやらその薬の作り方を書いたものらしかった。
「この間雑渡さんに飲ませた薬を覚えていますか」
「うん。あの花から作ったものだよね」
「はい。僕が作ったものはギリギリ死に至らないように調節したものでしたが、本来であれば一瞬で相手の息の根を止めることができる猛毒です。貴方が持ってきたものもそうでしょう?」
伊作があの時雑渡の懐から抜き取った薬の壺を手の中でゆらゆらと揺らした。
「その通りだよ」
伊作はその答えを聞いた後、心を落ち着けるように深呼吸をした。
「この毒薬を作ったのは僕の叔父です」
「君の叔父は確か典医をしていたね」
「さすが、よく調べていますね。その通り、彼が諸国に名を馳せる自慢の典医です。僕がこうして医学や薬に興味を持つきっかけになった人でもあります」
幼い頃、忙しい父に変わりよく叔父が遊び相手になってくれていた。人を救うことに何よりの喜びを感じる彼は、 伊作にも包帯の巻き方や、応急処置の方法を教えてくれ、時々は薬草摘みにも連れていってくれた。とても心優しき人だったのだ。
それがいつからか、変わってしまった。おそらく父の依頼だろう。当時家老の一人に謀反の動きがあったらしい。その人物を秘密裏に暗殺するため、病気に見せ掛けて人を殺す薬を開発した。
その頃から叔父はおかしくなってしまった。
毒薬の開発にすっかりと心を奪われてしまい、日夜その事ばかりを考える。そしてそれは父も同じことだった。一度作ってしまえば何度も繰り返し作って使うことのできる薬は大量の金を出して武器を揃えるよりはるかに安くついたからだ。
「この薬は経口摂取しなければ特に被害はありません。しかし、先日叔父が新たに開発した薬は気化したものを吸い込んだり、皮膚につくだけでも猛毒になります」
「そんなものを、どうして……」
「貴方たちとの戦のためですよ」
その言葉に雑渡は目を見張った。
「うちは純粋な武力ではタソガレドキに敵いません。だからこうして姑息な手を使うしかないのです」
「それは、とんでもない話になってきたね」
伊作が目を伏せ、痛みを堪えるような顔をした。
「今度の戦では大勢の人が死にます」
今更ながら、彼の背負うものの大きさに、雑渡は大きくため息をついた。人を救うために使われるはずの薬が、人を害する兵器となる。それは彼にとって辛く、耐え難いものだろう。しかし、おそらく今日の本題はここからだ。
「それで、これらは?」
「そちらの容器に入っているのは、解毒薬です」
「解毒薬?」
「はい。叔父の開発した薬の効果を完全に打ち消すことが出来ます」
「それはすごいね」
「でも、すぐに飲ませなければ効果はありません」
「それで、どうして私にそのことを?」
雑渡がそう尋ねると、伊作はニコリと笑みを浮かべた。
「僕はこの薬とレシピを雑渡さんに託します」
雑渡はその言葉に驚き言葉を失う。
「なんで、そんな事……」
「貴方なら悪用はしないでしょうし、何より僕との約束を守ってくれるだろうから」
「私は悪い城の組頭だよ」
「でも、雑渡さんは僕のことが好きでしょう?」
そう言いながら笑った顔は今まで見たどんな伊作の表情よりも美しく、雑渡は思わず見惚れてしまった。
「僕の代わりにその薬を使ってみんなの命を助けてください」
「お前は、伊作くんはどうするの」
そう尋ねると、伊作が雑渡の作った毒薬の瓶を差し出してきた。
「この薬で殺してください」
「な、にを、言ってるの」
「父や叔父の暴走を止められなかった。見て見ぬ振りをしていた僕の罪滅ぼしです」
そう言いながら、伊作は右目の端から涙をこぼした。
「でも、大好きな雑渡さんの手で殺されるなら、罪滅ぼしじゃなくてご褒美ですね」
「嫌だよ。私はお前を殺したくない。ねぇ、君もそうでしょう?」
伊作の後ろに控える食満に話しかける。彼はキツく目を瞑り、「伊作の決めたことだ。俺はそれを尊重する」と少し震えた声で言った。
「早くしないと、さっき大きな声を出したから父が気づいてやってくるかも」
雑渡さん、と伊作が名前を呼びながら、雑渡の手に薬を握らせる。
「雑渡さんが飲ませてくれないなら自分で飲みます。でも貴方に殺して欲しい。僕の最後のお願い、聞いてくれますか?」
雑渡は伊作の体を引き寄せ、強く抱き締めた。
「好きだよ、伊作くん」
雑渡の腕の中で伊作がぽろぽろと涙を零す。
「この間は嘘をついてしまってごめんなさい。でも雑渡さんのことを思う気持ちは本心です。信じてくださいますか?」
「あぁ、もちろん。お前の言葉を信じるよ」
雑渡は伊作の額にそっと口付けながら、薬の入った瓶の蓋を開けた。
「伊作くん、顔を見せて」
涙でキラキラと光った瞳に吸い込まれるように、瞼にも口付けを落とした。
「口を開けて」
薄く開いた唇の隙間から、毒薬を流し入れる。伊作が喉を鳴らして飲み込んだのを見て、雑渡はその唇に自分の唇を触れ合わせた。
「おやすみ、伊作くん」
雑渡がそう呟くのと同時に、伊作が胸を抑えてうつ伏せに倒れた。
「伊作!」
後ろで食満が悲痛な声を上げた。苦しそうに呻き声を漏らしていた体が、やがて大きく震えて動かなくなった。雑渡はその身体を仰向けにし、虚ろな瞳を覆い隠した。
「食満くん、君は私に着いてくる覚悟はある?」
雑渡がそう尋ねると、涙を流していた食満が潤んだ瞳でこちらを見あげた。
「は?何言って……」
「いいから。このまま全てを捨てて、伊作くんと一緒にタソガレドキに来る覚悟はあるかって聞いてるの」
「伊作は今死んだだろう?」
「ここに解毒薬があるでしょう?」
「それは伊作が他の人たちを助けるために作ったものだろ」
「でも預けられたのは私だよ。どんな使い方をしようと私の勝手でしょう。こちらは悪いお城の組頭だからね」
雑渡はそう言いながら、伊作の体を抱き上げた。
「薬はまた作ればいい。私は伊作くんを 一番に救いたい。君は?」
「俺も、同じ気持ちだ」
「じゃあ私について来なさい。すぐそこにタソガレドキの仮拠点がある。そこで伊作くんに解毒薬を飲ませるよ」
「承知した」
雑渡は解毒薬とそのレシピを食満に託すと、伊作の体を抱いたまま闇夜に駆け出した。
伊作を運び入れた拠点は本当に城のすぐ側に作られていた。中には尊奈門や山本など留三郎にも見覚えのある人物が揃っている。
雑渡は伊作を地面に横たえ、すぐさま解毒薬を口から流し込んだ。しかし、暫く経っても何の反応もない。
「本当に効果があるの?」
鋭い隻眼に睨まれて留三郎は汗をかいた
「効果は本物だ。伊作が何度も試していたから間違いない」
「でも……」
伊作は人形のような精気の失われた青白い顔をしていた。
「蘇生薬ではなくあくまで解毒薬だから、もし体に毒が回りきっていたら効果がないのかもしれない」
雑渡が伊作の冷たい手を握りしめる。みな一様に真剣な顔をして 伊作の様子を伺っていた。
次の瞬間、けほ、と伊作がちいさく咳き込む音が聞こえた。
「伊作くん!」
「伊作!」
二人して顔を覗き込むも、まだ目は開かない。しかし、確かに呼吸もある。少しずつだが、顔に血色も戻ってきた。
「よ、良かった」
へなへなと床に座り込む留三郎を前に、 雑渡はまだ険しい顔をしていた。
「安心するのはまだ早いよ。ここから誰にも見つからないように伊作くんをタソガレドキ忍者隊の詰所の奥に運ばないといけない」
「俺たちはどうなるんだ?」
「名前を変えてうちの忍びとして生きてもらう。あの城にいるよりはマシだろう?」
「まぁな」
「わかったなら行くよ」
そう言って、雑渡は再び伊作の体を抱え上げ、闇の中を走り出した。尊奈門たちは追っ手がいないか護衛をしてくれているらしい。
雑渡の足は人一人を抱えているとは思えないほど速く、その後ろ姿を見失わないようにするのがやっとだった。
ようやく目的地に着いた頃には 空が薄らと白み始めていた。まるで武家屋敷のような大きな詰所の中を雑渡の後ろに着いて歩いていく。
「ここだよ」
案内されたのは屋敷の中でも最も奥にある広い部屋だった。文机の上には様々な兵法書が無造作に置かれ、すこしだけ薬の匂いがした。
「ここって……」
「私の部屋。 とりあえずこの建物の中では一番安全な場所。君は暫く尊奈門と同室ね」
「は!?」
「一応余所者だから警戒しないと」
そう言われて、尊奈門が自分の見張り役なのだと理解する。
「伊作くんは意識がもどるまでこの部屋で預かる。いいね?」
「あぁ」
「みんな戦の準備で忙しいから、伊作くんの 世話は君に頼むよ」
「任せてくれ」
そう答えると、雑渡が留三郎の頭をくしゃりと撫でた。
「わっ」
「ずっと一人で伊作くんのことを守っていたんでしょう?偉かったね」
「こ、子ども扱いするなっ」
そう抵抗しながらも、留三郎の瞳から涙がこぼれた。伊作が留三郎以外の人間を近づけたがらなかったのには、暗殺への警戒というものがあった。伊作が城の政治に関わるようになってからというもの、伊作を中心として結束を固める昔ながらの家臣たちとは反対に、そんな伊作の存在をよく思わないものたちもいた。食事に毒を混ぜられたり、不意に毒矢が飛んできたり、そんな事も日常茶飯事で、伊作のことを一番近くで守っていたのが留三郎だった。
「ひとまず伊作くんのことは私が見ているから、君もゆっくり休みなさい。目の下の隈がすごいことになっているよ」
「ありがとう、ございます」
留三郎は雑渡が熱狂的なまでに部下に慕われている理由が少し分かった ような気がした。
「伊作のことをよろしくお願いします」
「うん」
いつの間にか部屋の外には尊奈門が控えていた。
「部屋はこっちだ。必要なものがあれば言ってくれ」
そうして案内された部屋で、留三郎は久しぶりにゆっくりと眠った。
次の日、伊作が居なくなったことに気づいた城では大きな騒ぎが起きていた。伊作だけでなく、側近の留三郎も同じように姿を消している。そして、離れに植えてあった薬草には火がつけられたのか、根こそぎ全部枯れていた。
「タソガレドキの仕業か?」
「そうに違いない」
「今すぐ兵を集めろ!」
すぐさま兵が集められ、戦の準備が整えられる。こうしてふたつの城の戦いが始まった。
戦のため人の少なくなった詰所で、留三郎は伊作の様子を見ていた。伊作はまだ目を覚まさない。もう今日で三日が過ぎた。
戦局はやはりタソガレドキの有利に進んでいるらしい。用意されていた毒薬は、 伊作の作った薬によって無効化され、徐々に相手は厳しい戦いに追いやられている。この様子だとあと数日で決着がつくのではないかと、昨晩伊作の様子を見るために帰ってきた雑渡が言っていた。
相変わらず伊作は白い顔をして、すやすやと寝息を立てている。もしかしたら、ここ最近ろくに眠れていなかったせいで、回復に時間がかかっているのかもしれない。このまま自分の城が堕ちていく様を見ずに済むのならそれでいいとも思った。いくら酷い人達だったとはいえ、血の繋がった父や叔父、そして若様と慕ってくれていた家臣たちが死ぬのは辛いだろう。
結局、戦はタソガレドキ有利のまま決着がつき、伊作の肉親たちは戦いのさなかで命を落としていった。城も多くが焼け落ちて、もう見る影もない有様だと聞いた。
そして伊作が目を覚ましたのは戦が終わった次の日の夕方のことだった。
「ん……」
小さな声がして、留三郎は本を読む手を止め、伊作の顔を覗き込んだ。
薄い瞼がぴくりと震え、緩やかに持ち上げられる。現れた大きな瞳と目が合った瞬間、留三郎の視界がぼやけた。
「留……?」
まだ状況を理解していないような様子で、伊作が静かに名前を呼んだ。
「伊作っ、良かった」
ぽろぽろとこぼれる涙が伊作の顔に水たまりを作った。
「なんで、僕、生きて……」
「説明は後だ。曲者を呼んでくるから待ってろ」
留三郎は慌てて部屋を飛び出した。あの曲者はどこにいるだろうか。そう思いながら廊下を走っていると、「そんなに急いでどうしたの」と呑気な声が聞こえた。
「伊作が、目を覚ましたんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、雑渡は留三郎よりも速い速度で走り出した。
「伊作くん!」
大きな音を立てながら部屋に入ってきた雑渡を、伊作は瞼をぱちぱちと瞬かせながら迎えた。
「雑渡さん?」
「良かった……」
雑渡が布団の傍らに膝をつき、伊作の手を握る。
「僕、死んだはずじゃ」
「君がくれた解毒薬を使ったんだ」
その言葉に伊作がゆっくりと目を見開いた。
「なぜ」
「伊作くんを失いたくなかったからだよ」
「あの薬はそのために作ったんじゃ……」
「君は作り方も一緒に教えてくれたからね。君に使ったあとで、また一から作り直した」 救われる人たちの中に君が入っていたっていいでしょう?」
伊作の瞳の端から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「戦は、どうなりましたか」
「全部終わったよ。こちらの勝利だ」
「そう、ですか」
伊作が一瞬だけ、つらそうな顔をした。
「でも、君のおかげでこちらの被害は最小で済んだ。ありがとう」
「良かったぁ」
伊作がふにゃりと微笑む。その顔が愛おしくて、雑渡は思わず頬に手を伸ばした。
「君が生きててくれて良かったよ、私は」
雑渡の瞳が小さく揺れる。それはまるで泣いているみたいで、伊作は手を伸ばしてその顔にそっと触れた。
「私をおいていかないで」
「はい」
「ずっと私のそばにいて」
「はい……えっ?」
雑渡が伊作の手を絡め取り、その甲に口付けた。
「伊作くん。私の恋人になってくれる?」
「そ、れは……」
伊作の脳内をいくつもの事が駆け巡る。本来であれば伊作は敵国の残党で、このまま殺されてもおかしくない立場だ。
「大丈夫。君も食満くんも、身分は隠してウチの子になってもらうから」
「ウチの子?」
「うん。尊奈門にビシバシ扱かれることになるかもね」
伊作はその一言で全てを察した。
「そんなの、いいんですか?」
「いいも何も、私が君をそばに置きたいから。これは私の我儘だよ」
そう言われてしまえばもう何も言い返せない。伊作は既に雑渡にたくさんのお願いを聞いてもらったから。
「僕も、雑渡さんの恋人になりたいですっ……」
伊作はぽろぽろと涙を零しながら言った。雑渡は嬉しそうに微笑んで伊作の唇に口付ける。
そんなふたりの様子を見ていた、留三郎が大きく咳払いをした。
「す、すまない留三郎」
「ごめんねぇ」
「伊作はともかく、曲者に謝られると腹が立つな」
留三郎はため息をつきながら、立ち上がって伊作のそばに腰を下ろす。
「伊作。俺もかってに逝こうとしたお前のことを許してないからな」
「え」
「ちゃんと長生きして、幸せになれ。そうしたらお前のことを許してやる」
泣き笑いの顔でそう言った留三郎に伊作が大きく頷いた。
「これからもよろしくな、伊作」
伊作はわしゃわしゃと頭を撫でられて、恥ずかしそうに目を細める。
そんなふたりの様子を雑渡は微笑みながら眺めていた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.