やまだ
2026-01-20 20:46:49
1542文字
Public 羅小黑戦記
 

No title

2021.04.20 20年の谷雨ネタ

 これまでシャオヘイには文字の読み書きを教えてきたつもりだったが、鉛筆なり筆なりを持たせてみるとふっくらした手は紙いっぱいに絵を描こうとする。
 まだ興味がないのだろう。ムゲンも一応手ほどきをしてはいるものの、そこまで気は入れていない。天気の悪い日、思い出せば屋根の下で軽く墨を磨る程度だ。
「待てシャオヘイ。おまえは体を拭きなさい」
「濡れてない!」
 なので今日は出遅れてしまった。
 ムゲンが濡れた傘を畳むあいだに駆けて行った子の、黄色い雨合羽を着たままの背が廊子にちまりと丸くなっている。玄関から点々と続いた雨だれは、合羽の裾から覗く尻尾が終着点になっていた。
 ちろちろ揺れるたび廊子に小さな滴が散る。散歩の帰り道で拾った枝を使って、泥の上にのびのびと線を引いているようだった。
「ね、師匠こっち来て! 見て、消えちゃうから! 早く! ねえってば!」
「今行く」
「すぐー!」
 はしゃぐ声に真上からバスタオルを被せてやって、もがく小山越しに地面を覗きこんだ。シャオヘイが大急ぎで描いた似顔絵らしきものは、輪郭がさっそく雨で滲みだしている。
「よく描けてる」
 歪んだ円の中に小さな丸と逆三角形がばらばらと配置されている。円の左右にぐっと伸びた、雨のせいで消えかけの直線が髪だろう。
「でしょ!」
 タオルから抜け出たシャオヘイの頭を、合羽のフードが滑り落ちる。やや遅れてぴんと立った猫耳の下で大きな目が輝いていた。
「これね、さっきの師匠だよ」
「さっき?」
「さっき。帰り道、師匠ずっと笑ってた。なんで?」
 なんでと訊かれてもそもそもの心当たりがない。瞬いてから少し首を捻った。
「ずっとではないだろ」
「ずっとだよ! ぼくずっと見てたもん。師匠ずっとこの顔してたってば」
「この顔を……
 シャオヘイが木の枝で彫った溝には、もうたっぷりと雨が流れこんでいる。でたらめなムゲンの顔が泥で埋まりかけて、そのたびシャオヘイがむきになって描き直すことの繰り返しだ。頑張っているが、この雨では翌朝まで残せないだろう。
「自分は描かないのか?」
 ううん、と枝を手にしてうなる子の横に胡坐を組む。
 目は地面に向けたまま、シャオヘイは当たり前のように傍らのムゲンへ寄りかかってきた。乾いたタオルの内側から春の雨の匂いが立ちのぼる。
「どうしよう。師匠、ぼくもいたほうがいい?」
「ああ」
 ムゲンが頷いたのは、それが当たり前だと思ったからだ。シャオヘイの隣に、ムゲンの隣に、それぞれがいる日常は、もうすっかりそう続くべきものとして体に染み入っている。
「ふうん。……さびしいから?」
「心配だから」
 にやっと笑うシャオヘイを、片腕でタオルごと抱き寄せる。どうせムゲンが後始末をしてくれるから、と濡れたままでいる甘えたを放ってひとりになる気は当分ない。
 きゃあきゃあ笑う子の水気をよく拭ってやって、脱がせた合羽をタオルに包んだ。立ち上がるムゲンをまだ笑みの乗ったあどけない目が追いかけてくる。
「しょうがないから、師匠の隣にぼくも描いてあげる」
「そうか。描けたら見せてくれ」
 うん、と嬉しそうに笑う子へ微笑み返す。泥中のムゲンは、どうやらひとりのまま雨に洗い流されることにはならなそうだ。
「シャオヘイ」
「なに?」
 廊子で勇ましく枝を振り上げるシャオヘイのおかげか、ほんの僅かに雨足が弱まったような気がする。小さな合羽を抱えてムゲンは微笑んだ。
「墨を磨ってやるから、それが済んだら紙にも描いてくれないか。消えないように」
「うん!」
 口をきゅっとすぼめて眩しいほど笑う子のため、そして何より自分のために、その日ムゲンは久しぶりにたっぷりと墨を磨った。