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美味いものは冷めても美味い.zip
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どうしようもない夜
⚠️嘔吐した口でキスします⚠️
堂島家の時計が午前零時を回ったころ。
テーブルの上には、空いたグラスとぬるくなった缶ビールが取り残されている。鳴上は酔い潰れた堂島を寝室へ運び、静まり返った居間へ戻ってきた。
「叔父さん、布団に運んできました」
鳴上が声をかければ、居間にぽつんと取り残されていた足立が、ぼんやりと天井を見上げていた。
「いやぁ、堂島さんって意外と下戸だよねぇ」
間の抜けた声で笑う足立。目尻が赤く、頬はほんのり火照っている。顔だけでなく、声も緩んでいた。そのまま、手元にあった缶をひょいと持ち上げる。
「お、ちょっと残ってる。これ飲んだら僕も帰るねぇ」
鳴上が「もうやめた方が」と言いかけた時には、すでに口に運ばれていた。ビールが喉を通っていく音が、やけに耳につく。上下する喉仏を、思わず見てしまう。
「んっ
……
ぷは。
……
うわ、ぬる
……
」
足立は顔をしかめ、笑いとも呻きともつかない声を漏らす。そんな仕草に鳴上はずっと目を奪われていた。
頬は赤く、呼吸も浅い。唇の端にはビールの泡がくっついていた。ただ酔っているだけなのに、不思議と目が離せない。赤さのせいか、声のせいか、それとも何かもっと別の理由か。自分でもうまく言葉にできないまま、鳴上は息を呑んで足立を見つめていた。
そして次の瞬間、足立の目の焦点がふっと揺れる。
「
……
あ。ちょっと、やば
……
きもち、わる
……
」
片手で口元を覆い、空いた片手をテーブルについて支えながら、足立はゆらりと身体を起こす。
「あ、足立さん
……
!?」
呼び止める声に返事はなく、足立はふらつく足取りのまま廊下へ向かう。トイレのドアが閉まる音がして、居間に再び静けさが戻った。
鳴上は立ち尽くしたまま、耳を澄ませる。時計の針が、やけに大きな音を立てていた。
◇◇◇
トイレのドアを閉めた瞬間、胸の奥の不快感が一気に込み上げる。ぐらりと足元が傾いたような気がして、壁に片手をつきながら便器の前にしゃがみ込んだ。
吐き気は確かにある。けれど、何も出てこない。喉の奥が痙攣して、胃のあたりがきゅっと締めつけられているのに、肝心の吐き出す感覚がやってこない。そのズレが、苦しさと焦燥をいっそう煽った。
「
……
ん、ぁ、でない
……
っ、なんでぇ
……
?」
便器に手をついたまま、喉を押さえる。脈打つ鼓動がやたらとうるさい。脳が熱に溶けかけているみたいに思考がまとまらない。胃のあたりが重く、頭がぐるぐると回る。ひたすら気持ち悪いのに、それをどう処理していいのか身体が分かってくれない。吐きたいのに、吐けない。苦しいのに、何も出せない。
「ん
……
やぁ
……
なに、これぇ
……
」
掠れた声が勝手に漏れる。気を抜くと泣き出してしまいそうだった。酔いのせいで情緒のブレーキが利かない。何も考えたくないのに、考えることだけは止められなくて、視界の端で便器の白が眩しくちらつく。ぼやけた目の奥に涙が滲んで、何かが込み上げてきそうなのに、それでも何も出てこない。
「ねぇ、お願いだからぁ
……
出てよぉ
……
」
喉に指をかけようとするが、うまく動かない。自分の指なのに、まるで他人の手みたいだ。ただ口の中をぐちゃぐちゃにかき回しただけで終わってしまう。
うえっ、と喉が跳ねた。なのに、胃は頑なに何も吐き出そうとしない。息ばかり荒くなって、胃液の苦味だけが口の奥に広がった。
息が詰まって胸の奥が熱くて苦しい。一度吐けたら楽になれる気がするのに、それができない。喉の奥からは情けない嗚咽とえづく音ばかりが漏れていく。
呼吸が乱れていく。吐けないまま苦しさだけが募っていく。汗が額を伝い、頬を滑り落ちる。どれだけ時間が経ったのかも、もう分からない。声を出すたび喉がひりついて、肩が小さく痙攣した。
こんな無様な姿、誰にも見られたくない。でも、誰かに見つけてほしい。そんな矛盾が頭の中をぐるぐる回って、さらに気持ち悪くなっていく一方だった。
「やだよぉ
……
吐けないの、やだぁ
……
っ」
思わず漏れたその声は、居間へ届いていただろうか。
◇◇◇
トイレの方からかすかな呻き声が聞こえた気がした。泣いているような、苦しそうな、か細い声。
「
……
足立さん?」
扉の前で呼びかけてみたが、返事はない。ただ、途切れ途切れの息づかいと、喉から絞り出すような苦しげな声だけが、扉の向こうから聞こえてくる。
様子がおかしい。それだけははっきりと分かった。
「すみません、開けますね
……
」
ノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。そっと押し開けば、便器の前に座り込んでうずくまる足立の背中が視界に入る。
「
……
っ
……
あだち、さ
……
」
思わず言葉に詰まる。足立は喉を押さえ、ずっと肩を震わせている。目は虚ろで、髪は汗で額に貼りつき、指先は頼りなく宙を彷徨っている。どうやら吐けない苦しさに必死で抵抗しているようだった。
「足立さん
……
!」
鳴上は駆け寄り、迷わず足立の背中に手を添えた。シャツ越しに肩の震えが伝わってくる。さすろうとした自分の手もかすかに震えているのを自覚する。
(落ち着け俺
……
今は、とにかく助けなきゃ)
「大丈夫です、吐いたらきっと楽になりますから
……
」
思ったより声が強く出た。必死に聞こえていなかっただろうかと不安になる。けれど足立は、苦しそうに身を丸めたまま、震える声でかすかに漏らした。
「
……
う゛、ぅ
……
はけないの
……
っ、しんどいのに
……
なんも、でないの
……
っ」
かすれた声で絞り出すように、足立が泣き言を漏らす。しゃくりあげるような嗚咽混じりの声。それを聞くだけで鳴上の身体は熱くなる。こんな足立を、見たことがない。それなのに愛おしいと思ってしまった自分を、鳴上は心の奥で咎めた。
「
……
足立さん、すみません。少しだけ
……
口を、開けてもらっていいですか」
そう言って、鳴上は足立の顔を覗き込む。目が合った気がした。でも、その目に焦点はなかった。目尻が濡れて、唇が微かに開いている。
「喉の奥を刺激すればいいって、聞いたことがあります。これで多分、吐けます。楽になりますから
……
」
足立だって不本意なことは鳴上だって承知の上だ。けれど、今の足立は自分で指を動かすことすらままならないのだろう。震えながら鳴上を見上げる焦点の合わない足立の瞳が、すべてを物語っていた。
鳴上は覚悟を決める。小さく息を吐き指先に熱がこもるのを感じながら、そっと足立の口元へ手を伸ばす。
「
……
ごめんなさい、失礼します」
囁くように言いながら、鳴上は自分の指先をそっと足立の唇に押し当てた。ほんのわずかに触れただけで、熱が伝わってくる。濡れた唇がわずかに震え、指先を誘うように、ぬるりと開いた。その感触に、ぞわりと背筋が粟立ち、思わず息を止める。
そのままゆっくりと第一関節まで指を差し入れる。奥へと進む指に、ぬるりとした熱が絡みついた。喉の奥へ届きそうな位置で、粘膜がきゅっと収縮する。
(
……
まずい、これ
……
)
鳴上は興奮が募っていく自分の身体を無視して必死に目を逸らし、ゆっくりと指先を動かした。足立の身体がびくりと跳ね、息を詰める気配が伝わってくる。
「
……
大丈夫です。ゆっくり、深呼吸して
……
吐きたくなったら、そのまま吐いていいですから
……
」
その声は掠れていた。理性が焼けつく感覚を振り払うように、鳴上は指先をゆっくりと押し込んでいく。
「っ、
……
けほっ、ん゛
……
っ」
吐き気が込み上げてきたような、喉の動きと呻き声。
「
……
もう少しだけ、頑張ってください」
再び、指先で喉の奥を撫でる。唾液と熱が絡みつき、じっとりと湿った空気が二人の間に漂う。それは決していやらしい意図などない処置のはずなのに、鳴上にとっては息を呑むほど艶やかだった。
「
……
は、
……
っ、く、ぅ゛
……
っ
……
!」
次の瞬間、足立の身体が跳ねる。鳴上はまだ指を抜かない。ここで加減しては本末転倒だろう、背中を支えて体勢を変えれば、容赦なく喉奥を蹂躙する。
「大丈夫、出してください。俺、ここにいますから」
「っ、う゛
……
やぁ、やら、やらの
……
でも
……
っ、くる
……
っ、う゛、ぇ
……
」
震える声で必死に訴えながら、足立が苦しげに喉を鳴らす。込み上げるものに抗いきれず、とうとう吐いた。鳴上は落ち着くまで足立の背中をさすり続けた。
◇◇◇
便器に沈む吐瀉物を、足立はぼんやりと見下ろしていた。酔いが引き始め、現実の輪郭がじわじわと戻ってくる。酸味の残る口内が不快だったが、それ以上にこの状況そのものへの違和感が勝っていた。背中に押し当てられている鳴上の身体、その一部が。
「
……
ねえ、君」
足立は片目を半開きにして、半信半疑ながら違和感の元を探るべく背後をちらりと見やる。
「もしかして
……
勃ってる?」
声は掠れ、どこか乾いた調子だった。背後でびくりと反応があったかと思えば、逃げるように離れていき、鳴上は慌てた様子で距離を取る。
「っ
……
すみません
……
っ!」
しどろもどろに言葉を紡ごうとする声音に、足立は瞬き一つせずうわの空のまま耳だけ傾ける。
「ち、違うんです、あの
……
っ、いや違わないんですけど、でも
……
っ」
きっと鳴上は顔を真っ赤にして弁解しようとしているのだろう。直接見なくとも分かる。
「実は、俺
……
初めて足立さんを見たのが
……
その、事件現場で
……
えづいてるとこで
……
」
「はぁ
……
?」
足立が返した声は気怠げで、それは最早驚きでも嫌悪でもない。何の感情も乗っていなかった。
「あの時の、苦しそうな顔が忘れられなくて
……
いや、別にそれが良かったわけじゃなくて
……
」
語尾が泳ぐ。必死に繕う声が、それでも止まらない。
「
……
たぶん、俺
……
変なんです、ほんと
……
」
黙っている足立を前に、鳴上はとうとう頭を垂れた。
「
……
すみません
……
気持ち悪い、ですよね
……
」
それは懺悔のような呟きだった。鳴上は自分の指先をぎゅっと握る。吐かせるために足立の口へ入れた指。その湿った感触が、まだ指先に残っているのだろう。
足立は何も返さない。ただ、ゆっくりと瞼を伏せる。
◇◇◇
(ちょうどいいや、潮時か)
理性の戻りかけた頭の片隅で、足立はそう考える。このガキと対立する未来はもうすぐそこまで来ている。これ以上関わったところで、得られるものなんてない。
だったら最後に一つだけ。最低な思い出を置き土産にして、終わりにしてやろう。
足立はゆっくりと身体を起こし、手近にいた鳴上の襟を軽く引き寄せる。
まだ喉の奥に残る酸味は、自分でもうんざりするほど濃かった。アルコールの匂い、胃液の酸味、焼けつくような喉の痛み。そのすべてを含んだまま、足立は迷いもせず唇を鳴上のそれに重ねた。
ぬるく、湿って、不味い。吐瀉物の酸がまだ舌にまとわりつく口内で、わざと口を開き、舌先を滑らせるように触れる。最初は軽くなぞるだけだったが、まるで悪戯を引き延ばすかのように舌を絡めていく。強くもなく、優しくもなく、ただねっとりと、粘着質にまさぐるような舌の動き。
「ん゛ぅ
……
っ!?
……
、ぅ
……
」
鳴上は一瞬ぴたりと動きを止めた。舌に広がる味に、無意識に呻き声が漏れる。眉を寄せ、反射的に顔を引こうとする素振りを見せた。けれど、唇を離そうとはしない。むしろ、押し付けられたそのねちっこい舌に応えるよう、自分の舌を絡め返してくる。
吐瀉物の余韻をまとった舌先が触れているのにもかかわらず、その熱を愛おしむように、震える呼吸をこらえるように。鳴上はただその場に留まり続けていた。
わかってる。きっと最悪な味だ。でも、それでいい。この状況にこれ以上ぴったりな味なんて、他にない。
名残惜しさなんてこれっぽっちもないとでも言うように、足立はゆっくりと唇を離した。唾液の糸が、口の端から伸びて、いやに生々しく艶めいていた。
「うぇ
……
まっず
……
。
……
ははっ、後悔した?」
口角をわずかに引き上げ、足立はしてやったりの顔で、ようやく鳴上の顔へ視線を向けた。唇の端に残る唾液を、わざとらしく舌でぬぐう。
鳴上は声も出せずに俯いたまま肩を震わせていた。羞恥と困惑、そしてどうしようもないほどの昂りがないまぜになって、じっとその場に座り込んでいる。
その下腹部が未だくっきりと形を保っているのを、足立は視界の端で確認した。
「
……
うそ。まだ萎えてないの?」
茶化すように笑って、すっと手を伸ばした。
「
……
へーえ?若いねぇ
……
」
服越しに、膨らんだそれを指先で軽くなぞる。びくりと鳴上の身体が跳ねた。
「ねえ
……
僕が吐くの、手伝ってくれたでしょ?
……
今度はさ、僕が抜くの手伝ってあげよっか?」
その言葉は優しさの皮を被っていて。だけど、中身はどうしようもなく意地悪だった。
「おあいこってことで、さ」
意味ありげに口元を緩め、鳴上の反応を楽しむように一拍置く。それから、耳元にそっと吐息を落とした。まるでこの熱が冷めないうちに、と言いたげに。
「
……
あ。でも、もうトイレは勘弁してね?」
一瞬の沈黙のあと、足立の視界がふっと揺れた。鳴上が立ち上がり、力任せにその腕を掴んだからだ。掴む力は強く、それでいて震えている。理性と欲の狭間で揺れながら、それでも選んだのは足立の腕だった。
「
……
っ、俺の部屋で
……
いいですか」
息をひとつ呑んで、鳴上は掠れる声を絞り出す。言葉を選ぶ余裕などとうに失われていた。焦がれるような鼓動はまるで胸の奥で暴れているようで、声にまで滲む。足立は抵抗もせず、肩をすくめてふっと笑う。
「
……
あーあ。後悔しても知らないよぉ?」
手を引かれるまま歩き出す。先導する足取りはぎこちなく、しかし迷いなく速い。引かれる手がじっとりと熱を帯びているのが妙に可笑しく思えた。
静まり返った夜の家に、階段を上がる足音だけがいやに鮮明に響いていた。
どうしようもない夜だ。けれど、きっと忘れられない夜になる。そんな確信が、二人の胸に燻っていた。
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