空はビルの隙間から申し訳程度に見えるだけだ。地面は灰色のコンクリートに塗りつぶされて、人工的に整えられた木々の向こうには車のエンジンがうなる音がひっきりなしに響いている。
シャオヘイはそんな世界で上下左右に首を巡らせることばかりに夢中で、肝心の前方に対する注意が著しく知けている。あちらこちらによろめいては行き交う人々の足下へまろび出てゆく子を、ムゲンはたびたびすぐ傍へ引き寄せてやらねばならなかった。
「少し落ちつけ。街は逃げたりしない」
「師匠、ね、なんでここ人間がこんなにたくさんいる
の? ここも龍遊?」
「違う。別の街だ……シャオヘイ。シャオヘイ、待ちなさい。走るんじゃない」
「ね、ね、師匠、あっちからいい匂いする!」
何度目かでシャオヘイの襟を引っ掴み、引き寄せる。
いっそ抱きあげてしまおうかとも思ったが、それは完全にムゲンの都合の押しつけだ。意外と敏いシャオへィの機嫌を損ねてしまうだろう。せっかく楽しんでいるのだから猫になれとも言いだしにくい。
人間は嫌いだ、と、最近のシャオヘイはそれを口にも態度にも出さなくなってきた。思うところがないわけではないだろうが、街や村を通り過ぎるときは楽しそうにするし、多少人見知りはしても自分から話しかけることもある。
じわじわと、確実に、今シャオヘイの世界は広がっている。よいことだ。それをムゲンの不便のためなどで妨げたくはない。
「楽しそうだな」
「うん! 大きい街って、ぼくの知らないのばっかりある……ほら、あれとか! ね、ねねね、師匠、あれ何!」
「シャオヘイ。走ると人にぶつかるから」
とはいえ一歩進むごとに二歩退がるような現状はよろしくない。一旦人ごみから離れた場所でシャオヘイを落ちつかせ、都市での歩きかたを話して聞かせたほうがいいかもしれない。
やれやれ、と内心ひとりごちて、それから誰に見せるでもなく口元を緩めた。
ただ街を通り過ぎるだけが、シャオヘイといるとこれほど困難になる。それが愉快で、そしてムゲンの胸をたまらなくあたためた。数百年旅をしていながら、供にひとり子どもが加わった途端に増えたままならなさは、日々を新鮮に彩る。
シャオヘイの世界が広がるたびにムゲンの見る世界も明度を増すのだ。
「何笑ってんのさ? 師匠、あれ何ってば」
指先が温かくなって、目をしばたかせた。そうして俯く。ムゲンの手をふっくらした指が握りしめている。
不思議そうな顔のシャオヘイが、片手でどこかの商店を指さし、片手でムゲンの手を引いている。
もう一度瞬いた。
「師匠? どうしたの? お金落とした?」
「……いや、ちゃんとあるよ」
笑うしかなかった。シャオヘイの短い指が懸命にムゲンの手をとっているさまを見下ろしながら、ふっと肩の力が抜ける。
初めからこうすればよかったのだ。
「シャオヘイ、あれとはどれだ」
「あれだってば。あっち」
ムゲンの手を引く力は軽いものだ。けれど足は促されるまま、素直にシャオヘイと同じ方向へ動く。
こうするだけでよかったのだ。ムゲンの手のひらで包めばすっかり隠れてしまうような小さな手のほうが、ふたりで進むすべをよほど知っている。
「そうか」
ほう、と漏らした吐息は一瞬で人いきれに紛れて霧散した。
小さな、少し湿って体温の高い手をムゲンのほうから握りなおす。シャオヘイの半歩後ろに位置取ると、大きな目が訝りながら上向いた。どうして隣に並ばないの、と問う視線に笑みで応じる。
「じゃあ連れて行ってくれ、シャオヘイ」
「ぼくが?」
驚いてまるくなる目がすぐに輝きだした。星の穴が得意げに膨らんで、唇は笑いだすのをこらえそこねてむずむずしている。
「……し、しょうがないなあ! 師匠、ちゃんとついてきてね!」
「ああ」
「人がいっぱいいるんだから、勝手にどっか行かないでね! ぼくの手離しちゃだめだよ!」
「ああ」
「さっきのいい匂いしたとこにも、行ってもいい?」
「もちろん」
薄い胸を張り、しっかりとムゲンの手を引いて歩きだす子は、もうよそ見をしなかった。注意深く前を見て、器用に通行人の隙間を縫っていく。
「……こうすればよかったのか」
「え? なんか言った、師匠?」
ぐるんと頭を巡らせ、シャオヘイが振り返る。ムゲンは無邪気な視線よりも少しだけ上を見ながら返事をした。
「なんでもない。独り言だ」
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