やまだ
2026-01-20 20:08:53
2142文字
Public 羅小黑戦記
 

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2021.03.18 風息と小黑

「シャオヘイ、シャオヘイ? どうかしたのか?」
「え……
 ぼうっと顔を上げると心配そうなフーシーと目が合った。地面に膝をついて、優しく頭を撫でてくれる。
「疲れたか? シャオヘイ、無理はしなくていいんだぞ」
「あ……
 そっか、と思う。そうだった。自分はシャオヘイという名前なのだ。人間たちに追われていたところをフーシーに助けられて、この緑深く静かな森にやって来たのだ。
 ずうっと長いことシャオヘイにはヘイショしかいなかったから、ほかの誰かに名前を呼んでもらうのは初めてで、なんだか慣れない。シャオヘイという音がまだ耳に馴染まなかった。
「へ、平気……なんでもない」
 フーシーに着せてもらった服は草木のいい匂いがした。酸っぱくてべたべたする変な汁もついていないし、肌の上を柔らかく滑る。
 暖かなその服を両手で揉みしだいて俯くシャオヘイを、フーシーはちょっと笑ったようだった。いやな笑い声ではなかった。
「なら、いいんだが」
 おいで、と背を押してくれる手に、嬉しいのに気後れしてしまう。シャオヘイはシャオヘイ以外の妖精を見たのも、助けてもらったのも、優しくしてもらったのも、全部初めてだ。落ちつかない。尻尾の付け根に余計な力が入って気疲れする。
「ロジュは気のいい男なんだが、よすぎるのが問題だな。馴れ馴れしかったか?」
……ううん、そんなことないけど……
 さっき挨拶された、快活な妖精を思い出す。もうひとりいた妖精と一緒に森の奥へ行ってしまったからあまり話してはいないけれど、嫌だとは思わなかった。
「逆にテンフーやシューファイは無口すぎるかもな。
けど、あいつらもロジュに負けないくらい優しいんだ」
……ん」
 本当はフーシーに訊いてみたいことがたくさんある。
 どうして助けてくれたのか、人間の街からこの美しい場所へやって来れたのはどんな不思議のせいなのか、こんな清潔な服をもらっていいのか、そして、これからシャオヘイはどこへ行けばいいのか。
 疑問は全部喉元までせり上がって来ているのに、どうしてもそこから言葉になりはしないのだ。自分の一部のようなヘイショとしかお喋りをしたことがないから、どうやって話しかけたらいいのかがわからない。
 あんまりおかしなことを言ってこの優しく親切な妖精を困らせたらと思うと、身が竦む。嫌われたくない。
「シャオヘイ」
 ただ人間の世界をさまようだけだったシャオヘイをシャオヘイにしてくれた恩人は、森を負って立つ姿がよく似合う。木溝れ日のような目でまっすぐシャオへイを見つめてくれる。
「木登りはできるか?」
「え?」
 思いがけないことを尋ねられたので声がひっくり返ってしまった。
 驚きで瞬きを繰り返すシャオヘイを、フーシーは微笑んでじっと待っている。初めて会ったときから、フーシーは一度もシャオヘイを急かしたりしなかった。
「で……できるけど」
「そうか。凄いな、その歳で」
 シャオヘイが両手の人さし指をつんつんやりながら答えると、にっこり笑ってフーシーは近くの木に手を置いた。
「俺がシャオヘイくらいのときは、木登りが下手でさ。
このくらいの木によじ登れるようになるまで随分かかったよ」
「そうなんだ」
ちょっと意外だった。フーシーは植物を操る妖精だから、きっと木登りも得意なのだろうと当たり前に思っていた。
「よく幹から滑り落ちて尻餅をついてたよ。一回尻尾を下敷きにしたこともあったな。あれは痛かった」
「フーシーも、変化しても尻尾が残ってたことあったの?」
「ああ。尻尾どころか、髭をしまうのも忘れてたことだってある」
「ええ? ちょっと見てみたいかも……
 はっとして両手で口を塞いでも、もう遅い。フーシーに聞こえたに決まっている。シャオヘイがおそるおそる目を上げると木漏れ日の目が待ち構えている。
 楽しそうにきらきらと、その目は輝いていた。
「やっと笑ったな。シャオヘイ」
 シャオヘイたちの頭上で梢が揺れる。ぱらぱら降りそそぐ光の雨と同じ柔らかさで、フーシーはシャオヘイの頭を撫でてくれた。
 どんな顔をすればいいかわからないシャオヘイがまごつくうちにその手は離れていってしまう。
「さ、行こう、シャオヘイ。ロジュとテンフーだけに任せておくと、食べきれないくらいの肉を狩ってきそうだ。俺たちで見張ってないとな」
「う……うん」
 前を歩く背に、シャオヘイも小走りでついていく。
 胸がどきどきするのはきっと、人間のかたちで走るのにまだ慣れていないからだ。
 俺たち、とフーシーが口にした瞬間くすぐったいようなあたたかいような気分になったことを伝えたかった。そうしたらフーシーはまた笑ってくれる気がしたからだ。
 けれどシャオヘイはこの気持ちの名前を知らず、言葉にすることができない。
 いつかできるようになるだろうか。木を登ろうとして尻尾を踏んづけていたフーシーが今は難なく木々を操っているように、もっと時間が経ったらシャオヘイも自分の気持ちを上手に伝えられるようになるだろうか。
 だから今はまだ、どきんどきんとはしゃぐ胸の内側へ、言葉にできないこそばゆさを大事に大事にしまいこむのだ。