家の裏にある岩に跳び登り、こんもりと繁って濃い影を落とす大樹の幹を坂代わりにして歩く。ぽん、ぽん、とシャオヘイが二回ジャンプして辿りつく平坦な岩場は頭上から落ちてくる滝のおかげで涼しく、そしてしっとり苔むしている。
もう何度かムゲンの霊域に入れてもらっているけれど、こんな場所があるのは知らなかった。
澄んだ水が落ち、緑陰がそよぎ、ほんのりと明るい。
この場所にはシャオヘイと同じくらいの大きさの石が四つ、点々と置かれていた。どれも柔らかい苔が生えていて、シャオヘイの手のひらをくすぐって笑うよう
だ。
「へへ。綺麗だね、ここ」
つられて笑いながら後ろを振り返る。シャオヘイのあとから登ってきたムゲンは、何も言わずにちょっとだけ微笑んだ。
おいで、と言われたからいつものようにムゲンの霊域へ飛びこんで、登ってみなさいと言われたので初めて家の裏に回ったのだ。いつも家の中で遊んだり水辺で泳ぐことが楽しくて、上を気にしたことなんてなかった。
「ここで何するの?」
「久しぶりに挨拶をしようと思って」
「挨拶?」
「おまえのことも紹介しておきたかったし」
「紹介?」
まず右に首を傾げ、次は左に首を傾げたシャオヘイにまたムゲンは笑った。笑ったまま膝を揃えて岩に座し、小さな包みを横に置いて袖を払う。
ぼうっと突っ立ったままのシャオヘイの横で静かに顎を引き、ムゲンはそのまま四つの石へ向かって深く深く頭を下げた。
「し、師匠? 師匠、どうしたの?」
出会ってからこれまで、ムゲンが誰かに頭を下げるところなんか見たことがない。シャオヘイが肩にしがみついて揺さぶっても、よじ登って背中にへばりついても、大きな体は随分長いことじっと蹲ったままだった。
「シャオヘイ。降りなさい」
「師匠どうしたの? 何してたの? お腹痛い?」
「挨拶してたんだ」
起き上がった背中から、手足を使ってよじょじとムゲンの脇を周り、今度は腹側に移動する。いつもなら胡坐でいるムゲンの足のあいだにどしんと尻もちをつけるのに、今日は足を閉じて座っているからそれができない。腿に跨って上を見る。
「挨拶? 石に?」
ムゲンはちらっとシャオヘイを見下ろして笑った。
「ああ。新しい弟子を連れてきた、と」
「なんで? なんで石に挨拶するのにおじぎするの? 師匠いつもは誰にでも偉そうじゃん」
「……そんなことはない」
目が少し横を向いて不満げだ。シャオヘイが追いかけて目を合わせようとしても、また別のほうを向いてしまう。ひょっとして自覚がないのだろうか。
「ねえねえ。ねえってば。ね、師匠」
手足をばたつかせてムゲンの衣装を引っぱると、やっと目線がシャオヘイの上に戻ってきた。
「ぼくもおじぎしたほうがいい? 師匠の弟子だって挨拶する?」
このムゲンが頭を下げたのだ。どうして石相手にそうするかはわからないけれど、師がやったなら弟子のシャオヘイだって同じことをしたほうがいいのではないだろうか。
「いや、いいさ。今日はまだ」
「まだってどういうこと?」
「今日は私がシャオヘイのぶんも挨拶したから」
大きな手がひょいっとシャオヘイの体を持ちあげて、またもとの高さに戻ったときにはムゲンは普段の胡坐
に戻っていた。
定位置にすとんと下されるとやはり落ちつく。力を抜いてくつろぐシャオヘイの手に草餅がひとつ乗せられた。
迷わずかぶりつく。柔らかくもちもちして、噛むごとに甘味が強くなる。
「来年はシャオヘイも一緒に挨拶をしよう」
「来年なの? ぼく明日でもいいよ」
見上げるとムゲンも草餅を食べていた。さっき脇に置いた包みはこれだったようだ。
「きっと来年のおまえならこの石の意味を知っているだろう。それまではいいんだ」
「ふうん……」
ムゲンの懐で草餅を噛みながら、それぞれの石を眺める。今はどうやってもただの石にしか見えない。
来年はきっと違うように見える、とムゲンは言った。
来年も一緒にいて、来年もここに一緒に来るのだ、と、シャオヘイはムゲンにそう言われたのだ。口が笑いたがってむずむずする。
「ね、師匠?」
「うん」
口いっぱいに草餅を頬張っているムゲンを仰ぐ。
「まだ意味はわかんないけど、でもやっぱりぼくもおじぎしてもいい?」
ムゲンがふっ、と微笑んだ。なんだか嬉しそうだ。
なぜこんな顔で笑っているのかも、きっと来年のシャオヘイならわかるのだろう。それが少し楽しみだった。
「いいよ」
口の中を空にして、指先についた粉を舐めとると、シャオヘイはムゲンの懐で勢いよく頭を下げた。
「師匠の弟子のシャオヘイだよ! 来年、また師匠と一緒に来るからね!」
下げたままの後頭部に乗ったのはムゲンの手だ。見えなくたってそれくらいわかる。何回も撫でてもらっているのだ。
「……私の言った通りだろう?」
ただ手の感触はわかるのだけれど、頭の上でムゲンが穏やかにこぼした呟きの意味は、シャオヘイにはさっぱりわからなかった。
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